イエスさまの生涯を記している4福音書の最後の章は、十字架刑によるイエスの死ではなく、それに続いて起こった復活に費やされています。 きょうはヨハネ福音書を選びましたが、共観福音書の並行記事を一緒に読んでみると復活についてより多くのことが分かります。 なかでもヨハネ福音書だけは独特の書き方、まとめ方をしていることに気づきます。
復活物語では出来事の流れにつれていくつかのことが出てきますが、その一つはペトロともう一人の弟子がイエスの墓に向かって急ぐ記事であり、もう一つは墓の前でマグダラのマリアに復活されたイエスさまが話しかける記事です。 この二つの出来事を共観福音書は別々なこととして描いています。 ところがヨハネ福音書はこの二つの出来事を組み合わせて一つの出来事にしています。 というわけで、途中段落を切らないで、18節までを一続きとして読むことにしました。
まず1節、マグダラのマリアが週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに墓に行きます。 この「週の初めの日」というのが、後に歴史上重要な意味を持つようになります。 共観福音書では、香料を買い求めてとか、他のマリアと一緒にとかの記述がありますが、4福音書に共通しているのはマグダラのマリアが必ず入っていることです。ヨハネ福音書では彼女は十字架のそばに留まっていた女性たちの一人でもありますし、特別に注目されていると言えるでしょう。
朝早く、まだ暗いうちに彼女が墓に向かったということをまず念頭に置きます。 彼女は心から信頼するイエスさまが死んでしまったことをまだ受けとめ切れていないように思われます。 墓に納められた主イエスの遺体にまだ捕らわれています。 洞窟式の墓は入り口に大きな石を置いて塞ぎます。 その石が取りのけてあるのを見て、彼女はペトロともう一人の弟子の所へ走って知らせました。 確かめたわけでもないのに、彼女は『主が墓から取り去られました』と報告しています。 ペテロともう一人の弟子は競争するように墓に向かいます。 その顛末が3節から8節までに描かれています。
なぜ二人の弟子の競争をわざわざ記したのか、福音書記者の意図が分かりません。 そこで両者をユダヤ人キリスト教と異邦人キリスト教をそれぞれ表していると理解して読む方法があります。 つまりペトロはユダヤ人キリスト教、もう一人の弟子は異邦人キリスト教です。 時系列で言うと、ユダヤ人キリスト教が最初に発足しました。 異邦人キリスト教は後のスタートです。 そういう風に考えると、もう一人の弟子が先に墓に着いてしまったことと、遅れてペトロが到着したことが意味をもってきます。
すなわち「先なるものが後になる」というあのイエスさまの言葉が浮かんできます。 ここではユダヤ人キリスト教であるペトロが遅れているわけですから、先なるものが後になっています。 つまり後なる異邦人キリスト教の方が信仰への理解を先んじて獲得しているよ、ということが暗示されていることになるのです。 実際はどちらが先ということではなく、両者が復活の出来事の前では同等であることが示されていると思います。
信仰においては、時間的先行が必ずしも内容理解においても優先するとは限らないことが示されています。 信仰の世界では先に洗礼をうけて長く経験を重ねていることが優先権を得ているとは限りません、という意味です。 教会には伝統ある古い教会があり、歴史の浅い教会もあります。 また信徒を見ても、信仰経験の長い人と短い人がいます。 年齢的に見れば老人もいるし青年もいます。 それぞれに相手に学び合うことが大切であることが言われているのでしょう。 ペトロともう一人の弟子の競争は相手を押しのける競争ではありません。 お互いに相手を見ながら、尊重し合いながら自分の力を発揮することが求められています。
紀元1世紀の教会世界は、ユダヤ人キリスト教と異邦人キリスト教の対立がありました。 その対立を乗り越えて一つの教会を建設する使命が、ヨハネ福音書が書かれた時代のキリスト教にはありました。 復活という人間を死の束縛から解き放つ新しい出来事の前に、先のものも後のものもありません。 そのことをヨハネ福音書記者は誰よりも願っていたのだと思います。
さて、ヨハネが伝えているもう一つのことは、11節以下に見られる墓の前でのイエスさまとマリアの会話です。 マリアが墓の外で泣きながら墓の中を見ると、二人の天使が立っていたと書かれています。 泣きながらというのは、遺体が取り去られていることもあり、彼女がまだイエスさまは死んでしまったという希望の失われた世界に置かれていることを表しています。
また天使(アンゲロス)という語にはメッセンジャーの意味があり、神様の意思を人に伝えるのが天使の役目です。 最初はこの天使とマリアの会話がありますが、途中からイエスさまとの会話に切り換わります。 最初マリアは後ろに立っている人を園丁だと勘違いしますが、イエスさまの 『マリア』 という呼びかけの言葉でハッとイエスであることに気づきます。
このイエス-マリア間の言葉のやり取りは何ともいえない二人の生き生きとした関係を伝えています。 マリアという固有名詞で呼びかけたイエスに、彼女は『ラボニ』と応じました。 この会話からそれまでの世界から新しい世界に方向転換が起こっています。 喪失感で泣きぬれていたマリアの心が、パッと花が咲いたように、「先生!」っと、喜びと懐かしさの心に変わっていきます。 ここはとてもいい場面です。 生前に結ばれていたイエスとマリアとの間の結びつきの深さ、親しさを示す阿吽の呼吸のようなものが「マリア→ラボニ」の言葉に現れています。
この時、おそらくマリアはイエスさまにすがりつこうとしたのでしょう。 イエスさまから 『わたしにすがりつくのはよしなさい』 と言われてしまいます。 イエスさまのこの言葉には少々冷たい感じがしますが、それは自分が生前のイエスではない、ということの宣言でもありました。 そこにはある種の厳しさが含まれています。 もう過去の「マリア−ラボニ」の親しい関係ではないのです。 復活とは懐かしい過去がそのまま現在によみがえることではありません。 復活は過去との間に明確な断絶を示します。
イエス様の復活が私たち人間の死の世界からの帰還であるならば、その生命はいずれまた過去との繋がりの中で、終わらなければならないでしょう。 その時イエスさまが 『わたしにすがりつくのはよしなさい』 と言われたのは、これからの生き方につながる新しい生命のスタートの宣言であったからです。 私たちは人の死の前に無力です。 でもこれからずっと無力のまま生きて行くのでしょうか。 「そうではない!」と主イエスは私たちに、それこそ「マリア」と呼びかけられたように言葉をかけてくださっているのです。
きょうのイースター、私たちはこのイエスさまの声を聞いて、未来に向けた新しい生命のスタートを確認しましょう。 復活を信じることは、死が支配してきたこれまでの過去との決別です。 パウロが 『古い人に死に、新しい人に生きる』 と言っているのはそういう意味だと思います。 キリストの教会は復活から未来に向かって進んで行く教会です。 終わりにもう一点について触れておきます。 18節にはこう書いてあります。 『マグダラのマリアは弟子たちの所へ行って、“わたしは主を見ました”と告げ、また、主が言われたことを伝えた』。 これはマグダラのマリアの証言の言葉です。
マリアはラボニに会ったのではなく、『主を見ました』と言っています。 主に会ったことを最初に告白し、この何とも嬉しい出来事の報告をもたらしたのは、ペテロなど12弟子ではありませんでした。 マグダラのマリアという一女性であったことをヨハネ福音書は特別に記しているのです。 当時女性の社会的地位は低いものでした。 女性の証言は子供や精神障害者と同様、軽くみられて無効とされていました。 そのような状況の中で、ヨハネ福音書は一人の女性を取り上げ、彼女によって最初に伝えられたのがイースターのメッセージだ、と告げたのです。
弱い立場の一女性からイースターの教会が始まったという意味は非常に重要です。 マグダラのマリアという女性は、その内側に燃えるような信仰的熱心を秘めているような女性だと思います。 そうした信仰の熱意に私たちもきょう揺り動かされて、イースターの恵みに預りたいものです。 聖書に記されている多くの復活証言に、これからの復活節にしっかり耳を傾けて歩んで行きたいと願っています。 祈ります