古代イスラエルの預言者たちの目指した平和は、基本的にはイスラエルを中心とした平和秩序です。それゆえ、その基にあるのは排他的民族主義と言えます。ところが興味深いことに、彼らの中にその排他性をひっくり返すような預言をする者が現われました。それがイザヤであり、エレミヤであり、アモスやホセアといった人たちです。 彼らは必要があれば、容赦なく自分の国を批判しました。民族的な感情から、敵対する近隣諸国を批判するのならその理由ははっきりしていますが、彼らは自分の国を厳しい言葉で批判したのです。それも災いがくだされるといった激しい表現でなされました。近隣諸国に対する神の審判を告げるだけならば、イスラエルの民衆は心地よくその言葉を聴いたでしょう。しかし、選民意識に誇りをもってきた彼らが、なぜそのような預言をしたのか? これは旧約聖書の預言書を読む上でとても重要な問いになると思います。
名前を挙げた預言者たちは、アッシリアやバビロニア、エジプトなどの脅威の下で自分たちの国の平和が脅かされる原因を、自分たちの国の中に見出しました。そうした視点を展開した彼らの信仰を私たちはしっかり捉えなくてはなりません。神様の立てられた秩序を、イスラエル自らが歪めてしまった、それゆえ平和が失われたのだ、と彼らは気づいたのです。これは頭で理解したというよりは、彼らの信仰心がそのように導いた、と言うべきでしょう。
とにかく、その点に気付いたとき、彼らはイスラエルの人々に「主の言葉を聞け」と、災いの告知とも言うべき言葉をぶつけました。軍事的優位さを誇った大帝国が支配した紀元前の世界に、敵国に目を向けることだけではなく、自らの在り方を問うという信仰的姿勢を打ち出した国があった、しかもそれは弱小国であった、というのは驚くべきことではないでしょうか。私はこの点で古代イスラエルの信仰がいかに深く優れたものであったかと、感嘆の思いを抱いている一人です。イザヤもそうですが、預言者たちにとっての「平和」は、単なる戦争のない状態や、経済的に恵まれて暮らすことだけを意味しなくなったと言えます。
きょうのテキストですが、19章前半ではエジプトへの審判が語られています。そこでは主なる神がエジプトに内乱を起こさせ、政治的混乱をもたらしたことが強調されています。主なる神のエジプトに対する刑罰の記事と言っていいでしょう。きょうのテキストとして取り上げた23-25節ですが、時代背景は紀元前7世紀半ば過ぎが考えられています。8世紀末に、すでに北王国イスラエルは滅んでしまっています。北王国が滅んだ理由は、近東地域を支配していたアッシリアとエジプトという二大勢力との対峙の仕方を誤ったからでした。小国にとって強大な国にどのようなスタンスを取るかと言う問題は、国の存亡に関わります。南王国ユダは、かろうじて残ったものの、相変わらず強国の間に挟まって、両者の顔色を伺いながら歩むという図式は変わりませんでした。弱小国は弱小国なりに生き残りをかけて知恵を働かせますが、知恵の問題だけならば、優秀なブレーンを揃えればある程度のことはできるかもしれません。
8世紀にシリア・エフライム戦争というアッシリア帝国に対する近隣諸国の連合抵抗運動が起こって、それが北王国滅亡の引き金になったのですが、それが7世紀になって再び繰り返されるようになったのです。一時は、アッシリアがエジプトに勝利して遠征までしているのですが、そうした状況は長続きしませんでした。やがてアッシリアも次第に衰えて、弱小国ユダにも民族的復興の兆しが現われてきます。
きょうのテキストはそのような時代を背景としています。預言者イザヤ亡き後、イザヤの精神を継承すべく託宣を記した人々がいたようです。きょうのテキストはそうした人たちが、エジプトに対して語った託宣の付加部分で、終わりの日の和解を希望として謳い上げている一節です。ここを読んでいると私たちも平和についてはっきりした希望を持っていいのだな、と力を与えられるような気がしてきます。
エジプトは神の刑罰の対象から段々と祝福の対象へと変わっていき、とうとう敵国が敵国でなくなる様子が描かれます。23節は5番目の託宣ですが、『その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる』とあります。これなどは文字通りアッシリア帝国の隆盛期に事実となったことで、現代で言えば国境をまたぐハイウェイが通じたという話です。アッシリアからエジプトまで、途中に位置するパレスチナを経由してつながったのです。その道は盛り土され、舗装されていたそうですから、軍事街道といった意味だけに収まらず、政治や経済の交流を盛んにする役目も果たしたことでしょう。
