2017.9.17

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「偽りの平和、真の平和」

秋葉正二

ミカ7,1-7ルカ福音書12,49-53

 

 きょうはカンファレンスなので、テーマ「信仰・希望・愛」に合わせて、たとえばコリント前書などをテキストに選べばよかったのですが、4週程前にローズンゲンからすでにルカをテキストに選んであったので、変更せずにそれを用いさせていただくことにしました。ということで、きょうのテキストですが、いささかショッキングな内容です。キリスト教思想には対立などあり得ず、常に穏やかな平和の空気が満ち満ちている、と信じている人には驚くようなことをイエスさまは口にされています。そのイエスさまの驚くような厳しい物言いの意味を探ってまいりましょう。

 ところで、「平和」ということを考えるとき、今世界は、とりわけアメリカは、東北アジアに起こった北朝鮮の核武装まっしぐらの姿勢を受けて、世界一の軍事力という力による平和維持をあからさまに誇示しています。トランプ大統領のこれまでの言動から予想されたこととは言え、このままチキンレースのような状態が続けばやがて戦争が起こり、日本も巻き込まれるのではないか、と心配されています。

 核戦争というのは、ひと度起こしてしまうと、取り返しのつかない結果をもたらすことは誰でもよく分かっています。ですからそう簡単に起こるとは思いませんが、人間のすることですから、何か手違いがあって勃発という可能性も考えられます。それだけに私たちキリスト者こそ、ただオタオタするだけでなく、落ち着いて聖書の言葉に聞く姿勢が重要だと思います。

 もちろんイエスさまがきょうのテキストのような言い方をいつもしているかと言えば、決してそうではありません。基本的に聖書は、力による平和維持という考え方を拒否しています。たとえば、同じルカ福音書の6章27節以下にはこう書いてあります。『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を送り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない』。またマタイ福音書の並行記事にも、「右の頬を打たれたら、左の頬をも」と同様なことが書かれています。イエスさまがこうした言葉で私たちに問うておられるのは、敵を憎悪し、その敵を力で征服していくという発想そのものです。それで本当に平和が得られるのか? ということです。ですからそれは、力による平和維持を問い直す言葉です。

 そう問われると私たちは、「それでは敵とは誰のことか?」などと考えます。違う民族は敵なのかとか、武力しか平和の道はないのか、あるいは頬を打たれたら我慢していられるかなど、次から次へと課題が浮かんできます。ときにはまだ実際に頬を打たれていない前から、もし打たれたらお返ししてやろう、と考え始めたりもします。

 北朝鮮に対するアメリカの姿勢に追随する日本政府の対応策は、そうした考え方に近いのではないか、と私は理解しています。「敵を愛せ」と言われるイエスさまが、「頬を打たれたらもう一方も」というとても無理そうなことを口にされたのは、私は逆説的な要求ではないかと考えます。愛す愛さない、という前に、私たちは前提条件のように、自分にとっての敵と味方をまず分けて考えてしまっているのではないでしょうか。敵と味方を分けるということは、分けた時点から敵を排除することを通して平和を見出そうという方向を向いていることです。こうした原理といいますか、この傾向は、国と国の関係の中だけに見い出せることではなく、自分のすぐ近くにいる人との関係にも見い出せるのではないでしょうか。

 聖書が語る平和の問題は、何も天下国家を論じる際だけでなく、自分とすぐそばにいる人との間にも基本的には同じように生じる問題ではないかと思うのです。トランプ大統領とキム・ジョンウン最高指導者のにらみ合いばかりが大きなニュースとして印象的で、個人の問題などにはなかなか目が行かないのですが、イエスさまはきょうのテキストを通して、私たち個人個人にも究めて挑戦的に平和に関わる言葉を投げかけていると思います。

 私たちは自分の定めた敵を云々するだけでなく、同時に味方を問い直す必要があります。イエスさまは、聴く者が無条件に前提としてしまっている「平和」の根拠を、激しい言い回しによってまず突き崩しておられます。ショッキングな言葉を聞けば、私たちは不安になりますが、言うなれば、イエスさまは不安を掻き立てておられるのです。その上で、単なる自己満足ではない真の平和を私たちに考えさせようとされます。

