2017.12.03

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「メシア時代の夜明け」

秋葉正二

イザヤ7,13-15ルカ福音書1,5-25

 今年もこれまで守られて皆さまと一緒にアドヴェントを迎えることができた幸いを感謝しています。アドヴェントは過去における主イエス・キリストの降臨を思い起こし、クリスマスのお祝いに備えますが、同時に終末的に未来における主の降臨を待ちながら、心の準備をする期間でもあります。

 カトリックや聖公会の教会では祈祷書がありますから、その中の第1アドヴェント用の特祷が読まれます。私たちプロテスタンは、ダイレクトに聖書のメシア誕生関連の記事に帰ります。新約聖書中で、最もセム的ヘブライ的筆致をとどめている箇所は、きょうのテキストだと言われています。この点において、福音書記者ルカがこの福音書を編集執筆する際に、アラム語かヘブル語の資料を入手して使ったであろうことが指摘されています。おそらくルカはエルサレム教会を訪ねた際に、主の弟ヤコブをはじめとして教会員たちと交わったはずですから、何らかの文書化された伝承を手にしていたのでしょう。その時得た資料を基に、1章から2章にかけて、三顕現・三告知・三賛歌という特徴ある構造を構築する編集作業を進めました。

 きょうのテキストはそうした編集の流れの中にあるものです。内容はザカリアという祭司とその妻エリサべトの物語です。7節に『二人とも既に年をとっていた』とありますから、老人の物語とも言えます。この時代の祭司職は24組に分けられていまして、彼らは婚姻によって家系を保つという特別な祭司社会を形成していました。祭司職が分けられた由来は歴代誌上24章に「祭司の組織」として詳しく書かれています。一見つまらなそうに見える箇所ですが、読んでみると大変おもしろい内容で、俄然興味が湧いてきます。

 かつてダビデはイスラエルを統一すると、様々な国家制度の構築に取り掛かりましたが、祭司の職制を定めたこともその一つでした。イエス時代の祭司たちはサドカイ派ですが、彼らはローマ帝国という権力に癒着して非常に保守的に、現状維持に汲々としていたと見られています。老人祭司ザカリアもその一人であったわけで、妻エリサべトも同じ家系の出です。ですから彼ら老夫婦は古式ゆかしい家庭生活を折り目正しく守って生活をしていたと考えられます。

 二人は不幸でした。エリサべトは不妊の女性であったと7節にありますが、子がないということは、当時は社会的に恥であったことが25節から分かります。祭司職は世襲制ですから、子がなければ家系は断絶する他なかったのです。考えてみればこれもひどい話で、社会というのはどの時代にも冷たい顔をのぞかせるものだということを思い知らされます。

 エリサべトもそうした世間の風を甘んじて受けとめていたのでしょう。現代でしたら「そんな不合理や差別は許せない」と主張して闘うこともできるでしょうが、保守的な世界に生きるエリサべトには闘うなどという発想はまったくなかったでしょう。5節にあるように彼らが生きた時代はユダヤ王ヘロデの世でした。いわゆるヘロデ大王と呼ばれる人物です。ヘロデ大王はユダヤ人ではありません。エドム人で、うまくローマに取り入って傀儡政権を打ち立てて、ユダヤ人の民族的独立を奪ってしまった張本人でもあります。

 こうした背景の中、神殿で職務を遂行していたザカリアの前に主の使いである天使が現れました。その時の様子が8節以下に描かれています。ザカリアは主の聖所で香を焚いていたと10節にあるのですが、この香を焚くという務めは簡単なことではありませんでした。香は毎日朝夕に焚かれましたが、この役目は祭司システム24組の中の各々の組の中でクジを引いて決めるしきたりで、一生に一度きりと定められていました。

 クジを引くという行為は先ほど触れた歴代誌上24章にもちゃんと出てきます。とにかく、中には一度もその役目に就くことができずに死んで行く祭司もいたそうですから、彼らにとっては本当に光栄な務めだったはずです。ザカリアはアビア組に属していましたが、クジに当ったので主の聖所に入り、香壇で香をたいていると、主の使いである天使が現れました。祭司が香を焚いている間、民衆は祝福を受けようと聖所の外に集まって待っています。香の煙が上がると、祭司は決められた祈祷文を読み上げ、聖所から出てきます。祭司は待っていた会衆に民数記6章にある「アロンの祝祷」を唱えて、祝福を与えました。

 この伝統は現代までちゃんと残っていまして、礼拝の締めくくりの祝祷として読み上げる牧師もいます。私もある時期使ったことがありましたが、シンプルな形に戻しました。21節によりますと、民衆は、煙が上がったのになかなか出てこないザカリアのことを不思議に思ったようです。主の使いである天使はザカリアに「喜びのおとずれ」を告げます。

 その福音の内容は、まず老妻エリサべトが男の子を産むのでその子にヨハネという名前を付けなさい、という指示でした。老夫婦に子ができるという祝福は、アブラハム以来のいわば旧約の伝統であり、信仰者への祝福の一つのパターンです。そして、その子ヨハネは老夫婦にとって喜びとなり、多くの人たちがその誕生を喜んだというのです。

 これがバプテスマのヨハネの誕生の次第です。15節にはヨハネの人となりが述べられています。強い酒を飲まず、聖霊に満たされている………。彼の使命は16節にある通り、イスラエルを神である主のもとに立ち帰らせることです。彼が生まれて後、どのような働きをするかについては17節に書かれています。曰く、『エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する』。つまり、救い主イエス・キリストの誕生に先立って、ヨハネはその道備えをするということです。

 ザカリアは思わず不信の言葉を天使に吐いてしまいます。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょう』。老人である自分と妻のことを考えた時、そうした言葉が口をついて出てしまうのは当然だとも思いますが、何にもまして彼は祭司でした。祭司は主の使いに対しては全幅の信頼を寄せていなければなりませんが、子がなくて社会的に恥を受けていた彼にはそうした余裕がなかったのです。

 主の使いは事が成るまでザカリアの口を封じてしまいます。言葉をもって様々な祭儀を執行しなければならない祭司にとって、しゃべれなくなるということは、最大の屈辱でありピンチです。老祭司夫婦の目には、自分たちが生きている時代と、天使によって告知された来たるべき時代とが、あまりにもかけ離れ過ぎて映ったことでしょう。ましてや、その時代の先駆者が、よりによって自分の家から出ようなどとは、どうしても信じられなかったに違いありません。天使の名前は19節にある通りガブリエルと言います。これは神の強者という意味ですが、かつてメシア預言をダニエルに告げていますし(ダニエル書9:21)、メシアの降臨・受胎告知を告げたのもガブリエルでした。

 本当の強さと力はメシアを信じる信仰によって神から与えられます。イザヤもエゼキエルもメシアの幻を仰ぎましたし、旧約の信仰者たちは皆メシア信仰によって導かれたと言っても過言ではありません。ところが、ザカリアは要するに、“わたしももう年寄りですし、妻も年をとっていますので”と思わず口走ってしまい、メシアを信じる信仰による力を受けなかったのです。ザカリアは信仰が足りなかったモデルみたいに描かれていますので、ちょっと気の毒な気もしますが、「わたしはもう年寄りです」という精神的な硬直姿勢、いわば心の老化現象が、神さまのなさる新しいみ業の知らせを受けとめるには不足な精神的老化現象を起こしていたということです。

 9月でしたか、祝日の一つである「敬老の日」というのがありました。平均寿命も男女共にオーバー80という時代ですから、老人がいかに生くべきかは大問題ですが、このザカリアの姿を見ていると、私たちも老人は人生の余りを生きているという消極的な考えを捨てて、青年期の生き方同様に、本気で積極的に考えなければならない時代を生きているのだ、と教えられる気がします。私たちの教会は間違いなく高齢化教会です。このメッセージはとても大きな意味を持っています。預言者ヨエルは「老人は夢を見る」と言いましたが、こと福音に関しては、どんなに高齢であっても、硬直した心を捨て切って、やわらかで若々しい心を取り戻すべきであることは言うまでもありません。

 祭司ザカリアからバプテスマのヨハネへの流れと、マリアからイエスへの流れはパラレルになっています。「ザカリア→ヨハネ」の流れに対して、「マリア→イエス」の流れを優位に立つようにルカは描いているのですが、これはイエス・キリストによってもたらされる新しい福音が、イスラエルという民族枠を超えて世界の人々へと伝えられる前触れの意味をもっています。ですからこの話は、クリスマスの前兆という意味をもっています。

 きょう、私たちは2017年の降臨節(待降節)を迎えました。アドヴェントの第1主日です。M先生を天に送り、続くようにNSさんとNJさんも天に送りました。大切な人たちを一度に失い、私たちは寂しさに包まれていますが、こうした時こそ、イエス・キリストの福音をしっかり受け止めなければ、と思います。M先生もNSさんもNJさんも、皆さん生涯をイエス・キリストの福音宣教のわざに捧げられました。

 ザカリア、洗礼者ヨハネ、イエスの流れは、やがて教会を生み出しました。私たちに近しい召天された3人の生涯のお姿も、私たちの教会に新たな力をもたらしてくれるはずです。イエス・キリストの生涯が教会の伝統を形づくっていったように、3人の信仰者のお姿は、しっかり私たちの教会に生きています。キリスト生誕2017年のクリスマスに向けて、きょうから第一歩を踏み出します。

 祈ります。


 
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