交流が盛んになれば、信仰と信仰も接触を持つことになります。バビロニア人の信仰とエジプト人の信仰に、イスラエルのヤハウェ信仰が絡みます。『エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する』と23節に書いてありますが、交わりの中で心と心が通じ合ったとしても、実際問題、他宗教の人と同じ神を同時に拝むということはおそらく起こらなかったと思います。
しかしそれぞれの信仰が、志の高さと自由な精神を備えていたとしたら、何か工夫をこらした形で協同の礼拝も可能だったとも思うのです。たとえば、お互いの礼拝形式を、紹介も兼ねて順番に進めていくといったような工夫です。それぞれの信仰に敬意を払いながら、普遍的な世界を示すことができそうな気もします。この理想世界を、預言者イザヤの系譜を受け継いだ人たちが24,25節に最後の託宣として謳いあげたのではないか、と私は考えています。
イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に世界を祝福する柱の一つとなるのだ、という強烈な信仰意識があったのではないでしょうか。その時、神様は《祝福されよ わが民エジプト わが手の業なるアッシリア わが嗣業なるイスラエル》と、それぞれを祝福する言葉を口にされるのです。エキュメニカル運動と呼ばれる活動があります。私が関わっている「外キ協」もエキュメニカルな運動体です。私たちはこれをキリスト教会の世界教会主義といった位置づけで基本的に理解していますが、私はその流れはやがて教会主義の範疇を超えていくだろうと考えています。
19章で語られている託宣には、民族主義的なあるいは大国主義的な傾向が残っているとは思いますが、きょうのテキストなどは、アッシリアの属領の一つでしかなかった弱小国ユダにおいて語られたことを思えば、平和へ向けた強い決意がみなぎる注目すべきものだと思うのです。外キ協は3年に2回のペースで国際シンポジウムを韓国と日本で交互に開催してきたのですが、ある年のシンポジウムで、韓国の先生がこの箇所を示しながら、自国をイスラエルになぞらえておられたことを思い出します。
韓国は日本の植民支配の後、独立して一国になりましたが、もとの国は分断されてしまいました。一方では中国とロシアに挟まれ、他方では日本とアメリカに挟まれています。シンポジウムでの韓国の先生の発言は、23節以下の祝福の言葉の中で、小国ながら中心的な位置を占めているイスラエルに韓国を重ねられたのです。その先生の信仰の中では、ほとんどこのテキストは自分のために語られた言葉だという意識があったに違いありません。
ここに示されている「平和」は、軍事的強さによって維持される秩序をはるかに凌駕しています。ここからは、社会の中での正義、つまり弱い立場の人たちに対する保護といった考えが生まれて来るでしょうし、共同体のすべての成員が人間らしく扱われる社会の実現こそが「平和」に欠かせない条件であることも明確に導き出されます。
預言者イザヤが語る平和は、それゆえ「力による平和」の対極にあると思います。アッシリア帝国が圧倒的な軍事力で「平和」を維持していた時代に、「力によらない平和」、ただ主なる神の支配によってのみ実現される平和を描き出したイザヤという人物はただ者ではありません。彼の信仰を受け継いだ人たちが、第二イザヤや第三イザヤと並んで、その流れを一層磨き上げて、イエス・キリストの平和へとつないでいった功績は誉めたたえられるべきものです。
私たち人間は出会う相手をなかなか受け入れられないという弱さを持っています。人間関係は単に利害関係だけで割り切ることはできません。「私が考える相手」と「相手自身」は自明ではありません。「私が考える相手」にだけ囚われているとその人は敵になる可能性が大です。私たちがイザヤから学ぶことができるのは、出会う相手に対してまず偏見を捨て去り、相手をよく知ろうと努めることだと思います。反ユダヤ主義が最も歪な形で現れてしまったドイツで、ボンヘッファーという人物がなぜ本質を見抜く力を失わなかったか、それを考察することは平和を考える上で大いに参考になります。きょうは日本基督教団の「平和聖日」です。私たちも平和をつくりだす一人となれるように祈りましょう。