2017.9.3

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「回心」

秋葉正二

エレミヤ書3,14-18使徒言行録9,1-9

 キリスト教の歴史上、最も重要な位置を占め、多大なる働きをしたパウロは、使徒言行録においてはまず教会の恐るべき迫害者として登場します。当時の呼び名はサウロでした。彼は7章のステファノの殉教のシーンではその処刑に立ち会っていたことが記されています。また8章では家から家へ押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた、とありますし、さらに9章の冒頭では、エルサレムにおいて積極的に迫害に加担し、ダマスコに逃れたキリスト者を追ってパレスチナの境界線を越えようと大祭司に添書を求めたことも書かれています。

 どの記述も上からの命令ではなく、パウロ自身の確信と信念に基づいた自発的行為として行われたことが描かれています。もちろんキリスト者弾圧運動が盛んに行われていたことが背景にあります。7章8章の記事などは、パウロの回心の出来事を一層鮮明にするために編集者ルカが付け加えた描写かなとも思いますが、サウロは熱心なユダヤ教徒として歩んでいたわけですから、弾圧行為は当然と言えば当然です。ところが神さまはきょうのテキストにあるように、このサウロを選び出し、キリスト教の宣教者として召し出しました。ルカは、神さまのなさることが人の思いをはるかに超えていることを言いたかったのでしょう。

 信仰の世界では、迫害という行動が場合によっては反対の効果を生み出すことがあります。ダマスコ(現代のシリア・アラブ共和国の首都ダマスカス)は、パレスチナからメソポタミアに至る交通の要所で、紀元前1600年頃の碑文に、つまりアブラハム時代に、すでにその名前が出ている世界最古の町の一つです。現在内戦状態に陥って6年以上にもなるシリアの状況を思うと、何とも複雑な気持になります。

 サウロが迫害しようとしていた対象者は、直接イエスさまから教えを受けた人たち、あの五殉節の折、エルサレムで使徒たちの指導を受けた人たちであり、またステファノが殉教した時ダマスコへ逃れた人たちでした。若きサウロは意気込んでダマスコへ向かったことでしょう。ところが突如として予期せぬ出来事が起こりました。3節以下にその折の様子が描かれています。

 ダマスコの城壁のまぎわまで来た時、突然天から光がさして、彼の周りを照らしたので、彼は地に倒れ、呼びかける声を聞いたのです。“サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか……”。この言葉は母国語のアラム語です。相手の名前を厳かに繰り返して呼ぶのは、神さまが人を諭す場合の常ですが、サウルが聞いた声は、天にあげられたキリストご自身の声として臨んでいます。なぜなら、彼が驚いて、“主よ、あなたはどなたですか”と答えると、“わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる”という答を聞いたからです。

 このパウロの不思議な体験をどう理解したらよいのでしょうか。パウロの回心については、その原因を説明しようといろいろな試みがなされてきました。ある人は、サウロが自分の態度が変わった口実として、この話を作り上げたと言います。また他の人たちは、サウロが自然現象を誤解したのだと言います。中にはサウロはてんかんにかかって幻を見たのだ、と説明する人もいます。そうかと思うと、心理学的な分析をした人もいます。それによれば、パウロはキリスト教徒を片っ端から捕らえて尋問しているうちに、自分よりもキリスト教徒の方が神に対する正しくて深い信仰を持っているのでは、という疑問を持つようになり、自分の弾圧行動の正当性が問われるようになってきていた……その結果、無意識的な深い罪責感と、自己処罰の感情が蓄積されて、それ以上弾圧を続けられなくなっていたのではないか……しかし青年行動隊長的な自分の役割を考えると退くに退けない立場だったので、無理を重ねているうちに爆発的な回心が起こった、というような解釈です。

 いずれにしても、私はその原因をパウロ自身のうちに求めるのは正しくないような気がします。聖書は「これは実際に起こった出来事である」と主張しているからです。もう少し丁寧に言うと、聖書の立場は、事実に解釈を加えています。実際に起こった事柄に、ルカが信仰による解釈を加えた出来事が聖書の記事なのです。使徒言行録はこの後、22章26章でもサウロ回心の記事を載せています。ルカがどれほどサウロの回心を重要視していたかが伺えます。

 実際キリスト教の歴史を振り返ると、最初に申し上げたようにパウロの働きはとてつもなく大きいことが分かります。しかし、確かにパウロは主役のように見えますが、本当の主役は彼ではなく神さまではないでしょうか。神さまは必要とあらばどんな人でも福音宣教のために用いられるのです。パウロの場合、彼の回心はキリスト教が新しい局面へと向かうきっかけとなっています。ユダヤ人たちが自分たちの信仰に従ってキリスト者を迫害したことは、単に熱心な信徒を迫害しただけに終わりませんでした。彼らはサウロを迫害しているつもりで、実はイエスさまを迫害していたのだと思います。

 ですから、私たちにしてもその働きがたとえ小さいものであれ、信仰のゆえに迫害されることがあるならば、慌てふためくことはないように思います。聖書の神さまは全能の創造主ですから、その神さまに反抗しても、その勢力をいつまでも持続することはできません。そのうち必ず打ち倒される時がやってきます。ですからイエス・キリストを信じる私たちは、いついかなる時でも落胆するには及びません。

 サウロが天からの光に突然倒されたのは、神さまの働きでした。サウロは見事に打ち倒され、三日間目が見えず、飲食もできませんでしたが、神さまはそれで終わりにしませんでした。神さまは迫害者をも伝道者に変え給います。その計画は人の目にはまったく分かりませんが、必要とあらばその人を神は用いられます。私はこのサウロ回心の記事を読むたびに、私たち人間はこのような神さまのなさる業を素直に受け入れるしかないな、と思わされます。私たちの多くはパウロのように劇的な回心を経験していません。でも私たちが信仰を与えられて、主なる神さま、主イエス・キリストを信じるようになったことは、何らパウロの回心に劣ることではありません。私たちも神さまに見初められ、愛されているのだということをしっかり自覚したいと思います。  祈ります。

   
 
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