2017.4.16

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「光の中を歩む」

秋葉正二

ハバクク3,3-4ヨハネの手紙 二 1,5-10

 

 使徒ヨハネの名前がついた文書は、福音書の他に手紙が三つあります。 手紙のうち福音書に一番共通点のあるものは手紙Iです。 福音書記者ヨハネとこの手紙の著者は、両者共、一般にヨハネ教団と呼ばれる同じ教会グループに属していたリーダーであったと見られています。 書かれた時期は福音書の方がやや早いのですが、同じグループですから信仰思想に共通点がたくさんあり、文体や用語の共通性が指摘されています。 たとえば、神さまを表現するのに、「神は霊である」とか「神は愛である」というような言い方です。

 きょうのテキストでは、5節で「神は光である」と言っています。 また一種の二元論ですが、「光と闇」のように対立概念を用いて主張を展開します。 もちろん主張する内容を比較すれば異なる点があることも確かです。 ヨハネ教団のスタートは、パレスチナで 「イエスはメシアである」 と宣教活動を開始した使徒ヨハネにさかのぼることが出来るでしょう。 その後、幾たびかの曲折を経て、活動場所も小アジアの方面へ移動しながら、やがてこのグループは正統と異端に別れて行ったと思われます。

 福音書の方を読むと分かる通り、ヨハネ文書は高度なキリスト論を展開しています。 福音書の冒頭の言葉を思い出してみてください。 こんな風に始まっています。 『初めに言があった。言は神と共にあった。言葉は神であった……言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった』。 言と訳されている語はロゴスです。 有名なロゴス・キリスト論のさわりです。 どうもそうした神学的・論理的傾向から影響を受けて、2世紀にはそこから異端とされているグノーシス主義なども生まれていったと言われます。

 ヨハネ文書の背景にはそうしたことがあります。 こうしたことを彷彿させるような表現が、きょうのテキストにも出てきます。 訳者たちがつけた小見出しも「神は光」です。 言葉そのものは簡単です。 「神は光である」。 しかし、「それは一体何のことか?」 と考えると、中身はそう簡単ではないらしいことが分かってきます。 どうして 「神は光である」 というような象徴的な言い方をしたかと言えば、著者が生きていた時代に、「光と闇」 というような表現で、いろいろ信仰の問題が言い表されていたからでしょう。

 先程グノーシス主義と言いましたが、当時の教会の中には、だんだん信仰に対する間違った生き方が広がりつつありました。 この手紙の著者はそれを防ごうとしたわけです。 その間違った考え方とは何かと言いますと、「神と交わるためには、ある種特別な宗教的知識を持つことこそが大事である。そしてその知識を持つことによって、神秘的な体験をして神と一体になるのだ……」。 まあ、そんな信仰理解が教会の中に広がりつつありました。 これがもっと偏ると、そうした神秘体験をしたことのない者は本当の信徒ではない、となるわけです。 そうなると、日常生活の在り方などよりも知識によって救われる方が大事だ、となってきます。

 6節に 『わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行なってはいません』 とありますが、これは 「神さまと交わりがあると言いながら、宗教的に高度な知識を持ったり、神秘体験をするといって闇の中を歩いているのだから、それは偽りだよ」 という指摘なのです。 神さまと交わりがあるというのは、決して知識だけのことではない、この体をも与えられている私たち人間が、日々の生活を通して神さまと交わりながら生きていく、そういうことだ、という指摘なのです。

 「神は光である」 とヨハネ教団は神の本質を定義したのですが、あくまでも「光」は神さまの属性です。 主語と補語が入れ替わって 「光は神である」 とはなりません。 理性や知性を重視する現代人だってそうです。 もし私たちが 「光は神である」 と言ったら、それは光を神と崇めたてまつる何か原初的な信仰になってしまうでしょう。 同様に、「神は愛です」 を 「愛は神です」 に入れ替えたら、それは一種の人道主義になってしまいます。

 キリスト教信仰はそうではない、と手紙の著者は主張しているのです。 また 「光と闇」 というモチーフは、旧約聖書から影響を受けていることも確かだと思います。 創世記の創造物語には、『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。“光あれ”。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた』 とあります。 光が与えられて、地は混沌ではなくなります。 光があって世界は初めて輪郭を与えられ、創造世界が形を持ちます。 光と闇が分けられて、初めて混沌状態から平穏な穏やかな状態へと、秩序が与えられています。 そのように神さまという光は、私たち人間の内側を照らして、その姿を明らかにする、ということでしょう。 私たち人間が心の内側を神さまの光によって照らされるとどうなるでしょう?

