2019.12.08

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「怒りを主に委ねて和解の勤めを」(山上の垂訓 講解説教 第4回)

陶山義雄

エゼキエル書22,23-31マタイによる福音書5,21-26

 本日は待降節第2の主日を迎えました。今年も救い主・主イエス・キリストのご降誕を覚え、それぞれの心に主をお迎えする準備の時を過ごしています。 私が担当する礼拝では、この所、「山上の説教」をテキストとして、講解説教を勤めておりますが、本日はその4回目となります。第1回目が「祝福の招きについて」、第2回目が「キリストに従う者の特質・地の塩、世の光であること」、第3回目が「イエスの教えである掟はユダヤ教に勝るキリスト教律法であるべきこと」を聞き、本日より、いよいよその本論に入ろうとしています。それは旧律法と比較してイエスの教えを掟とするその内容が、如何に優れているか、旧律法を如何に凌駕するものであるかを論じる、本論に入ります。全部で5つ(姦淫と離縁を二つ分ければ6つ)の反対命題(アンテイテーゼ)が繰り広げられている中で、本日はその第1の反対命題である「汝、殺すなかれ」について取り上げられています。

 ローズンゲン(日々の聖句)で本日の待降節第2主日に載せられている聖句はルカ福音書21章25〜30節でした。ここでは、人の子・メシアが再び来る、その予兆を見分ける方法が語られた後、「天地は滅びるが私の言葉は決して滅びない」云うこの聖句に基づいて説教を準備することも考えたのですが、山上の説教は「正に滅びることのない主の御言葉」であることを、深い感動をもって受け止め直したので、講解説教の順序に従って本日のテキストに致しました。主を待ち望む私達が、今日、頂くのに相応しい「滅びることのない御言葉」であることを覚えて、本日は、これより山上の説教第5章21節以下に注目したいと思います。

 「あなたがたも聞いている通り、昔の人は」と云う出だしの言葉は、これ以後にも出てきます。モーセの十戒は聖書の民であれば、幼少の頃から安息日ごとに会堂で教えられ、また、折に触れて伝え聞いていたことを指しています。「昔の人は」と云う付け足しは如何にも挑戦的に聞こえます。昔は通用した掟であるが、今は違うのだ、だから良く聞け、と迄語っているように聞こえます。そして十戒の第6戒が挙げられています。しかし、注目しておきたいことは、第1から第5まで、つまり、十戒の前半について反論や批判の言葉はマタイ記者の心のなかには無いことが分かります。第1戒の「神は唯一人であること」、第2戒の「姿・形・像をもって神を描いてはならない事(偶像禁止)」、第3戒の「神という名前を不必要に唱えてはならないこと」、第4戒の「週一日の安息日を守ること」、第5戒の「両親への扶養の勤めを果たすこと」これら5つについては、キリスト者も当然守るべきこととして前提を置いたうえで、これより新律法の提示に入っている、と云うことです。

 本日のテキストに入る前に、ロマ書13章8〜10節を見ますと、パウロも十戒の最初から第5までの戒めについては言及することなく、第6戒以降を問題にしていることが分かります:

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

 本日のテキストに帰って、マタイ記者が引用した十戒の第6戒について「殺すな」に続く言葉通りの文書は他にありません。「殺すな。人を殺した者は裁きをうける。」私達は現代社会の慣わしに照らして、死罪、死刑を指しているものと判断致します。十戒には死刑の条文はありません。しかし、十戒が収められている出エジプト記では、十戒が記されている20章の直ぐ後の、21章12節以下で「死に値する罪」が挙げられています。曰く「人を打って死なせた者は死刑に処せられる。」そればかりではありません。自分の父や母を打って死なせた場合は当然のこと、両親を呪う者も「必ず死に処せられる」と記されています(同21:17)。「殺すな」と云う規定の一つ前に掲げられている「父、母を敬え」と云う戒めに背くのですから、「呪う」と云うのは、ただ単に言葉で罵るばかりでなく、「両親への扶養の勤めを」怠っている子供らへの処罰(死罪)を指していると思われます。

