エゼキエル書から学びます。 エゼキエルはエルサレム神殿の祭司の子で、自身も祭司であったと見られています。 祭司の中でも上流階級に属し、高度な学問を身につけていました。 彼の活動は紀元前6世紀初頭ですが、その頃南王国ユダはアッシリアとエジプトという大国に挟まれて、双方についたり離れたりしながら歩まなければなりませんでした。
7世紀から6世紀に移る頃、バビロニアにはアッシリアに代わり、ネブカドレツァル王が新バビロニア帝国を築きます。 南王国ユダの王はこれに逆らい朝貢を中止しました。 するとすぐさまネブカドレツァル王はエルサレムに軍を送ってこれを包囲しました。 包囲されている最中に南王国では王が死ぬなどの出来事が起こりますが、結局エルサレムは新バビロニア軍に侵入され、新しく王位についたばかりの王や上層階級は捕囚としてバビロンに連行されています。 これが紀元前597年の第1回バビロン捕囚です。
ネブカドレツァルはユダの王の末子を傀儡の王に立てますが、彼はその後エジプトに助けを求めてバビロニアを裏切ります。 こうなるとネブカドレツァルは怒り、バビロニア軍は今度は本格的にエルサレムを占領し、町と神殿に火が放たれ、エルサレムは灰燼に帰しました。 これが紀元前587年の第2回目のバビロン捕囚です。
当時の支配・被支配は力の関係ですから、おとなしく家臣となり、朝貢さえ捧げていれば滅ぼされることは防げたのです。 しかし大国に挟まれると両方に気を使わねばなりませんから、綱渡りの外交を余儀なくされ、一歩間違えれば亡国の運命が待ち受けることになります。 ネブカドレツァル王は血も涙もないタイプの王ではなかったようで、捕囚民を連行しましたが、その実態は奴隷扱いではなく、捕囚民にはユーフラテス河畔の一定の場所での共同生活を許しました。 イスラエルの捕囚民は家を建てたり、畑を作ったり、収穫物も自由にできたことが分かっています。 もちろん結婚もできました。
エゼキエルは第1回の捕囚民としてバビロンに連行された後、捕囚の地で5年暮らした後、預言者としての召命を受けます。 彼は高度の教育を受けた人物ですから、捕囚の地で指導的な役割を果たしています。 彼の周りには弟子たちが集まり、預言者として神からの託宣を与えただけでなく、自ら預言を書物として編集しました。 イスラエルの歴史や伝承にも通じていましたから、几帳面に歴史物語を著すこともできたのです。
今日私たちが読んでいるエゼキエル書のかなりの部分は彼自身の手によるものだと言われています。 しかし本書を読み進めますと、表現がなんとも奇っ怪であったり、エゼキエル自身の特異な神秘体験が出てきたり、あるいはまた彼の異常な行動にも出会います。 そもそも1章の召命記事からして驚きです。 人間・獅子・牛・鷲の四つの顔を持った生き物によって運ばれる車を見て、それに乗った神さまの栄光の姿に接したというのですから、分かりやすい召命記事ではありません。
きょうのテキストの3章1-3節なども説教題にあるように、巻物を口から食べる話です。 まァ簡単に云えば、これは神さまの言葉を語る準備としての象徴行為なのです。 先を読んでいきますと、こうした一見わけの分からない記事がいくつも出てきます。 けれどもエゼキエルが新しく示してくれたことの中には、代々のキリスト者が大切なこととして保持してきた聖霊の働きのようなこともあります。
エゼキエル以前の旧約の世界には「霊の働き」という概念はほとんどなかったと思いますが、彼は預言者として、神が人間に霊を送り豊かに養うということを明らかにしました。 2章2節でエゼキエルはこう語っています。 『彼がわたしに語り始めたとき(彼とは神のこと)、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた』。 言わば聖霊の働きです。 こういう表現は私たちにもピンときます。 エゼキエルはその神さまから厳しい審判の言葉を語るべく、召されました。 それはテキストの2章3-7節に書かれています。 3節に「イスラエルの人々」とあります。 エゼキエルの活動の舞台は捕囚の地バビロンであり、そこで共に連行されてきた捕囚民の指導者として活動したわけですが、「イスラエルの人々」と言うからには、祖国に残された人々のことも念頭にあったのでしょう。
結構自由な生活が許されたとは言え、そこはやはり敵国の都ですから、祭司意識を失わなかった彼にとっては「汚れた地」であったはずです。 彼がイスラエルの人々に預言者として臨むに際しては、最初から厳しさがにじみ出て出ています。 ただ単に「イスラエルの民」に臨むというのではなく、「反逆の民」に遣わされるというのです。 6節のアザミ・茨・サソリといった表現も、「預言者として立つあなたには危害を加える敵が現れるよ」という比喩です。 10節には巻物(羊皮紙)の表にも裏にも文字が記されていて、それは哀歌と呻きと嘆きの言葉であった、とありますが、羊皮紙の裏にも文字が記されるなどということは異常ですし、その活動には非常に深い悲しみの状況が訪れることが言い表されています。
エゼキエルが預言者として遣わされる「反逆の家」は彼の言葉を聞かないだけではなく、危害さえ加えるだろうというのです。 それは、エゼキエルの置かれた状況がいかに悩み多いものであったかを表現していますし、同時に彼が語るべきメッセージの内容をも暗示しています。 彼はイスラエルの罪を非難し、それに徹底的な裁きを宣告していきます。 彼の非難した罪は、主に偶像礼拝と流血です。 これは構造的に見ると、十戒の前半と後半に対応していると見ることができます。 もちろん彼は祭司ですから、聖と俗の区別を疎かにすることを怠ることも非難していますが、エゼキエルの裁きの宣告の内容はイスラエルの滅亡であり、民の捕囚です。 自分が捕囚民として置かれていたのですから、なぜこんな目に会っているのかを分析していると見ることもできるでしょう。
そして、裁きの目的といえば、主なる神を知らせることでした。 彼は繰り返し繰り返し、『そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる』 という神認識句と呼ばれている定型句を50回以上も述べるのです。 もちろん最終的にはイスラエルの回復の預言を語りますが、その際も、回復は「主の聖なるみ名」のために行われるのであって、イスラエルの民には何らの救う力もないことを指摘することを忘れません。
きょうのテキストを読んでいて、わたしはあらためて預言者の重要性を思いました。 旧約の信仰には一方に創造主である神さまがいますが、創造主ですから絶対的な存在です。 そのお方の前では、人間をはじめあらゆる被造物が何らの力も持ち得ません。 人間は軽々しくそういう神さまに会うことなど到底できません。 けれども、神さまがあまりにも人間の世界から超越していると、人間と神さまは無関係になりかねません。 しかし神さまは、他方で、絶えず人間にメッセージを送ったり人間世界に介入されようと人間を愛されるお方です。 人間と隔絶していながらも、他方では絶えず人間と関係をもたれようとされるお方なのです。 具体的に神と人とを結びつける働きをするために選ばれた数少ない存在こそが預言者です。 つまり彼らは「神の言葉を聞くこと」ができる存在として選ばれたのです。
イエスさまも旧約のこの預言者の系譜を引き継ぐ存在として新約世界に登場されました。 預言者には2章の初めにあるように、「霊に満ちた状態」で神の言葉を聞いたり、幻聴や幻覚を覚える状態になることがエゼキエルのようにあったのです。 人間の視点だけから見れば、その状態は「神がかり」だったり、「フラフラ状態」のように見えるのですが、旧約聖書の預言者の召命や働きにはそうしたことが起こり得ることを、私たちはあらかじめ理解しておく必要があるでしょう。 1章の召命記事も、3章冒頭部分の「巻物を食べる」記述もそうした観点から読むと納得できるように思います。 神さまは預言者を選んで「人々に伝えよ」と預言者だけに語りかけられる……人々は預言者の言葉を聞いて、神の言葉だと信じる……。 その際、神の言葉だと信じることができない人たちも現れます。 つまり、神さまの言葉は、それを神の言葉だと信じる人たちと共にしか存在できないのです。
これは神さまがそのように神と人との関係を設計されたとしか言いようがありません。 預言者という器を通すことで、人間は神の言葉を信じるかどうか試された世界が旧約聖書の世界だと言ってよいでしょう。 幸い、私たちは新約聖書の世界に生きることを許されています。 新約聖書の世界に預言者はいませんし、必要ありません。 その働きはすべてイエス・キリストが負ってくださっているからです。 ただイエスさまの働きの背後には、エゼキエルをはじめとする預言者の系譜があるのだということは理解しておく必要があります。 イエスさまはまったき人としてこの世に遣わされているので、私たちはその言葉だけでなく、行動においても神さまを知ることができます。 イエス・キリストの存在全体が神に通じる道となっています。 これは私たちにとってこれ以上ない大きな恵みだと思います。 祈りましょう。