 ここで手紙の著者は人間の罪に言及し始めます。 7節にこうあります。 『神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』。 神という光、イエス・キリストという光の中を歩むとき、私たちは自分の罪に気づかされます。 それだけでなく、そこから光に温かく包まれるような生き方が生み出されます。 御子イエスの血によって罪を贖われ、罪を贖われた者同士が心を開いて交わり始めるというのです。 だから教会は交わりの集団です。 それと6節の 「闇の中を歩む」 という言い方も、7節の 「光の中を歩む」 という言い方も、元々はユダヤ的な隠喩です。 メタファーですね。 詩編(27,156,14)にもヨブ記(29,3)にも、コヘレト(2,14)イザヤ書(2,5)などにもそれは出てきます。

 きょう読んだ旧約のハバクク書のテキストなどもその一つです。 「闇の中を歩む」 のは、人々に嫉妬や憎悪や不信を植え付ける行動であることが示され、「光の中を歩む」 ことが、主イエスの教えを実践することであり、「真理を行う」 ことだというわけです。  7節には 『御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』 とありますが、これは、人々のための主イエスの犠牲の行為が、キリスト者の交わり(コイノニア)の土台だという意味で、これこそが初期キリスト教の神学の中心でした。 コリント前書(15,3)ガラテヤ書(2,20-21)などにもこのことは記されています。 もちろん「御子イエスの血」という言い方は、主イエスの死について告げる象徴的な言い回しです。 キリストの血が私たちの罪を取り除き、神と人間との断絶を埋めて、隔ての中垣から解放することを表しています。 そして8節、『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません』 とあります。 これは私たちが光の中を歩むことによって、継続して罪から清められる必要があることの説明でもあります。

 換言すれば、清められても依然として私たちに罪の問題は残っているという指摘です。 罪赦された後も、なお罪を犯してしまう私たち人間の姿がここにあります。 しかし、御子イエスの血は、すべての罪の赦しの完璧な土台なのだから、その血が捧げられた以上、「真実で正しい方」 である神さまは、救われた後の私たちの罪をも赦してくださる、ということでしょう。 私たち人間には、言うなれば罪の性質があるのです。 だから赦された後の自分について罪を犯したことがないと言うなら、それは自分を欺くことです。 私たちは毎週の礼拝で 「我らの罪をも赦し給え」 と罪を言い表します。 「自分の罪を公に言い表す」ことは、「真実で正しい」 神さまが、「罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださる」ことの承認であり、確認です。 もし私たちが 『罪を犯したことがないと言うなら』、それはまったくの欺きであって、イエスさまの十字架において罪を贖う神さまの行為を認めないだけではなく、『神を偽り者とすること』 になってしまいます。 それは間違いなく神さまへの冒涜です。

 この世には驕慢な人たちがたくさんうごめいています。 今、森友学園事件が日々のニュースを賑わしていますが、平気で嘘をついたり、他人のせいにしたりする政治家や役人の姿を見ていますと、情けなくなってきます。 神を知らない人たちの姿です。 自らを神の座に据えたり、相対的な自己を絶対化したり……それは、きょうのテキストに照らせば、『罪を犯したことがない』 と言い張っている人間の姿でしょう。 私たちキリスト者は、神さまの前に立たされ、本当に幸いな人生を与えられていると思います。 心から神さまに清められ、イエスさまが共にいてくださる幸いを覚えて、感謝を申し上げたいと思います。 祈ります。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる