カンファレンスの共通聖句が本日のテキストです。20節の文言はとりわけ有名で、会堂を持たない人たちや、家の教会と称して小さな集会を守ってきた方々を励ましてきた一句です。おそらくイエスさまから励ましの言葉をいただいている、といった感覚を覚えるのだと思います。しかしこのテキストをより正確に理解しようとすれば、15節から続くペリコーペとして全体枠を捉える必要があります。文脈を理解するには、小見出しの「兄弟の忠告」という表現と、並行記事として挙げられているルカ福音書17章3節が参考になります。
大枠を言いますと、「教会」がテーマになっています。教会はエクレシアという語ですが、これは動詞エッカレオー(呼び出す)から来ています。つまり呼び出された人々の集まり、集会を意味する言葉です。これが信者の群れである教会を指して用いられるようになりました。意外なことに教会(エクレシア)という語はマタイ福音書にしかありません。それも数えるほどです。どういうことかと言うと、福音書記者のマタイが教会という信仰共同体に強い思い入れがあったということでしょう。
皆さまもお気づきだと思いますが、イエスさまご自身は、少なくとも組織体であり制度を備えた教会をつくりなさい、などとは一言もおっしゃっていません。第一、教会が誕生したのはイエスさまの死後のことです。イエスさまは驚くほど懐の深い方で、神さまが無条件に人を愛され、善人と悪人にさえ区別をおかず平等に処遇されたお方であることを、山上の説教で明らかにされました。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、というあのくだりです。私は初めてそこを読んだ時、そんな世界があるのかと圧倒される思いでした。どんな人と付き合うかということにしても、イエスさまはいっさいの差別をされていません。人々から嫌われていた徴税人や罪人とも親しく交わりましたし、ファリサイ派の人たちとも一緒に食事のテーブルにつきました。民族差別が露骨な時代に、あまりにそれを当然のようになさるので、私たちは驚いてしまうわけです。
ところがですね、イエスさまの死後教会が生まれ、だんだんと人々がそこに集うようになると、組織を維持するために、教会には規律が必要になってきます。集団の中で生じるトラブルにも対処しなければなりませんし、集まっている人たちの信仰を正しく導く必要も出て来たでしょう。福音書記者マタイが所属していた教会の場合、属していた人たちは自分たちを新しいイスラエルと規定し、信仰なき人は「異邦人」と見なす、というような気風が色濃かったとも言われていますから、マタイの教会は、ユダヤ系キリスト教とも呼ぶべき教会です。それだけマタイはこれからの自分たちの教会をどう導いていくかを真剣に考えざるを得なかったと思われます。
それゆえ、マタイ福音書には福音書記者マタイの教会観がかなりはっきり出ているはずです。実はきょうのテキストはそうした背景の中で、彼が求めた教会のルールが論じられています。すぐ前の15節には「兄弟」という言葉がありますが、この兄弟とは、イエスさまが誰をも交わりの輪から排除しなかったという意味での兄弟ではなくて、マタイと同じ信仰に生き、同じ教会に属していた兄弟たちを指しています。そこで、すぐ前の15節から17節では、自分たちの教会の運営という面から間違いを犯した兄弟に対するアドバイスの仕方を論じています。いろいろアドバイスをしたけれども、どうしても聞き入れてもらえなかった、そうなった場合は教会に申し出て、教会のルールに従って判定をくだしてもらいなさい、というわけです。
すぐ前の17節の言い方はかなりきついものです。教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人か徴税人と見なせ、と言うのです。 イエスさまは異邦人も徴税人も差別しなかったのですから、マタイの属する教会の結論は、イエスさまの生き方とはもう随分離れてしまっています。初代教会はほんとうに大変だったな、とつくづく思わされます。
さて、きょうのテキストの18節ですが、17節とのつながりを考えると、マタイは教会が罪を犯した者を除名する権威を持っており、その根拠として、教会が地上で下す判断は、そのまま天上でも受け入れられるのだ、と言うのです。つまり教会の権威が述べられています。ここを読んでいますと、ペトロに天国の鍵が授けられた記事を思い出します。1,2ページ戻って開いてみてください。16章13-20節に、ペトロがイエスさまに 『あなたはメシア、生ける神の子です』 と答えると、褒められた上、イエスさまから 『あなたはペテロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる』 と言われて、天国の鍵を授けられた記事があります。ペトロが教会の初代教皇に位置付けられる根拠になった記事です。教会の権威が論じられています。
私には教会の権威ということに関して印象深い思い出があります。教務教師を辞して、初めて牧会に出たのが浅草教会だったのですが、赴任した最初の日に教会の皆さんがセレモニーを披露してくださいまして、ボール紙に金色の折り紙を貼り付けて作った大きな鍵を手渡してくれました。他愛のないセレモニーではありましたけど、私にとっては初めて教会の権威ということを考えるキッカケになりました。
ところで、18節は改行されていますので、一見18-20節が一つのまとまりに見えますが、聖書学上の分析では、15-17節で教会内の罪を犯した人への裁定の仕方を示した上で、それに対して 『はっきり言っておく』 という神さまの権威を象徴する決まった言い方で、教会の裁定の根拠を示しているということになります。それゆえ、18節は15-17節につなげて読むべきだ、というわけです。18節の 『あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ……』 という権威は、結果的に地上の教会に許可や禁止の権限を拡大する結果になっています。
イエスさまは何度も「裁くな」とおっしゃっているわけですから、現実の地上の組織体である教会の運営に18節の言葉をそのまま当てはめるのは少なくとも適当ではないでしょう。そして、さらにその上で、「もう一度」と言って文章は19節につながっていきます。「もう一度」という語は訳されていませんが、原文にはちゃんとパリン(again)という言葉で文頭に書かれています。なんで訳さなかったのかと思いますが、文章のつながりが悪いのでしょう。
とにかく(もう一度)『はっきり言っておく』 と確認するように、19節が続くのです。19節では 『あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら……』 とありますが、この表現はおそらく教会内の裁判に関係していた人物二人がイメージされているものと思われます。ですから20節の 『二人または三人が……』 と言う時にも、実際にはマタイ教会は、教会内での裁判を思い浮かべていたろうと思います。
ま、いずれにしましても、この福音書が書かれた時点ではまだ教会内に権威の執行を司るような役職のことはまったく書かれていませんから、マタイは教会内に特定の権威執行力を持つ職務が生み出されることに批判的であったのかもしれません。イエスさまが残された教えに従って、教会という組織体はやがて権威の執行を担う職務を生み出していくのですが、それは後に地上の教会に職階制という上下の階層関係を表すヒエラルキーとなっていきます。イエスさまが神の子としてあまりに完璧に、純粋に人を愛し、受け入れたものですから、イエスさまの死後に生まれた教会で、信徒たちはイエスさまの教えを具体的にどう生かしていくかという段になって本当に苦労したのだと思います。
完全な教会などないことは勿論です。私たちは教会生活を送る中で、様々な組織形成の困難さに直面しますが、同じ苦労を初代教会の人たちは私たちの何倍も味わっていたはずです。伝統も見本も何もなかったのですから、イエスさまの教えだけを一つ一つ辿りながら、教会が形成されていきました。私たちは自分の教会にいろいろな欠けを感じますが、決して悲観する必要はないと思います。少なくとも私たちの抱える困難さは、福音書記者たちの抱えていた苦労に比べれば、比較にならないほど小さいものだと思います。
さて今年度のカンファレンスのテーマは 「祈り・学び・交わり」 ですが、きょうのテキストだけでなく、わたしは聖書の最も小さな書物「フィレモンへの手紙」を思い出しました。そこには祈りや交わりの真髄とも言うべき信仰の心が溢れているように思ったからです。パウロが自分の働きを助けてくれた逃亡奴隷の青年オネシモの行く末を、信頼するフィレモンに託した手紙です。そこには祈ること、愛すること、交わることを実践しているキリスト者の具体的な姿が見事に現れています。逃亡奴隷は殺されても文句は言えない存在でした。フィレモンが実際にオネシモをどうように扱ったかは資料が残っていないので分かりません。でも私にはフィレモンがかつての奴隷であった青年をどのように迎えたが見えるような気がします。教会は祈る人たちの共同体です。愛し合う人たちの共同体です。共に学び合う共同体です。私たちもマタイに負けないように、祈り、学び、交わる教会を形成してゆけたらと、心から願っています。祈ります。