 一番身近な例として、53節では家族が引き合いに出されています。父と子、母と娘、しゅうとめと嫁、の関係です。私たちは無条件で家族を親しい「味方」と思っていますが、本当にそうなのでしょうか? 「あなたの家族のつながりは神さまに祝福される関係ですか?」、 そう問うておられるのです。たとえば、古代イスラエルには家父長制が厳然たる事実として長い間ありました。日本でも封建時代からの名残りで家父長制はつい最近まであったのです。しかしそうした制度に依存した家族の在り方が、ひとり一人に本当に幸福をもたらしたか? とイエスさまは鋭く問われるのです。

 イエスさまの言葉は当時のユダヤ教社会を揺さぶりました。ユダヤ社会の秩序に根本的にメスを入れる厳しさをイエスさまの言葉は含んでいたからです。もちろんユダヤを傀儡のように支配していたローマ帝国にもその言葉は届きました。ですから最終的にローマ帝国は、イエスさまを「敵」と断じて十字架につけたわけです。

 十字架は明らかに暴力です。暴力によってイエスさまは排除されたのです。しかし、自分がこれから殺されていこうとする時に、マタイ福音書によれば、イエスさまは印象的な短い言葉を残されました。ヨハネ福音書によればどうもペトロらしいのですが、大祭司の手下に剣を振るって耳を切り落としてしまいます。その時イエスさまは言われました。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』。ヨハネ福音書ではこうあります。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか』。

 これはもうはっきりと十字架の死を意識された一言でしょう。このイエスさまの示された平和に対する考え方の方向は、しっかり教会に伝承されたと思います。たとえば、パウロはロマ書12章17節以下でこう言っています。『だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい』。

 教会は二千年の歴史の中で平和構築の意味を取り違えて権力そのものになったり、戦争を肯定したり、いろいろ間違いを犯してきましたが、武力を使わない、復讐しない、というイエスさまの教えは、時に細い流れになったりもしましたが、確実に伝えられてきました。だからこそ、アッシジのフランシスやダミアン神父やコルベ神父やマザーテレサのような人を必要に応じて、神さまはこの世に送ってくださるのだと思うのです。

 また見落としてはならないのは、このテキスト全体が終末の裁きの警告になっているという点です。49節の「地上に投ぜられる火」は「火による裁き」を意味していますし、50節の死の予告も「終末の裁きの暗示」でしょう。51節以下の「家族の分裂」は、終末の混乱を表す黙示文学の表現だと言われています。つまりすべて「終末の裁きのいろいろな側面」を表しています。

 これはヨハネ福音書にも通じることですが、イエスさまの到来によって、終末の出来事は現在化するのです。別な言い方をすれば、イエスさまが投じる火によって人々は、イエス・キリストを受け入れる人と拒否する人とに選り分けられるということです。50節の「洗礼」はもちろんイエスさまの受難を暗示する言葉です。イエスさまを介して燃やされる「火」にせよ、イエスさまの受難死を意味する「洗礼」にせよ、それらはイエス・キリストの前での人々の決断を要求します。イエスさまを拒否すれば投げ入れられる火は裁きの火になり、受け入れれば清めの火となるのです。

 この厳しさがあるので、イエスさまは徹底的に見せかけの平和を嫌われました。分裂がもたらされるというのは、その厳しさに関わる黙示的な表現です。キリストによってもたらされる分裂は家族の中までも及ぶのです。このように、イエス・キリストの到来による分裂は、終末の到来を意味するものとなります。私たちは今、東北アジアの平和に関して、時代の厳しい波に洗われていますが、この厳しさに相対しつつ冷徹でいなければならないことをイエスさまのお言葉から示されているような気がします。イエスさまの十字架上の死とその結果は、歴史の中にくっきりと教会の姿を刻みました。私たちはその歴史の只中に生きています。教会が福音宣教の使命を果たすことができるように、祈りつつ歩んでまいりましょう。

 祈りをささげます。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる