2018.03.04

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「人の子が来る」

秋葉正二

ダニエル書 7,13-14マルコ福音書13,14-27

 マルコ福音書には、イエス一行がエルサレムに到着し、滞在した六日間の出来事が記されています。 到着から十字架刑に至る出来事には日付も書き入れられています。 日曜日の入城後、三日目の火曜日には信仰や祈りについての教えや権威についての論争があり、有名な「ぶどう園の譬え」や「皇帝への納税」の話の他に、復活や終末についての教えがなされています。 きょうのテキストはその中の終末に関する13章の一部分です。

 この13章の背景には、ユダヤ戦争の危機に直面していたユダヤ人キリスト教会が置かれていた状況が色濃く反映しています。 マルコ福音書が成立したと見られている紀元60年代の状況です。 後半になってユダヤ戦争が起こりますが、これはユダヤ人のローマ帝国への反乱でした。 イエスさまの時代からずっと、重税と反ユダヤ主義的統治によってユダヤ人とローマ人の間には緊張が高まっていましたが、ローマ皇帝が自分の像をエルサレム神殿に建てさせようとしたことなどもあり、緊張は頂点に達していました。 しかし皇帝は暗殺されてしまったので、ローマ皇帝像建立の試みは挫折しました。

 その後も歴代のローマ総督たちの抑圧と腐敗政治は、貧困に喘いでいたユダヤ民衆の反ローマ感情をますます刺激して、しばしば反乱が起こりました。 そうして紀元66年、ついにユダヤ人は公然とローマに対して戦いを挑み、ユダヤ戦争が勃発します。 一時的にはユダヤ人がエルサレム全市を手中に収めますが、結局は紀元70年にローマ軍によって神殿は完全に破壊されました。 マルコ福音書が書かれたのは、このユダヤ戦争が起ころうかという危機の真っ最中だったわけです。

 マルコはこうした状況下、エルサレムで最後の日々を送りつつあったイエスさまの終末についての話を編集し、書き残しました。 それは一つの預言であり、一つの出来事についてそれが起こった時、弟子たちがどうしたらよいかという話でもあります。 すなわち、「憎むべき破壊者」が立ってはならない所に立つのを見たならば、読者よ悟れ、その時、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ、というのです。

 「憎むべき破壊者」というのが分かりにくいのですが、破壊者と訳されている語(ブデリュグマ)を辞書で引きましたら、「嫌悪すべきもの、胸糞の悪いもの」とありまして、注に、〈70人訳以来、偶像礼拝に関係ある事物に用いられる〉とありました。 どうやらそうした忌まわしい人物・対象であり、神に取って代わって自分を神のように礼拝させようとする者のようです。

 そこに込められていることは、先程触れましたように、ローマ帝国のユダヤ支配の現実とその将来に対する預言であり警告です。 それは19節にあるように、「天地創造の初めから今までなく、今後も決してない程の苦難」なのだというのです。 実際この預言は40年後に神殿崩壊という出来事として成就しました。 その苦難の様子が14〜20節までに侵略してくる軍隊があっという間に攻め寄せて来るときの、戦争の惨状という形で描写されています。

 同時にこの預言には、世の終わりが来る時の苦難をも指し、またその際に必ずや出現する偽キリストや、偽預言者の意味も含まれています。 だからこそイエスさまは23節で、『一切の事を前もって言っておく』と言われたのでした。 そしてこの日には、そうした苦難の後に、『太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天体は揺り動かされる』と24,25節にあります。こうした表現は、黙示文学の表現を借りたものであるようです。 つまり教訓とか隠しことば(隠語)によって神の言葉を告げるわけです。

 終末を表す表現を皆さんはどのように感じられるでしょうか。 古代の荒唐無稽な戯言でしょうか。 私はこのテキストを読んでいて、原子力時代である現代の厳粛な真理として、恐ろしい現実として私たちに突き付けられている原発事故を思いました。 我が国の首相はフクシマ事故を指して、完全なコントロール下にあると言いましたが、とんでもありません。 放射能は日々事故現場から放出され続けていますし、高濃度汚染地下水が流れ込むのを防ぐために巨費を投じて設置された凍土壁の効果も限定的だと見られています。 これまでどれだけの放射能が空中に拡散され、海に流れ出たことでしょうか。 フクシマのみならず、日本の原発には依然めどが立たない「核のごみ」の処分の問題が横たわり、核燃料サイクルも最早行き詰まっています。

 先月、京都の集まりで僧侶たちとこの問題について話し合ったのですが、私はなぜ宗教者が命に関わる問題にもっと声を挙げないのか、ともどかしく思っています。 人間の罪は自然界にまで反映します。 26節に、『そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る』 とありますが、この「人の子が雲に乗って来る」という表現は、黙示文学であるダニエル書7章13節にあるものです。

 イエスさまはこの言葉を引用して、ご自身が人の罪の贖いとして十字架の苦難を負うけれども、やがて最後には勝利して、地上に神の国を完成するために来臨すると言われたのです。 イザヤ書の9章5節にはこう預言されています。 『ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、“驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』。

 まさしくこの預言の成就をイエス・キリストにおいて感じます。 37節には、『そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める』 とあります。 神を信じるすべての人が呼び集められて、神の国の民となるのです。 神様に反逆して人間は罪に落ち、この地上には苦難と争いが絶えなくなってしまいました。 それと同時に、この自然界も呪われて混乱に陥ったのです。

 けれども、人間の罪を負って十字架に贖いの死をとげ、復活、昇天したキリストが、裁きのために栄光の王として、再び地上に来臨し、その時神の国は完成すると聖書は語ります。 その時には世界から罪が一掃されることでしょう。 私たちキリスト者の最後の希望がそこにあることを聖書は明らかにしています。 イエスさまの受難の日々はさらに深まって行きます。 祈ります。


 
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