 マタイ記者は殺人・すなわち、死罪という旧約の規定に対して、更にラデイカルな掟を提示しています。「兄弟に腹を立てる」という行いだけで、「裁きを受ける」、と云い、それを説明する形で「兄弟に『ばか』と云う者は、最高法院(であるユダヤのサンヘドリン)に引き渡され、『愚か者』と云う者は、火の地獄に投げ込まれる」(同5:22)とマタイは述べています。一見すると、マタイ教会の掟である新律法は旧約時代の旧律法よりも厳しく定められているように見受けます。殺人はおろか、兄弟に罵倒の言葉を浴びせるだけで、地獄に落ち、地獄の火に焼かれると云うのは、驚くばかりです。私は戦時中、新潟県刈羽郡高田村にある長泉寺へ縁故疎開した経験があります。本堂には東京から3家族がお世話になっておりました。毎朝5時には和尚さんのお勤めの読経で目が覚め、9歳の私も般若心経を暗唱できるようになった程でした。本堂の一隅には地獄絵図が掲げられており、エンマ大王が煮え湯の窯に人々を投げ入れる絵が描かれていて、その前を通るのが物凄く怖かったという体験を持っています。マタイ記者の言葉がこの地獄絵図に重なってしまうのです。

 本日のテキスト・5章22節で「兄弟に腹を立てる(怒る)」時、「バカ」と云ったり、「愚か者」と罵れば、その言葉の違いによって裁きの重さが変わる訳ですが、翻訳された言葉から、その違いが分かるでしょうか。そこでギリシャ語の元テキストで当該箇所を読みますと、前者の「バカ」に当たる言葉は「ラーカー」(ρακα)が用いられており、この言葉はイエス・キリストも日常お使いになっていたアラム語をそのままギリシャ文字にしており、その意味は「空っぽ」、「空っぽ野郎」、とか、「まぬけ」を指しています。それに続く後者の「愚か者」の原語は「モーレー」(μωρέ)で、こちらの方はギリシャ語そのもので「鈍い」、「愚鈍な」、「愚か者、「バカ者」と云う意味で使われています。アラム語とギリシャ語の違いの他に、それほど違いを感じません。でも、多分、その時代には相手を罵る言葉として、程度の違いがあったことは推察できるように思います。

 これが、多少、分かるようになったのは戦後、死海写本が発見されてからの事でした。これを残したクムラン宗団には修道院内で守るべき規定として『宗規要覧』があり、この中に宗団内で怒りを行動に移した場合の処罰が記されていたのです。これはイエス時代と重なりますから、ラーカー、モーレーもクムランの規定と関連があると思われます。実際、彼らは「義の教師」に導かれた「義の宗団」と自らを自負しており、マタイ教会が「あなた方の義がファリサイ派や律法学者の義に勝っていなければ、天の王国に入ることが出来ない」(同5:20)と云う所で述べているように、「義」を重んじ、お互いに張り合っていることからも、彼らに勝る教会の掟を「山上の説教」として纏め上げる意図は良く分かります。(クムラン宗団については本日の週報コラムを参照)宗規要覧擦頬榮のテキストに関連していると思われる箇所があります:

「祭司の一人に対して怒って語ったのであれば1か月間罰せられ、多数者の浄めから分離されて一人にされる。もし、誤って語ったのであれば(「愚か者」と語ったのであれば:モーレー?)6か月間罰せられる。殊更嘘をつく者は6か月間罰せられる。祭司を不法に嘲笑する者は(ラーカー?)、それが知れたらば、1年間区別されて罰せられる。・・・」(察2〜3)

 イエスと云う方は納税問答(マルコ12:13〜17マタイ22:15〜22ルカ20:20〜26)や権威論争(マルコ11:27〜33、他)などを読みますと、同じ時代に、もてはやされていた事をもって、例えば、バプテスマのヨハネを引き合いに出して権威の所在を自分から逸らせたり、権力のあるもの(カイサルの肖像が刻まれた硬貨)を引き合いに出して見事に反論する姿があります。今日のテキストでも、クムラン教団で重んじられていたことを逆手にとって相手の生き方を空しくしている様子が伺えます。論争物語で披露された手法を「怒るな」に当てはめてみることも出来るかも知れません。つまり、イエスはクムランの掟にある軽重を逆手に取り、これをひっくり返して掟の虚しさを暴いていると云うことです。私は長年、教育の現場におり、未成年者にこのことを説明する際に、こんな例話を使って説明したことがあります。

 「君たち未成年者は喫煙についての処罰は知っているね。煙草を持っているところを見つけられたら、学校では処罰会議で「戒告」を申し渡されるね。もし、喫煙しているところを発見されたら「停学3日」になるね。そしてまた繰り返し喫煙が発見されたら「無期停学」、更に3回目に発見されたら「退学」の処分を受けるね。でもイエスのこの話ではこうなるだろう。喫煙3回なら「戒告」、喫煙1,2回なら「停学」、たばこを持っているだけのところを見つかったのなら「退学」となる。これを言いながらイエスはきっと笑っているかも知れないね。だって、本当に問題なのは、処罰することじゃないよ。どうすれば、タバコを止められるかと云う事。それも自分の健康をどのようにして大切に守って行くことではないかね。これを聞いて殆どの青年は、「その通り」、と云って笑います。

 同じことが、「人を殺すな」についても云えるのではないでしょうか。殺人を無くす事、それは処罰の問題ではない。死刑と云う処罰が殺人の防止に繋がり、犯罪を抑止する力になる。日本では総理府が行った世論調査で死刑容認論が74%を占めていて、先進国では死刑を存続させている数少ない国になっています。ちなみに、死刑を廃止すべきだとする人は日本では14%にすぎません。1991年には死刑廃止国際条約が発効してから世界の3分の2の国々が死刑を廃止するか、執行を停止しています。カトリックで作家の加賀乙彦さんは講演の中でこう述べておられます:

「この日本で、これだけ技術の進歩も見られ、人間が幸福になったとされている国で、幾つか不思議なことが未だにあります。その一つは死刑があると云うことです。先進諸国の中で、死刑をまだ温存しているのは日本だけです。ヨーロッパの全ての国は死刑を廃止してしまいましたし、アメリカの3分の2の州は死刑を廃止しています。アジアの諸国でも、殆どの国は死刑を廃止してしまいました。廃止の理由は、どんな罪を犯した人にも人権はある、と云うことです。」

 日本では人権思想、人の命を保障する考えが弱いためにこうなっているのでしょうか。他の国と比べて日本人独特の見方に「死んだ人が報われない」と云う考えがあります。殺人を犯した人は「死をもってその命を償う」と云う見方が強くあるように思います。この考え方に加えて、死刑は犯罪抑止になると考える見方も依然として強くあるのではないでしょうか。しかし、殺人が横行してる現状を見ても、死刑が殺人と云う犯罪の防止にはなっていないことは明らかです。

 テキストに帰って、イエス様は死罪という制度では、丁度、喫煙が処罰では解決しないように、殺人という犯罪も死刑制度では解決しないことをご存知でした。そこで23節以下で和解の勧めと、裁判の虚しさを教えておられるのです。しかも、「祭壇の供え物を捧げる」ごく卑近に行われていたユダヤの慣わしを例に上げながら教えておられます。捧げ物の慣わしで最も一般になされていたのは「贖罪の捧げもの」でした。旧約時代から受け継がれていたことで、ユダヤ歴の大晦日・チスリの月の10日が贖罪日であり(太陽暦では9月から10月)、人々は罪の悔い改めのために断食し、罪の贖いのために神殿へ犠牲の捧げものをする慣習がありました(レビ記16章民数記29章)。捧げる物は置かれた状態、立場や身分によって細かい規定がレビ記などに書かれています(レビ記4章ほか)。イエスの見解によれば、神に捧げれば罪が赦される訳ではない。もっと大切な事は、当事者同士が仲直りし、和解することである、と云うことです。「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。」(同5:24

 もし、裁判にかけて自分の正当性を立証しようとすれば、「相手もあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢獄に投げ入れられるかも知れない。はっきり言っておく(αμήν λέγω υμιν:イエスの強調語)最後の1コドラント(ローマの青銅貨・最小単位で1デナリの64分の1)を返すまで、決してそこから出ることは出来なくなる、」 だから、何よりも先ず、憎み、争い、裁判を起こし、財産を無くしたり、死刑に至る前に、相手と仲直りをし、和解をしなさい、と云うのがイエスの勧めであり、律法を置くことさえ要らなくなる。このように掟が生み出される以前の、そもそも掟が何のためにあるのか、と云う根本にまで掘り下げてイエスは論じておられます。(根本である根のことを「ラディックス」とラテン語で云いますが、ラディカル、つまり根本的、当初の次元まで掘り下げると掟の原点が見えてきます。)それは他者との交通整理であり、円満な解決法であり、他者と融和し、仲良く暮らすために掟と云うものは存在しているのです。そこに立ち帰れば、命を奪う死罪などは存在せず、和解と融和を目指すことが本物の掟になる、これは正にラデイカルな言動ではありませんか。イエスはそのように生きた方でした。そのように教え、実践し、交わりを打ち立てた方でした。それが教会でもあります。

 こうした主張は旧約聖書にも実は存在しています。創世記4章では「カインとアベル」の物語が記されています。カインがアベルを殺害し、そのことが主なる神によって見破られた時、カインは「私の罪は重すぎて負いきれません。・・・私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう」と云って畏れ慄いています(創世記4:14)。それに対して「主はカインに云われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインに印を付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(同4:15〜16

 私達はカインの末裔です。殺人という先祖の罪を負って生きておりますが、カインと同じく主から印を付けられています。それは命については「7倍の復讐」が暗示している通り、無限の保証がある、と云うことです。モーセの十戒でさえ、その第6戒で「汝、殺すなかれ」と云っていますが、「殺したものは死罪である」とは言っておりません。むしろ「あなたは、殺さないようになる」とも訳せる掟の言葉で語られているのです。もし、あなたが、第1戒から第3戒までを心に銘記しているのであれば、あなたは、「殺すようなことはしないだろう」と云うのが十戒の真意です。第1の戒:「主なる神のほか、何ものをも神としない、と云う事」。第2の戒め:「姿、形、象、をもって神を描かないこと:何ものをも神としないとはそう云う姿勢であり、心の内に神を宿す者である、と云うことです。そして第3の戒め:「不必要に主の名を口にしないこと」。全てのものの上に等しく神はおられまる。そのことが心に銘記されていればどうして、人を殺めることができるでしょうか。和解の基本的姿勢が、旧約聖書にも記されているのです。イエスはまさにその根っこ、根源に帰って私達を和解の道へと招いておられます。和解の最たるものは、私たちの罪を贖うために神が御一人子をこの世にお遣わし下さった、と云うことです。このクリスマスの時節に、私達も新しくされて、和解の恵みに与かり、贖われた者として相応しく生きるために共に祈りを合わせましょう。死刑が存続している日本を変えて行く力も和解の勤めに含まれていることを、2週間ほど前に来日したフランシスコ教皇に倣って、私達がこのクリスマスを迎えるにあたり、決意を新たにしたいと祈ります。

祈祷:
罪深い私達をあわれみ、掟に頼らず、あなたを見上げつつ、救いの御座に立ち返らせてくださることを有難く感謝申し上げます。今年も、主のご降誕を迎えるこの良き時に、どうかあなたの救いの道にしっかりと根を下ろし、神と人を愛し、全ての人と平安の内に過ごすことを得させて下さい。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる