以前にも少し触れましたが、評論家の加藤周一さんの「日本文学史序説」という著作を私は時々読み返します。 文学史という書名があるので、詩歌・小説などの歴史かと思うのですが、読むたびに私は「日本宗教史」をひもどいているという印象を持ちます。 日本という国名が登場するのは7世紀のことですから、当然それ以降の歴史を扱っているわけですが、日本という国を、またそこに住む人を「大化の改新」以後の長い歴史を通じて導いてきた歴史として眺めると、文化を含めたより大きな世界から俯瞰すれば、それはやっぱり仏教を中心とする宗教ではなかったか、と思うのです。自然神を崇拝していた古代神道にしましても、外来宗教に出会ってそれなりの理論化が進められ、これが奈良時代から平安時代にかけて仏教と並んで、ある時には合体して、大きな役割を果たしました。
もう10年くらい前になるでしょうか、「平城京1300年」の年に、私は外キ協の仕事で大阪・京都に出張したのですが、関西の駅にはどこにもその記念のポスターが貼り出されていました。 その時気づいたのですが、どのポスターも真ん中にはお寺の写真があるのです。 私はあらためて宗教の存在は日本においても大きな位置を占めている、と確信しました。 加藤周一さんもそう捉えていたのだと思います。 仏教については多くの批判もなされますが、日本の歴史上、その存在意義は大したものであることは確かです。 淫祠邪教もたくさん登場して世に害毒を流しましたが、それとても社会に何某かの影響を与えたという意味では、無視できません。 つまり宗教の存在はこの国でも、人の人生を大きく変え得る力を発揮してきたのです。
淫祠邪教の代表は現代では統一協会でしょうかオウム真理教でしょうか。 そこにはまった人の人生は大きくねじ曲げられてしまいました。 統一協会などはキリスト教という名称を名前の中に使っていましたので、教会も大きな迷惑を被りました。 牧師のように宗教家と見られている者にとっても大問題で、私の九州時代14年の半分くらいはその救出活動に関わらざるを得ませんでした。 それでも反面教師として、そうした新興宗教は私に本当の宗教とは何か、何が正しい宗教なのか、ということに目を向けさせてくれました。
きょうはその本当の宗教であるということをより具体的に、預言者イザヤの召命記事から学ぼうと思います。 イザヤは自分がどのように神さまから召し出されたかという宗教上の経験を優れた洞察力で書き記しています。 1節に『ウジヤ王が死んだ年』とありますが、これは紀元前736年です。 日本ではまだ日本という名前もない時代で、縄文時代の終わり頃です。 古代イスラエルでは南北朝の時代で、南王国ユダの王がウジヤでした。 そこには単なる日付ということではなく、「大変な年なのだ」という主張が込められています。
というのも、ウジヤは名君と称えられた人物で、50年という長期政権を率いたリーダーであり、そのリーダーが死んでしまったという不安の表明でもあるからです。 名君が長く国を治めれば、その国民は長く平和と繁栄を享受できるわけで、その立役者が死んでしまったということは、これから先この国はどうなるか分からない、とイザヤは見ているわけです。 そんな状況下で、彼は『高く天にある御座に主が座しておられるのを見た』のです。 場所は神殿ですから、青年イザヤはおそらく「この国を守り給え」と祈っていたのでしょう。
2節になるとセラフィムが出てきます。 セラフィムは古代の神話的怪獣ですが、神の聖性holiness を守る役割を負っていました。 ですからセラフィムたちは互いに呼び交わして唱えています。 『聖なる聖なる聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』。 口語訳聖書では『聖なる聖なる聖なるかな』でした。 文法的に比較級などないヘブライ語特有の繰り返して強調する表現法です。 その時、4節には『敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた』とありますから、イザヤは荘厳な神さまの顕現に与ったわけです。 おそらく彼は大変なものを見てしまった、と恐怖に駆られたことでしょう。
イスラエルにおける神さまの聖性は絶大なもので、冒すべからざるものでしたから、聖なる神さまを見ることは許されませんし、その名をみだりに呼ぶこともできませんでした。 ですからイザヤは聖なる神さまを見てしまって「もうダメだ、許されない、死ぬ」と思ったのです。これは聖書が神さまの聖性に対して、如何に思いを深くしているかを表しています。 真剣に神さまに向き合う人間の極致かもしれません。
日本の神さまの場合はむしろ逆で、例えば神社に籠って水ごりをして祈り続けると、満願成就の暁には燦然と輝く神さまが現れたといった話があります。 聖書の神さまの対極にあるのは、人間の罪の姿で、聖性が明らかにされるほど、人間の罪と汚れは暴かれてしまいます。 そういう意味を込めて、イザヤはいわば絶望的な叫び声を挙げているわけです。 『災だ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者……』。 しかも『わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た』と言っています。 これは聖書の神さまに向き合う人間の、聖なる神さまへの思いの深さをよく表しています。
聖なる神さまの前にあって、自分の罪と汚れに心からの悔い改めをする誠実な人間の姿がここにあります。 そうしてイザヤのいわば絶叫に対してセラフィムが飛んで来ました。 その手には祭壇から火ばさみで取った炭火がありました。 それをイザヤの口に触れさせてセラフィムは言います。 『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎(トガ)は取り去られ、罪は赦された』。
これはイザヤという人物の罪の清めと赦しの体験ですが、ストーリーはさらに予想外の展開をしていきます。 8節には神さまの御声が記されるのです。 『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』。 清められ赦された人間が、預言者という神に代わってその御言葉を民衆に語りかける特別な使命へと促されます。
しかしここで私たちは、イザヤの召命体験を眺めて感心しているだけでは意味がないでしょう。 ここには、私たちが神さまの前に立つというのは、どういうことか、という課題が与えられているのではないでしょうか。 それは本当の宗教、本当の信仰、本当の礼拝とは何か、如何にあるべきか、を指し示しています。 皆さまの中には、「自分はイザヤのような宗教体験がないから、イザヤとは違う」と考えておられる方がおられるかも知れません。 でもそれはキリスト教という宗教に対する考え違いだと思います。 私たちはともすれば、神を見たとか、セラフィムに清められたとか、いわゆる神秘的な宗教体験に心を奪われがちですが、そこにまずキリスト教という宗教を考える際の考え違いがあるように思います。 神秘的な体験は信仰の付随現象に過ぎないということを明確に自覚しておくべきでしょう。
はっきり言えば、神秘体験はあっても無くても、信仰の正しさ・深さには関わりないと思います。 神秘体験が無くても、立派な信仰はいくらでもありますし、それどころか神秘体験をしたために、変に思い上がってせっかく頂いた信仰を台無しにしてしまう人もいます。 預言者イザヤの真髄は、神秘体験の有無ではなく、彼の信仰にあります。 いわばこの物語は、イザヤに真実の信仰が与えられたので、神秘体験がそれに伴った、という話です。 真実の信仰さえあれば、神秘体験は無くても何の差し支えもありません。
キリスト教という宗教は、こうした内的な信仰の確立を土台として発展したのだ、ということを理解しておく必要があります。 聖書にはイエスさまの先駆者として洗礼者ヨハネが「悔い改め」を人々に求めたことが記されていますが、それはキリスト教信仰がまず罪の自覚から始まるということです。 罪の自覚がなければ、救い主の愛は見えないのです。 その意味では罪を自覚できること自体が恵みなのかもしれません。 私たちはイザヤの召命の記事をきっかけにして、イエスさまの愛をより深く知るために、自分の罪と汚れを悔い改めて備えなければなりません。
イザヤは自分の使命が何であるかハッキリ示されましたが、自分の場合はどうもハッキリしないと仰る方がおられるかもしれません。 自分の使命は何だ、と力んで悩んでも、神さまは多分教えてくれないと思うのです。 イザヤもエレミヤもパウロも自分の使命を明確に示され、且つ自覚していますが、彼らの人生にはそれが必要だからそうされただけで、一人ひとりの人生は異なりますから、私たちと違ってもいいのです。
おそらく私たちは自分では気づかないうちに、それぞれの使命を果たすべく導かれていると思います。 信仰を与えられた時に、自分では知らないうちに、使命を少しずつ果たしているのではないかと思います。 使命は神さまが計画され人間に与えられるものですから、人間には分からない場合の方が多いかもしれません。 要は、自分の使命が自覚できなくても、与えられた人生をひたすら忠実に、感謝と喜びをもって生き抜くことに尽きます。 祈りましょう。