テキストは「カナの婚礼」と呼ばれる有名な箇所です。 すぐ前の1章には洗礼者ヨハネの記事と最初の弟子たちのことが書かれています。 それに続いてきょうのテキストがありますので、イエスさまのガリラヤでの最初の行動ということになります。 舞台は婚礼の披露宴。 場所はガリラヤのカナで、イエスさまと母マリア、そして弟子たちも招かれています。 マリアと言いましたが、ここではなぜか固有名詞は使われず、「イエスの母」あるいは単に「母」です。 さて、ユダヤの婚礼は大変派手でした。 花婿は花嫁を迎えに行き、自分の家に連れてきます。 そこに親戚やら友人たちやらが招かれて盛大な宴が催されます。 マタイなどには天国に絡めた婚宴の喩え話があったことを思い出します。
その披露宴ですが、興に乗ると一週間も続いたということです。 夜通し語り合ったり、歌ったり踊ったり、なんとも大変な行事だったようで、主催者も招待客もその時ばかりは羽目を外したのでしょう。 さて、その際一番の付き物はぶどう酒でした。 ぶどう酒が人々の心を楽しくし、喜び歌うことを盛り上げてくれたわけです。 詩編104編には 『ぶどう酒は人の心を喜ばせ』 とありますが、まさにその通りだったことが分かります。
福音書記者ヨハネはおそらく随分考えた末に、この婚礼の記事を2章冒頭にもって来たと思われます。 と言うのは、1章は最初申し上げた通りに洗礼者ヨハネにちなんだ記事です。 洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを迫った人物ですから、その記述には自ずと信仰上の厳しい雰囲気が漂うことになるでしょう。 悔い改めは、自らの在り方を厳しく吟味することを通してなされることですから、どうしても厳しさが全面に出てきます。 それは喜びとか楽しさとかとは正反対の心情でしょう。 つまり記者ヨハネは、厳しいテーマのすぐ後に、喜び溢れる婚宴の記事を配置したのではないかと思うのです。 その結果、1章から2章へ移ると、話の舞台が一転し、テーマも移り変わります。 ヨハネ福音書には一種の神秘主義が指摘されるのですが、こうした話の配置の仕方にはそういうことも関わっているのかもしれません。
物語の内容を見ましょう。 宴もたけなわになった頃、振る舞うぶどう酒がなくなってしまいました。 集まったお客さんたちの心をまろやかにする道具がなくなってしまったという事態です。 もしかすると、予想人数を超えてしまっていたので、用意したぶどう酒の分量が不足してしまったということかもしれません。 何にせよ、それは主催者側の失態です。 母マリアは「どうしましょう、なんとかなりませんか」という気持ちで息子に尋ねたのでしょう。 『ぶどう酒がなくなりました』。
普通なら主催者側の誰かに「どうしましょう?」と尋ねると思うのですが、マリアは息子に聞いたのです。 私の息子は只者ではない、という直感みたいなものが閃いたのでしょうか。 とにかくまず最初に、イエスさまに相談したのです。 ところがイエスさまの返事ときたら、まことに素っ気ない、冷たい印象を与える言葉です。 『婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです』。 ここの部分は原文が省略文なので、訳によってニュアンスが変わってきます。
原文は実にシンプルで、「イエスは彼女に言われる」という主語・動詞に続いて「何」を表す疑問代名詞があり、その後の述語部分は省略されて目的格の「わたしにあなたに」とあるだけです。 永井訳だけは原文の直訳で、 『我にまた汝に何ぞや』 とあります。 英訳では 『あなたに何をしなければならないのか』 というのがありました。 何にせよ、イエスさまの返答が素っ気ないのは確かです。 おそらく記者ヨハネが強調したかったのは、すぐ後に続く 『わたしの時はまだ来ていません』 の方だったと思われます。
ストーリーの詳細はあらためて述べませんが、イエスさまは召し使いたちに水を汲ませて、それを上等のぶどう酒にしてしまうというしるし、奇跡を起こされました。 このしるしを記者ヨハネは、11節にあるように 『その栄光を現された』 と表現するのですが、これが「最初のしるし」だとことわっています。 ヨハネ福音書をこの後読み進みますと、イエスさまは人々が驚くようなしるしを数多くなさいます。 人々はそれらの奇跡を見て、いろいろな反応を示すわけです。 ある時はイエスさまを「預言者」と見たり、またある時は「救世主メシア」あるいは「神から来た者」と見たりします。 ということは、一つには記者ヨハネはこの福音書で、たくさんのイエスさまのしるしを示すことによって、この世界はイエス・キリストのしるしで満ち満ちていることを宣言をしているのでしょう。
