2017.8.6

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「復讐してはならない」

秋葉正二

アモス2,4-8ローマ12,17-21

 「平和聖日」を迎え、今年も平和について聖書から学ぶ機会を与えられました。 今、現代の平和についての課題を考えると、世界中が民族主義との関連の中で問題を抱えているように思います。 旧約聖書では平和はヘブライ語のシャロームですが、これが意味するところは単に戦争がないというだけではありません。 共同体の中に神さまの祝福が溢れ、民衆の間にも信頼と調和があり、全体として生き生きと活動している状態を指しています。

 古代の平和構築の方法はとにかく「力」でした。 イスラエルにしても、ダビデ王国に象徴されるように、神さまを「万軍の主」として引っ張り出して、力による「平和」秩序の維持を目指したことは確かです。 しかし、そうした世界にアンチを掲げて、新しい考え方を示したのがイザヤ、エレミヤ、アモス、ホセアなどの預言者たちでした。 彼らは必要があれば、遠慮なく自分の国を批判したのです。 その声は、選民思想という、言うなれば排他的民族主義をひっくり返す力を秘めていました。

 なぜそうした動きがイスラエルに起こったのか、その理由の一つは、偶像礼拝を禁ずる唯一神信仰に秘密があると私は思っています。 イスラエルを取り囲む世界は当然多神教世界でした。 多神教の世界では、神さまが目に見える刻まれた像として、手の届く範囲にたくさんいます。 そうした神々は、一定地域の気候風土などその地の環境に適合する形で、その地の人々が生み出してきた存在と言えます。 神礼拝は、その地の農耕文化などと密着して成り立っていました。 人々はすぐ近くにいる神々に収穫物を捧げて、手軽に目の前にある像としての神々の前に立つことができました。

 しかしイスラエルの神ヤハウェは、名前さえも直接呼んではいけないお方であり、目で見てはならない、気安く近づける存在ではありませんでしたから、ヤハウェの神さまと向き合うには、相当な覚悟が要りことになります。 たとえ叱られたり罰せられたりしても、忍耐強くおつきあいを続けなければなりません。 豊かな産物はこれといって無く、弱小国家イスラエルはいつも周囲の国々の侵略に怯えていなければなりませんでしたが、ヤハウェの神さまに向き合う信仰姿勢だけは鍛えられていったのです。

 唯一神信仰の立場からすれば、人がつくり出した多くの神々は偶像ということになりますから、それらをおいそれと拝むことなど当然できません。 その忍耐を伴う継続的な緊張関係こそが、「祈り」と呼ばれる神さまとの対話です。 多神教の神々と民衆の間には、イスラエルの人たちがヤハウェの神さまと向き合うような関係はありません。 言うなれば供え物を捧げて感謝しておしまい、というような関係です。

 私たちのキリスト教信仰は、この唯一神との対話、すなわち「祈り」を伝統としてイスラエルから受け継ぎました。 私たちは神さまに願い事をたくさんしますが、それだけではなく、私たちと神さまとの対話には、質問とか抗議とか論争とか、簡単には首を縦に振らないやり取りさえも頻繁に起こるのです。 収穫物に感謝して供物を供えるだけでは到底終わらない関係が、祈りという対話にはあるわけです。 多神教の神々は、いつまでもしつこく「お前さん、そんな生き方でいいのか?」などと問い続けたりはしません。 けれども私たちの神さまは対話の中で、厳しく私たちに問い続けますし、詰問するにしても簡単には諦めてくれません。 ですから根本的に神の存在の仕方が多神教と唯一神教とでは違うのです。

 なぜこんなことを申し上げているかと言えば、平和の維持についての考え方についても、私たちの神さま、イエスさまは、相当厳しくかつ執拗に、「力による平和維持でいいのか?」と問い続けられているからです。 私たちが聖書を読み続ける限り、祈り続ける限り、神さまは私たちに「それでいいのか?」と問い続けられます。 皆さん、現代の世界の宗教を眺めてみてください。 キリスト教、イスラム教、仏教……と、形こそ違え、世界を席巻しているのは唯一神教という形の宗教です。 つまり、信じる人に厳しく問い、あるいは考え続けさせ、場合によっては行動を促したりもする唯一神教の衣をまとった宗教なのです。

 今、世界の平和を冷静に分析するには、こうした世界宗教のことをよく理解しておかなければなりません。 日本の村単位の平和ではあるけれども、小さな狭い神々の世界に閉じこもっていては、とても世界平和を分析することなどできないでしょう。 ご存知のようにイエスさまは、力による平和維持という考え方を拒否されました。 「敵を愛せ」とか「頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」というような教えは、それを裏付けています。 イエスさまは聖書を通して、私たちに敵を憎んで、その敵を征服していくことによって自分の平和を得ようとする発想を問うておられるのです。

 「祈り」というイエスさまとの対話を続ける限り、イエスさまの私たちに対する問いは続きます。 イエスさまはローマ帝国の力によって十字架へと追いやられました。 イエスさまは逮捕される前に、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』とおっしゃいましたが、軍事力によって成り立っていたローマ帝国にとって、そういうことを言う者は明確な「敵」でした。

 きょうのテキストには、復讐を禁止するパウロの言葉がありますが、パウロの平和に向き合うスタンスは、はっきりイエス・キリストに由来していると思います。 復讐の禁止はもともとレビ記や申命記など、旧約聖書にもありました。 しかしそれらは同胞に対してそう言っているもので、自ずと限界があります。 パウロはイエスさまの教えを継承するように、復讐の禁止対象を「誰に対しても」と、制限範囲を取っ払っているのです。 これは驚くべきことではないでしょうか。 復讐は神さまの領分に属することなので、すべて神さまに任せなさい、と言うのです。 これは「敵を愛せ」と言われたイエスさまのお言葉を、善によって悪を凌駕しようとした、パウロ流の平和構築のための実践指導ではないでしょうか。

 現代世界の有り様は複雑で多様ですが、私たちキリスト者は平和をつくり出そうと努める際に、復讐を禁止するパウロの言葉を土台に据えておくべきだと思うのです。 現代でも政治の世界では、平和が力によって維持されると考えている人はたくさんいます。 キリスト教国と呼ばれる国々でさえ、それが当たり前になっていることは悲しむべきことです。

 きょう教団の「戦責告白」をご一緒に読みましたが、この文章の根底には、「敵を愛せ」「復讐は神に任せよ」という考え方があると思うのです。 私たちの国が核兵器製造につながるプルトニウムをたくさん保有したり、アメリカの軍事力を背景にした世界戦略に追随したりする方向性は、イエスさまやパウロの思想とは逆方向のように私には思えます。 聖書をしっかり読んで、よく祈って、神さまと対話しながらどれが正しい選択かを見究めていく責任がキリスト者にはあります。 真のシャロームの世界を生み出すために、神さまとの対話を続けてまいりましょう。  祈ります。


 
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