預言者イザヤの仰いだメシアの世界から学びます。イザヤ書の12章までは、主として南王国ユダの王アハズの治世に関する出来事を軸に展開されています。イザヤは王のブレーンとして仕える立場でしたが、アハズ王の政策と民衆の心とに失望し、希望を将来に求めていくようになります。彼が仰ぎ見たのは、「新しいイスラエル」の理想的な姿でした。その具体像は、同胞すべてが力を結集してというのではなく、主なる神ヤハウェに対して忠誠心を持つ少数者からスタートするだろうというものでした。いわゆる「残りの者」と呼ばれる思想です。ですからイザヤは自分の子供に「シャル・ヤシュブ」と名付けます。「残りの者は帰るであろう」という意味です。
本来ならば、民衆の罪に対して神の審判が下されるはずなのに、その民を不憫に思い、守り導くという決断をされた神の憐憫を知らされたからでした。その神の憐れみこそが、将来新しいメシアが出現し、そのメシアに主の霊がとどまり、全世界に本当の平和が来るに違いないという希望となっていきます。イザヤの信仰はそのメシアをはっきり見出したのです。王という言葉が使われますが、それはアハズのような単なるこの世の王ではありません。イザヤにとって王は将来の希望である救世主(メシア)なのです。
そのヒントとなったのが、統一王国の基礎を築いたダビデでした。彼はサムエルから油注ぎを受けた王ですからその意味でメシアの元型と言えるでしょう。そのことを彼は1節にあるように、『エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる』 と語りました。エッサイはダビデの父親です。そうした認識の上に、メシアが現れ、主の霊がとどまる世界とは一体どのような世界なのか を述べていきます。6節から8節にかけて、メシア世界の様子が象徴的に詠われていますが、私はこの箇所が大好きで、読むたびに「ああ、これは確かにイエスさまが示された平和な世界につながっている」 と感じます。
2節の終わりにある 『主を知り、畏れ敬う霊』 とは一言で表現すれば 《平和》 となると私は理解しています。イエスさまは 「平和」 を重要なテーマとして示されましたが、言うなれば、それはここから始まった平和な世界が、イスラエル世界だけでなく、世界中の理想郷となっていくという意味を持っています。イザヤの預言者としての真骨頂は、この理想郷、メシアの世界を示したことです。ただ単に理想を唱えるのではなく、信仰において神と向かい合う中から生み出される理想郷、それがイザヤのメシア世界です。それは2節に言い表されている霊の表現のように、「主を知る知識が地に満ちるメシアの世界」 と言えます。
普通私たちは先ず自分の目の前にある現実を理解して、何か活動を始めますが、イザヤのような優れた預言者は、先ず主の霊が満ちる「知恵と識別の霊」「思慮と勇気の霊」が満ち溢れるメシアの世界から様々なことを発想するのです。イザヤも王のブレーンとして現実世界の問題に直面し、その解決に取り組んでいたリアリストには違いありませんが、彼は目の前の現実だけに捉われる預言者ではありませんでした。彼はメシアの光に照らして現実を見ることに意識を集中させます。すると、そこから見えてきたのは、弱い人に対する人間の世界の不当な裁きや、貧しい人への不公平や、唇の禍だったのです。現実世界からの視点だけでなく、神様ならばこの現実をどうご覧になるか、いわば神からの超越的視点から歴史を眺めたのです。
私たちは今クリスマスを迎えているのですが、クリスマスを迎えるというのは、この世にメシアの光が照らされ、そこにどんな現実が映し出されているかを見ることではないでしょうか。イザヤは3節から5節にかけて、メシアの光がどのような場所から輝き始めるかを示しています。それはイザヤの時代から700年後にこの世にメシアとして誕生されたイエス・キリストが照らし、明らかにした世界と符合します。イエスさまは「羊飼い」や「飼い葉桶」が示しているように、〈貧〉の世界に生まれました。そこがイエスさまのこの世の立ち位置なのです。イエスさまはその立ち位置を変えることなく、この世を生き切って、十字架につかれました。
イザヤが指摘したように、イエス・キリストというメシアの光は、弱い人や貧しい人に正当な裁きが行われず、公平な弁護も為されない現実を容赦無く暴露しました。メシアの光に照らされると、汚れ病んでいる人間世界の現実を誤魔化すことができないのです。今、私たちの社会には信じられないことが当然のように起こっていて、目の前が真っ暗になります。親がまだ乳離れもしていないような自分の子に暴力を振るって殺したり、反対に子が親を殺す事件が繰り返されています。辛いことですけど、私たちはこうした現実から目を逸らしてはならないと思うのです。この世界を神様に祝福される世界に戻していくために、信仰を与えられた者は力を尽くす責任があります。
しかし、多くの人にとって、どこから手をつけたらよいか分からないのが現実でしょう。そのためにイザヤは預言の言葉の中にたくさんのヒントを残してくれています。メシアの光に照らしてみた人間のあるべき姿、来たるべき真の社会、そうした視点なしに私たちの時代の問題を論じることは、少なくとも信仰者にとってはあまり意味がないような気がします。新しく立てられるメシアに臨む神の霊として 『思慮と勇気の霊』 が2節にありますが、とりわけ「思慮」などは、王の治世に関与していたイザヤにとっては具体的に政治的な 「はかりごと」 を意味したでしょう。ですから 『思慮と勇気の霊』 という表現には、政治や軍事を指導する力がイメージされていたはずです。
私たちは特別目立つことをする必要はないし、またそれをするには非力過ぎます。気が付いたことが出てきたら、その課題に微力ながらも取り組めばよいと思います。私は「在日」の牧師たちとの出会いをきっかけに「指紋押捺拒否」運動に参加して以来、「外キ協」活動に加わり、小さな力ですがもう30年以上働いています。ボランティア活動ですが、滞日外国人の問題がようやく政治の場でも取り上げられるようになりました。政府は人権意識を欠落させたままこの問題に取り組もうとしていますが、明らかに国連人権委員会の指摘の方が正当です。イザヤに言わせれば、すべての根源は 『主を知り、畏れ敬う霊』 の問題なのです。
今、世界の国々の現実は貧しい国が圧倒的多数で、先進国と呼ばれる国々も国民の所得分配が不平等化して苦しんでいます。市場経済を優先して、経済効率を優先して行けば、ソフトバンクの孫さんや楽天の三木谷さんのように活躍する人たちが出てくるのでしょうが、正規の仕事に就けない同世代の四割近いを若い人たちの将来はどうなっていくのでしょうか。
6節から8節にかけての記述は、一見自然世界の牧歌的な平和な情景ですが、野獣と家畜が対比されていることを見逃してはならないと思います。狼や豹は子羊や子山羊を襲って食べる存在です。興味深いのは、7節8節と移って行くに連れて野獣と家畜の順序が入れ替わってゆき、子供や乳飲み子や幼子が主体となっていく点です。神やメシアの支配するところで中心的に働くのは幼子たちなのです。野獣は言わば相手を攻撃する兵器でしょう。その前にまったく無防備な幼子が立ち、やがて両者は一緒に争わずに共生するようになる……これがメシアに臨む主の霊であり、平和の世界です。
ここには、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」 と仰ったイエスさまが教えられた世界と共通な平和な世界が示されています。私たちはきょう、この平和をもたらせてくださった神の独り子、メシア・イエスの降誕をお祝いしています。旧約の世界を凌駕して、世界のメシアとして私たちの世に来られたイエス・キリストの誕生を、心を込めてお祝いしたいと思います。心から、クリスマスおめでとうございます!