ご承知のように、ヨハネ福音書成立の背後には、ヨハネを中心とした教会グループがありました。 そのヨハネ共同体の意識が、この福音書編集に反映しているとも言われます。 その際の構図というのは、その共同体に属する人たちから見ると、この世に向けてイエス・キリストのしるしが次々に示される際、それに遭遇した人たちに「しっかりしるしを見なさい、イエス・キリストというお方はこんなに凄い方なのですよ」と、自分たちはしるしが示される舞台裏にいて、しるしに出くわした人たちの反応を窺っている……そんな気もするのです。
だとすると、それは教会が陥りやすい罠の一つのようにも思えるのです。 つまり、教会の外の世界に向かって、どこか自分たちは最初から神さまに近い位置取りをしていないか、ということです。 ヨハネグループの人たちは無意識かもしれませんが、しるしを盾に、“皆さん、この凄いしるしの意味が分かりますか?” などとついやってしまっているのではないでしょうか。
共観福音書に比べれば、ヨハネ福音書は、教会共同体内部の平等さや均等化をより進めていると見られているのですが、少なくとも外部の世界に対するスタンスにはその意味で少々問題があるように感じました。 でも実際そうであったとしても、これはヨハネ共同体の問題としてではなく、私たちの教会の問題として捉えた方が意味があるでしょう。
神さまがまず真理を示されるのは教会で、その次の段階として教会から世間へその真理が伝えられる……そうした理解があるとすれば、再考する必要があるように思います。 教会が置かれているのは最初からこの世界のただ中なのです。 教会は神さまと繋がった別格で、この世の上に立つ存在だと捉えるような感覚があったら、それは教会の奢りでしょう。 さて、イエスさまのマリアに対する返答の鍵は、やはり『わたしの時はまだ来ていません』にあると思います。
イエスさまの返答は母マリアとのやりとりの中で語られた一言であることに留意してください。 母は息子が只者ではないと漠然と感じていたとしても、そこはやはり息子ですから、「何とかしてくれるだろう」という人情絡みの気持ちがあるのです。 それに対してイエスさまは、先ほど素っ気ないと言いましたが、母とはまったく異なる視点から返答をしていることも気づきます。 イエスさまにとってこの時はガリラヤ宣教をまさにスタートしようという時です。 イエスさまはご自分の中に、すでに神さまの意思を感じ始めていたのでしょう。 そういう時に、たとえ相手が母親であっても、人の意思を神の意志に優先されることはできなかったのです
このやりとりの場面にはイエスさまの言われる「時」が絡んでいます。『わたしの時はまだ来ていません』……これは神さまの意思と人の意思が一致するには、もう少し「時」が必要ですよということを表しています。 「わたしの時」というのは、神の子として神の意思を実現する時です。 つまり十字架と復活と昇天と再臨の時です。
ですから記者ヨハネにとってイエスさまがなされる「しるし」とは、奇跡を行う能力のしるしではなく、新しい恵みと真理を示すかみの権威のしるしなのです。 ヨハネはそれをこの物語を通して何とか伝えたかったのでしょう。 ですから、このカナの婚礼の話で、イエスさまが行われたしるしは、宴席に集まっていた人たちにはまったく気づかれず、一部の人しか知らなかったということに大きな意味が込められています。 表現としては奇跡が行われる話なのですが、結果的に宴席に集った人たちはしるしなどには誰も気づいていないのです。 少し酔っ払って出来上がった中で、にわかに美味しくなったぶどう酒にもっといい気分になって「乾杯!」なんてやっていたのでしょう。 それでいいのです。
何と言いましょうか、ここに描かれているしるしというのは、ほとんどの客が知らなかったしるしであって、いわば、しるしになっていないしるしであり、神の神秘なのです。 このことは、記者ヨハネにとって、奇跡を行う能力がイエス・キリストという存在を重要にしているのではない、という主張でもあります。 奇跡を行うことよりもはるかに大きな栄光がイエス・キリストにはある、イエス・キリストには神から生まれた独り子としての栄光がある、とこの物語全体を通して、ヨハネは言っているのではないでしょうか。
ヨハネ福音書というのは、アレキサンドリアのクレメンスが2世紀に指摘した通り、霊的な書物なのです。 共観福音書に比べれば、ヨハネ福音書のイエス・キリストは、オリジナリティー豊かな神秘的精神を伝えるイエス・キリストです。 記者ヨハネには、イエス・キリストの人格と神秘的な合一を果たしたいという信仰上の強烈な願いがあったのではないでしょうか。 私たちもそのくらいの熱心さをイエス・キリストの神秘性に求めてもよいと思います。 祈ります。