2018.10.07

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「主において同じ思いを抱く」

秋葉正二

イザヤ書11,6-10エフェソの信徒への手紙4,1-6

 エフェソ書から学びます。この手紙は伝統的にパウロ書簡とされてきましたが、著者問題については主に二つの見解がありまして、パウロ本人のものなのか、あるいは彼以外の者が名前を借りて書いたのか、現在も論争が続いています。確かに文学的な特徴が他のパウロ書簡とは異なり、パウロ書簡の代表的な文書であるローマ書やコリント書のように、信仰義認論とか律法に関する論争とかはありませんし、教会で起こる具体的個別的な諸問題に牧会的な回答を与えるといったふうでもありません。

 まあ、それはそれとして、ほとんどの聖書学者が共通に指摘することは、コロサイ書簡との依存関係です。使用されている語句の共通性、あるいはテーマの配列の仕方などから、エフェソ書はコロサイ書を下敷きに書かれたであろう、と見られています。なるほど、同じ語句がたくさんありますし、文体も似ているなと感じます。ま、とにかく手紙形式であることは確かで、まず挨拶に続いて、1章の荘重な賛美から始まり、それは3章の荘厳な頌栄で結ばれています。そこまでの前半を読んでいますと、何だか典礼についての説教を聞いているような気分になります。

 きょうのテキストはその前半の典礼的な響きを持った部分に続くところで、今度は一転して、手紙の読者に対して励ましや戒めを述べ始めている部分です。1節の始まりは、「そこで私はあなたがたに勧めます」 というパウロ書簡の典型的な導入での言葉です。まず1節から3節までですが、『霊による一致を保つように努めなさい』 と勧告しています。そこから主題は「一致」だなということが見えてきます。 2、3節の勧告の内容ですが、最初に述べましたように、この部分は明らかにコロサイ書3章12-15節に基づいていると見られている部分です。

 どんなふうに共通しているのか、コロサイ書の当該箇所を読んでみましょう。引用文章そのものは少し長くなりますが、内容は確かに共通するものがあります。 『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体にされたのです。いつも感謝していなさい。』……

 どうでしょうか。きょうのテキストの1-3節と比べてみてください。どちらも要約すると、召しにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りをつくして御霊の一致を熱心に保ちなさい、という勧めです。一致とは教会内の一致ということです。興味深いのは、一致を作れではなく、一致を保て(テーレイン)と言っている点です。MAKE ではなく KEEPしなさい、というのですから、最初から教会には一致があることが前提とされています。教会には御霊の一致があるのだから、その一致を心を込めて保ち続けなくてはいけない、と言っているのです。

 御霊の一致は霊的なイエス・キリストによって与えられた神さまの恵みの現実です。霊的な現実なのです。私たちはややもするとすぐに 「私たちの何々会には一致がない」 とか、ひどい時には、「私たちの役員会には一致がない」 などという言葉さえ口にすることがあります。でもそれは間違いですね。教会だから一致はあるのです。けれども無神経についついそんな言葉を吐いてしまうのです。よくよく心しておかねばならないと思います。3節には 『霊による一致』 とありますが、この霊によるは、私たちの心のあり方を指すのではなく、「聖霊」を意味しています。すでに与えられている聖霊による一致を平和そのものであるキリストに属する者として、保ち続けるように努力しなさい、という勧告です。

 ですからこの一致は、理念とか概念とかではなく、神さまの呼びかけにただちに対応する具体的な生活に示されるものです。 キリスト教は霊の世界を明確に示した最初の世界宗教だと思いますが、ここでは和解と一致へ働く霊こそが、一つの体と決して離れない関係にあることが示されています。たとえこの世にたくさんの霊があったとしても、和解と一致へと働く霊だけが、神さまからのものです。さて、続く4節から6節には何と 《一つ》 という語が数えると7回も使われています。これは教会論的な表現でありまして、「一つの体」「一つの霊」は、すでに2章11節以下で論じられています。そこには 〈キリストにおいて一つとなる〉 と小見出しが付けられていますが、とても重要で感動的な内容が示されています。

 イスラエルの民は割礼を身につけた自分たちが神に選ばれた民なのだとの自負をもっていて、自分たち以外を異邦人と呼んで区別しました。ところがその2章では、異邦人の代表たる外国人や寄留者が一つの霊に結ばれて神の家族になったという、それまでは考えられなかった現実の転換記事が記されています。それを受けて、この手紙の著者は、「体は一つ、霊は一つ」であり、それは読者が一つの希望にあずかるようにと招かれていることと同じなのだ、と述べているのです。そして5節では、「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼」 という宣言が述べられていますが、「一つの信仰」 というのは、きょうのテキストの後に出てくる13節の 『神の子に対する信仰』 とつながっていまして、イエス・キリストを証しする信仰を意味します。同時にそれはイエスご自身の神さまへの信仰にあずかることでもあります。

 『洗礼は一つ』 という表現は、この手紙が洗礼と関係する背景をもっていたことを示唆していると思われます。ある部分は洗礼式の式文として用いられていたというようなことがあったのかもしれません。そうして、終わりの6節では、まず私たちの信じる神さまが唯一であることが信仰告白として述べられます。『すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます』 とありますが、これは「すべての」という形式を備えた当時の信仰告白の定型文だと言われています。ユダヤ教やヘレニズム世界の宗教において、宇宙を統べ治められる神や女神などの力を称える際に用いられた表現だそうです。

 もちろん6節では、イエス・キリストのうちに働かれた体なる教会を神が建てられる力という意味で使われています。きょうのテキストでは、著者である 「わたし」 が、読者である 「あなたがた」に直接話しかけて、霊の一致を保てと励ましてくれる形ですが、この後の7節からは、主語は「わたしたち」に変わっていきます。それは著者自らが、「あなたがた」 読者の中へと身を置くことを表しているのでしょう。著者はエフェソの教会の人を励ましながら、自分も励まされる教会共同体の一人として責任を持った生き方をしようという覚悟を表しているのだと思います。

 私たちはこの書簡の著者から励ましを受けながら、何をどう受けとめたらよいか、ひとつ具体的にこのテキストから自分に向けた質問を作ってみたらどうでしょうか。著者から尋ねられていることを質問方式で考えてみるのも一つの対応方法だと思うのです。たとえば、こうです。 質問1: どなたが、何によって、どこに、この私を召されていますか? という質問です。また、質問2: 神さまの召しにふさわしい歩みとはあなたにとってどんな歩みですか? というのも有意義でしょう。質問3、4があれば、皆さんもご自分で考えてみてはどうでしょう。

 他人ではなく、私たち一人びとりがこうした質問に答える責任があるように思います。きょうは 「世界聖餐日・世界宣教の日」 です。教会に集う私たちが、共に聖餐にあずかり、共に世界宣教の業に思いを致すことには、大きな意味があります。御霊による一致の中に、その思いを共有いたしましょう。イエス・キリストの教会に集う私たち1人びとりに、神さまの豊かな導きと、恵み溢れることを祈りましょう。 祈ります。


 
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