2017.1.22

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「百人隊長の懇願」

秋葉正二

イザヤ書2,2-5マタイ福音書8,5-13

 テキストの主人公は百人の兵士からなる古代ローマ軍の部隊長、百人隊長です。 ローマ軍団は6千人から編成されており、これが60の百人隊に分けられていました。 百人隊長はローマ軍の中軸と呼ばれ、優秀な人材が集められていました。 ローマの軍隊ですから、ユダヤ人から見れば、百人隊長は当然異邦人ということになります。 このことは物語全体のポイントになることですから頭の隅に置いておいてください。 このテキストの場合、ローマ軍とは言っても、カファルナウムを含むガリラヤ地域の領主であったヘロデ・アンティパスが雇ったサマリア人や異邦人を含んだ混成の外人傭兵部隊であったとも考えられますから、もしそうならば、百人隊長にはなおさら一癖も二癖もある兵士たちをまとめる力量が求められたことでしょう。

 新約聖書はそうしたことを裏付けるように、登場する百人隊長の多くが尊敬すべき人物として登場しています。 例えば、イエスさまの十字架刑に立ち会った百人隊長は、その時に起こった出来事を見て、十字架上のイエスさまを、『本当に、この人は神の子だった』 と認めていますし、先々週学んだ「使徒言行録」10章に出てきたカイサリアのイタリア隊の百人隊長コルネリウスは、『信仰心あつく、一家揃って神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた』 と説明されていました。 コルネリウスはペトロを家に招いて、彼から洗礼を受けた人物でした。 同じく「使徒言行録」22章では、パウロをローマ人と認めて殺害の陰謀から守ったのも百人隊長です。パウロのローマ行きに同行したのも百人隊長でした。

 さて、きょうのテキストですが、百人隊長はイエスさまに近づいて、こう頼んでいます。 『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』。 カファルナウムはもちろんユダヤ人の町ですが、ローマの直轄支配地ですから、軍事的支配者であるローマ軍は威張っていたはずです。 しかし宗教的な構図を考えると、ユダヤ人たちは自分たちの信仰に誇りをもっていたはずですから、心の中ではローマ人を軽蔑していたに違いないのです。 軍人は武力行使を担う人たちですから、そのイメージといえば、武張るという言葉があるように、一般的には強く勇ましいものです。

 ところがこのテキストからは、そうした印象が百人隊長からまったく感じられません。 イエスさまに願い出るにあたり、この百人隊長は一切のプライドを捨てて懇願しています。 もちろんそれは彼の僕が中風で寝込んでひどく苦しんでいたからですが、部下をそのように思いやれる 人物ですから、きっと部下たちからも慕われていたことでしょう。 この百人隊長の態度を見て、イエスさまはすぐにこの人の本質を見抜かれています。 『わたしが行って、いやしてあげよう』 とすぐに応じられたのです。

 しかしそう訳されたギリシャ語本文には、ちょっと気になることがあります。 この部分は疑問文にも訳せるのです。 疑問文として訳すと、『わたしが行って、いやすのか』 となりますので、ひとまず間接的に百人隊長の願いを断ったことになります。 こう訳すと、続く8節の百人隊長の言葉が一層生きてくるようにも思われます。 8節で百人隊長はこう答えています。 『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません』。 彼はユダヤ人宗教社会の中で異邦人としての自分の立場を強く意識していたので、そう言ったのでしょう。 彼は、通常ユダヤ人が儀式的な清めの観点から、異邦人の家には入らなかったことをよくわきまえていたのです。 イエスさまが、『わたしが行って、いやすのか』 と間接的に断られたと解釈すれば、それに続く百人隊長の言葉は確かにより生き生きしてくる感じがします。 どう理解すべきでしょうか。

 新共同訳は平叙文としてイエスさまの言葉を訳しました。 ここではひとまずその解釈に従って、イエスさまは積極的に「わたしがいやしてあげよう」とおっしゃったと理解することにしましょう。 古代の写本にはダッシュとかクエスチョンマークなどの記号はありませんので、平叙文とするか疑問文とするか解釈が分かれることがあるのです。 もう一つ付け加えると、このイエスさまの言葉には通常省略される主語エゴーがわざわざ使われていて、「わたし」が強調されています。 これをイエスさまの強い意志を表す言葉だと理解すれば、平叙文として訳すことはもちろん可能です。

 イエスさまのお気持ちがどちらであったにせよ、この百人隊長はイエスさまに来て癒していただきたい、しかしユダヤ人は異邦人の家には入らないだろう、という二つの思いの板挟みの中で、8節後半から9節にかけて、正直に自分の限界を述べながら、イエスさまの権威は必ず発揮されると表明したのです。 イエスさまは百人隊長のその言葉の中に、信仰の本質をついた二つの点をはっきり見出されました。

 その第一は、彼が「自分は主イエスを迎えるにはふさわしくない」 と認めている点です。 これは人間の謙虚さとか傲慢さに関わることです。 このことについては、牧師として長年いろいろな求道者の方々に接してきて感じたことがあります。 「まだまだキリスト教のことが分からないので、洗礼の決心ができません」と言われる方がとても多いのです。 多くの方にそうした経験がおありになるのではないでしょうか。 これは信仰に対する誤解です。

 実は謙虚に洗礼を辞退しているのではなく、そこには人間の信仰理解についての傲慢さが隠されています。 かく言う私も洗礼を受けるときはそうでした。 高校時代のことですが、私を教会へ誘ってくれた友人と洗礼を受けるかどうか迷っていたのです。 そのとき、たまたまそのことを相談した国語の先生がクリスチャンで、「それはいい、ぜひ受けるべきだ」とアドバイスしてくれたので、その友人と一緒に押されるようにして洗礼を受けることができました。 多分そういうことがなければ、いつまでもぐずぐず自分は受洗にはふさわしくない、とやっていたと思うのです。 キリスト教のこと、信仰のことが分かるまで洗礼が受けられないとするならば、受洗できる人間はおそらく一人もいなくなってしまうのではないかと思います。 神さまがお示しになることを人間が理解できると考えるところに、そもそも初めから無理があります。 私たちが一生懸命聖書を読んだとしても、神さまが人間にお示しになることで理解できることはほんの一握りだろうと思います。 それを理解した上で聖書を懸命に読まなくてはなりません。 そう努めることの中で、その人にふさわしいように、神さまは信仰の真理を一つ、また一つと示してくださると思います。

 テキストの百人隊長は、そのことをしっかりわきまえていました。 その姿を見て、イエスさまは10節でこう言われたのです。

 『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』。

 自分に信仰が分かると思っているところでは、イエスさまの権威、力は発揮されません。 心を空っぽにして、自らの存在が弱く小さくなっているところに、初めてイエスさまの力は十分に発揮されます。 しかし自分の弱さを自覚するだけでは、「なんと私はダメな人間なのだ」 と自らを卑下するだけで終わってしまうかもしれません。 そうではなく、もう一つ大事なことがあるのです。 それはどんな場合でもどんな所でも、自由に働くイエスさまの力を信頼することです。 その点で、百人隊長の信頼度は大したものだと言わなければなりません。 『ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます』。 イエスさまのたったひと言で、自分の僕はいやされると彼は告白しているのです。

 私たちはこうした信頼をイエスさまに寄せているでしょうか。 私など、牧師づらして普段過ごしていますが、到底この百人隊長には及ばないと思いました。 イエスさまは百人隊長の人となり、その信仰をはっきり捉えられています。 その上で、10節11節に旧約時代の信仰の偉人たちを例に挙げて、自分の信仰に強い自信と誇りを持っていたユダヤ人に辛辣な指摘をされました。 この指摘は当時のユダヤ人だけでなく、現代の私たちにも向けられていると思うのです。 一般的な考えでは、百人隊長は異邦人ですから、ユダヤ人の信仰には及ばなかったということになるでしょう。 だから彼はそのことを素直に受けとめて、「自分は信仰のことはユダヤ人のようには分からない」 と自覚していました。 けれども、自分は軍人だからこの世の権威のことは少しは知っている、権威のもとでは言葉は裏切らない、上官の命令は必ず下の者に伝わって実践される、ましてや神の権威をもった言葉なら、その通りにならないはずはない、と正直な思いをイエスさまに話したのです。

 聖書は神の言葉として二千年もの間尊重されてきましたが、あらためて私たちはその意味の重さを思い返すべきでしょう。 聖書とは、神の言葉が力をもっていることを証しする書物です。 聖書において神の言葉が語られるとき、それが私たち人間を裏切ることはないのです。 現代は無数の書物やメディアを通して言葉が氾濫しています。 愛という聖書の大切な言葉さえ、余計な意味が付与されて本来の意味ではなく使われたりしています。 しかし、こうした言葉というものが信じられなくなっている時代にあっても、私たちには長い歴史を通して証しされてきた神さまの真実な言葉、聖書があるのです。

 イエスさまは終わりに百人隊長に言われました。 『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように』。 そうして、きょうのテキストはこう結ばれるのです。 『ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた』。 イエスさまがこの世に来てくださったのは、不信仰な私たちを救うためです。 私たちは祈りますが、その祈りが本当に真剣で、真摯な内容ならば、神さまは私たちの信仰がたとえ覚束ないものであったとしても、その祈りを聞いてくださるはずです。 主イエス・キリストは信仰の薄い私たちをとりなすためにこの世に来てくださった、というのは真理です。 あらためてその恵みに感謝したいと思います。 祈ります。 


 
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