きょうのテキストは内容から三つの部分に分けられます。 第一は25,26節で、イエスさまが父なる神にささげている感謝の祈りです。 ゲッセマネの祈りのように、極限状態における祈りではなく、いわば日常の祈りと見てよいと思います。 25節前半は文字通り天地の創造主たる神さまへの賛美です。 イエスさまにとって祈ることは、まず神さまを賛美することでした。 神さまとのつながりがイエスさまにとって最も大事なことであったことが分かります。
さて、私たちの祈りはどうでしょうか。 私たちの祈りは、一言で云えば願い事です。 何かを願うことは当然で別に悪いことでも何でもありませんが、ある面で人間の弱さを端的に映し出していることは確かでしょう。 神さまへの賛美の前に、まずお願いを聞いて頂く、これが普通の人間の姿です。 イエスさまは祈りに際して、まず 『あなたをほめたたえます』 と賛美するのです。 イエスさまの姿勢から、私たちは祈りの本質とは何かについて、考える必要があるのではないでしょうか。
そして続く25節の後半にはちょっと気になる表現が出てきます。 『これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』。 …… これらのこと」とは何でしょうか? 直前の言葉だろうか、とも考えましたが、どうもそうではないようです。 もっと広い意味で、神さまのみ旨とか救いの心とかを指しているようです。 そして「これらのこと」を、『知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました』 とあります。
当時の「知恵ある者、賢い者」と言えば、まず思い浮かぶのはユダヤ教の指導者たちです。 神さまが秘すべき知識・啓示を知者や賢者には隠して、むしろそうでない者に与えたという考え方は、すでに旧約聖書に見ることができます。 例えばイザヤ書の29章13節以下にはこうあります。 『主は言われた。“この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される”。 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は…………』。 イスラエルの指導者の偽善を激しく糾弾する預言者の言葉です。 こうした思想傾向をイエスさまは意識されていたものと思われます。
それはパウロの信仰理解にも見ることができます。 パウロはコリント前書1章18節以下でこう述べています。 『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。〈わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする〉。知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。………』。 つまりパウロも、キリストによる啓示は、知者や賢者に隠されていると言うのです。 若き日に、ユダヤ教の学問を修めたパウロには、旧約の考え方がきちっと理解されていたのでしょう。
さらにマタイは、「これらのもの」を、『幼子のような者にお示しになった』と述べています。 「幼子」と言えば、イエスさまは「子供たち」や「乳飲み子」を度々引き合いに出されて、『神の国(天の国)はこのような者たちのものである』 と語られています。 マタイは『幼子のような者』を複数で表現していますので、マタイの脳裏には既に各地に広まりつつあった教会の姿がイメージとして、『幼子のような者』に重なっていたのかもしれません。
段落の二つ目は27節です。 『父のほかに子を知る者はなく……』とあります。 父は神さま、子はイエスさまです。 『父のほかに子を知る者はなく』 に続いている言葉は、『子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』 です。 文脈から言えば、「子のほかに父を知る者はいません」となるのが普通ですが、「子が示そうと思う者」が付け加えられています。 子なるイエスさまだけでなく、イエスさまが示そうと思われる者もまた父を知ることができる、とイエスさまは言われているのです。 イエスさまが選び、招かれる者も父なる神を知ることができるのだ、というのです。
私たちが信仰を持つということは、イエスさまが私たちを選び招かれるということです。 イエスさまに招かれてその愛に触れた者は、神さまを知る者の一人に加えて頂けるという約束がここには宣言されています。 どう考えても私たちはイエスさまのように神さまを知ることなどできそうもないのですが、イエスさまが選んでくださった折には、愚かな私たちにも神さまを知る恵みが与えられます。 これはもう私たちの信仰の姿勢とか信仰が強いとか弱いとか、そんなことを超えている救いの秘儀というしかありません。 人間の能力とか努力とかをもってしても、到底たどり着くことのできない不思議な信仰の世界の事実というしかありません。
最後の段落は28節以下です。 有名な言葉が書かれています。 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』。 私たちは肉体的なことを言えば、たいていの人が疲れていると言ってよいと思います。 毎日の学校や職場での生活においては、仕事だけでなく、人間関係にも揉まれてヘトヘトになります。 体力的に衰えた高齢者にとっては、外出すれば駅の階段を上り下りするのも一苦労です。 そして「重荷を負う」とは、精神的に疲れ果ててしまうことでしょうか。 私たち人間は実際に重荷を負っていなくても、見えない力に縛られているように感じることがよくあります。
先週私は、テロ防止というカムフラージュによって偽装された共謀罪法案が廃案になるようにと、国会前の抗議行動に参加してきました。 共謀罪はそれこそ私たちを縛る見えない力です。 こういう力に縛られると、人間はやがて疲れ果てて、自分の置かれた状況さえ考える気力もなくしてしまいます。 とにかく、この世に生きる限り、私たちを疲れさせ、重荷となるものは尽きることがありません。 悲しいことに、教会生活に疲れてしまう人さえいます。
そのように、疲れて重荷を負う私たちにイエスさまは実に魅力的なお言葉をかけてくださるのです。 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』 と。 そうして、『わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである』 と言われます。 軛はご存知ように、二頭の家畜の首にかけて畑を耕すなどの作業をさせるための道具です。 軛がなければ、家畜の力を十分に引き出すことはできません。 イエスさまは「わたしの軛を負いなさい」と言われます。
もちろんここでの軛は喩えです。 イエスさまが生きられた当時のことを考えれば、民衆にとっての代表的な軛は、ファリサイ派の主張するような律法厳守の教えであったかもしれません。 パウロはそのことをしきりに論じていますが、律法を懸命に守ろうと努力して守れなかったときの落胆や敗北感はその人を打ちのめしたことでしょう。 パウロ自身もその体験者でした。 けれどもイエスさまに出会ったお陰で、彼は信仰は神さまの恵みであるという真理をつかみました。
私たちの信仰もそこに立っています。 イエスさまは軛を例に取り上げながら、わたしの軛を負って、わたしに学びなさい、と言われています。 わたしの軛は負いやすく、その荷は軽いと言われるのです。 軛を負わなくてよいというのではなく、イエスさまのもとに行こうとする者は、イエスさまの軛を負わなくてはなりません。 ただその軛は負いながら安らぎを得られる不思議な軛です。 これはイエスさまに従っていくと、荷を担いでも平気な元気や力を与えられるということです。 勇気や物事を積極的に進めようとする明確な知恵や力を与えられるのです。 疲れ果ててぐったりしている世界から、目的意識をもって元気よく歩む世界へと移されるのです。
もちろんこれはマジックでも何でもありません。 信仰の力です。 イエス・キリストを信じる信仰は、そのように私たちの生き方を変えます。 十字架という一番重い重荷を負われた方の言葉として、私たちは、「わたしの軛を負いなさい」というイエスさまの招きを受けとめたいと思います。 イエスさまは決して私たちに放縦な生活に流れていいよ、と仰っているのではありません。 律法厳守のような教えに縛られて生きるのではなく、自由に生き生きとイエスさまと一緒に軛を負って生きることができたら、それは素晴らしい人生です。 四国のお遍路さんは弘法大師と同行二人ですが、私たちキリスト者はイエスさまと同行二人の人生の旅行きです。 お祈りしましょう。