2020.05.03

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「本当の『岩』となる」

中村吉基

イザヤ書62:1〜5ヨハネによる福音書21:15〜19

 今日の個所で主イエスはペトロに3度「わたしを愛するか」と問いかけます。なぜ3度も主が問われたのかはよく判りませんが、一説に十字架の主イエスをペトロは3度否認したからだとも言われています。しかしこの3度の「愛するか」という主の言葉は厳密に意味が違っているのです。このやり取りには「アガパオー」と「フィレオー」という言葉が使われています。「アガパオー」というのは「アガペー」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、神さまの愛、すなわち、徹底的に相手を思いやる、愛する愛を指します。そして「フィレオー」友情とか兄弟愛などを指します。主イエスは15節の最初の問いで、「アガパオー」を用いて「あなたはわたしを愛するか」と問います。しかしペトロの答えは「フィレオー」で答えています。2回目のやり取りも同じでした。つまり、主イエスが、「わたしを大切に思っているのか」と尋ねるとペトロは「わたしはあなたが好きです」くらいの返答をしているのです。そして3度目には今度は主イエスが「フィレオー」で尋ねています。なかなか「愛しています」と言えないペトロに主イエスの側から歩み寄られた場面です。

 これまでペトロといえば、熱血漢で、誰よりも早く「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16・16)と信仰を告白し、人々が主を理解できず離れ去ったときにも彼は、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68,69)と言いました。また最後の晩餐の席上では、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とも言ったペトロでした。しかし魔が差したとだけでは言い切れないでしょう。ペトロは主が十字架にかかられたときに主の仲間であると嫌疑をかけられ、そこで思わずイエスを「知らない」と3度も否認してしまったのです。あれほどまでに主を強く愛していたペトロがなぜなのかと思わずにはおれません。

 一方でこれは私たちの姿をあらわしています。人間は弱く、脆い存在です。すぐに気移りし、熱しやすく冷めやすいのです。私たちはペトロの姿に自戒せねばなりません。ですからペトロは「わたしを愛するか」とこの時、主から尋ねられても、顔を上げることもできず、蚊の鳴くような小さな声で、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えざるを得なかったのです。私たちはここから主イエスの厳しさと優しさの両方を知ることができます。この主イエスの愛が、ペトロを再び立ち上がらせました。

 主イエスは最初の問いで「この人達以上に」と言われました。この言葉からは二つの意味が推測できます。一つは他の人達がわたしを愛する以上にあなたはわたしを愛するか、という意味でここを読みます。他の弟子との比較でペトロの純粋さ、熱意、誠実さを求めているのです。あとの一つはほかの人びとを愛する以上に主イエスを愛せるか。人に対しての愛情と主イエスへの愛の重さを比べているのです。主イエスへの愛が「人に対しての愛」よりも大きいかという問いかけです。「この人達以上に」という問いは、決して人への愛をおろそかにするのではありません。主イエスへの愛を強めて行くことが人に対する愛を深めることになることを教えるのです。

 さて、皆さんが誰か、それも師と仰ぐような目上の人から同じことを何回も繰り返して言われたらどう思うでしょうか? ペトロは、まず初めに「愛しているか」と聞かれた時に「そうではない」という思いもあったことでしょう。分かりきったことを聞かれたということでの反語ではなく、ペトロがいのちを賭けて従った主イエスが十字架で死んでしまったことです。しかし、何度もこの問われる中で自分自身を見つめなおしたのではないでしょうか。死まで従っていくことができなかった彼です。彼自身が持つ人間的な弱さをも見つめさせられての悲しい気持ちもあったのではないでしょうか。

 しかしこの3回の問いかけは、ペトロを徐々に癒して立ち直らせていくものでした。ゆるされて立ち直っていく過程であり、主イエスの問いかけは3回で終わってしまうことなく、その人がその人として立ち直るまで何度も何度も呼びかける愛なのです。主イエスがなぜ「愛しているか」と呼びかけるのでしょうか。それは私達をお互いに愛において豊かな者にしていく問いかけなのです。

 そして主イエスはペトロに一つの課題を与えます。それが「わたしの羊を飼いなさい」というものでした。主イエスを裏切って逃げてしまったペトロですが、復活した主イエスから、主イエスを信じる人びとのリーダーとして、大切にお世話をするように、という使命を与えられます。しょぼくれ返っていたペトロだったかもしれませんが、主イエスはちゃんと敗者復活戦に出してくれたのです。最初にもお話しましたが主イエスが生きている時には、とんちんかんなことばかり言っていたペトロも、この日、主イエスに出会ってからは、がらりと人生を変えました。熱心に主イエスの教えを宣べ伝えた、と伝えられています。

「わたしの羊を飼いなさい」。

 この主イエスの言葉はペトロに特別な使命を与えました。キリストの教えである福音を宣べ伝え、信徒たちを導きなさい、という主の使命です。ペトロが原始キリスト教会の礎を築く指導者になっていったことは使徒言行録などを読むとわかります。あのローマのヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂はこのペトロの墓の上に建っている教会です。今も天国の鍵を持ったペトロの像が、祭壇の脇に置かれています。カトリック教会では初代のローマ教皇としてペトロを見ています。しかし、それは後にそうなっていったことであり、ペトロも貧しく、人々からは蔑まれた主イエスと同じ道をたどって最後は伝説では紀元64年ごろ皇帝ネロによって捕らえられ、殉教して亡くなります。主と同じではもったいないからと、十字架に逆さまに磔になったという逸話もあるほどです。真偽はわかりませんが彼らしいエピソードです。そしてこのあと主イエスが彼の将来を暗示して言われます。

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 私たちもこのように感じることはないでしょうか。若いときには好きなようにできたこともだんだんとそうは行かなくなります。望んでいないことが起きたり、年齢や病気や困難でうまく運ばなくなることも起きて参ります。しかしその中にも「神の栄光」を見ることによって私たちは希望を持つことができるのです。

 ここでひとつの疑問が生まれます。それは偉大な指導者であったペトロが自分の失敗や再起していく姿は、普通だったらあまり多くの人に知られたくない、すなわち聖書の記事から削ってしまうこともできたはずなのです。しかし、このような失敗を犯した人間でさえも、いやそういう人だからこそ、主イエスは愛され、神様が力をくださったことを証明するためにこのエピソードが残されているのでしょう。

 熊野義孝(1899〜1981)先生という神学者がおられました。この熊野先生の言葉をご紹介しますと、

「ペトロは失敗によって岩となった。失敗にもかかわらず、ではない」。

 ペトロという名の意味は「岩」です。神さまは失敗を通しても、ご自身の栄光をあらわす者としてくださいます。彼は文字通りその後の人生を岩として教会の礎となり、捨て身で福音を伝える者になったのです。


 
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