2016.12.25

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「キリストの平和」

秋葉正二

ミカ書5,1-3マタイによる福音書2,6-12

 クリスマスの舞台はベツレヘムです。 現在のベツレヘムはパレスチナ自治区に属するヨルダン川西岸地区の中心であり、観光地となっています。 住民の多くはアラブ系のムスリムですが、イスラエル共和国が分離壁を建設したために、人口の何分の一かは海外へ移住してしまったということです。 戦後は中東戦争の度に支配者が代わって、ヨルダン領になったり、イスラエルに占領されたりしてきました。 イエスさまの生誕地は二千年後にとんでもない状況に置かれてきたことになります。

 8Km北東のエルサレムへ行くには、イスラエルの検問所を通らなければならず、厳しいチェックがあるそうです。 クリスマスの時期には多くの観光客が訪れますが、その裏側には悲しい現実があるということです。 イエスさまの時代はそれこそ荒野の中の厳しい自然に囲まれた、人口が数百人程度の寒村でした。 当時のユダヤ地域の支配者はローマの元老院から「ユダヤ王」として認められていたヘロデ一世、いわゆるヘロデ大王です。

 きょうのテキストには占星術の学者たちとこのヘロデ大王とのやりとりが記されていますが、少し前の3節には、訪れた学者たちの話を聞いたヘロデ大王やエルサレムの住民たちが「不安を抱いた」ことが記されています。 学者たちははるか東方から星に導かれてユダヤ人の王を拝みに来ていたのですが、ヘロデやエルサレムの住民は、学者たちのようにはメシアを待ち望んではいなかったのです。

 地上で権力を手にした人間は、メシアが到来した時に自分たちがどう裁かれるかを本能的に理解しているものです。 学者たちが星を見た喜びに溢れ、ひれ伏して黄金・没薬・乳香を捧げる様子と、ヘロデ王の反応は対照的です。 はっきり言えることは、イエス・キリストはその誕生に際し、ヘロデ王とエルサレム住民からは期待されていなかったということです。 それとは対照的に、イエス・キリストの誕生を心から喜び迎え入れたのは、異邦人である占星術の学者たちでした。 このことは何か重大なことを意味しているように思えてなりません。

 ヘロデは専制君主という特別な権力を手にした人物ですが、王とまでは言わないにしても、ある程度のこの世の権力を得ていた人たちは、新しい王が生まれると聞けば、何かしら不安を感じてそれを遮ろうとするのです。 最大の事件は、きょうの週報にも書きましたが、ヘロデによるベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子の虐殺です。 イエスさまは夢で天使のお告げを聞いた父ヨセフの機転でエジプトへ逃れることができましたが、小さな村の出来事とはいえ、少なくとも2,30人の嬰児殺害があったと思われます。

 ヘロデ大王を筆頭に、この世の権力・栄華を手にして、満ち足りて生活していた人々は、イエス・キリストにはあまり関わりがなかったことを、この逸話は物語っていると思います。 ですからマタイのこの物語は、この世で権力を振るう者たちの前に、メシアである幼子イエスの誕生をぶつけて、そうした人たちの生き方を糾弾していると言ってよいのではないでしょうか。 言うなれば、反権力の立場からキリストの誕生をマタイは描いたのです。 そうしてこの描き方は、同じクリスマス物語を描いたルカのものともまた違います。

 ルカの場合は、メシア誕生のニュースが最初にもたらされるたのは、野宿をしていた羊飼いたちにでした。 その時には、ヘロデ大王のように恐れと不安はまったく前面には出ていません。 描かれているのは、メシア誕生を素直に畏敬の念をもって受けとめ、幼子にひれ伏した羊飼いの姿です。 ルカの視点は、権力には程遠く地位もお金もない貧しい民衆が救い主を待ち望んでいたという、その姿に注がれています。 マタイの視点とルカの視点を合わせてみると、クリスマス物語が何を私たちに告げているかが見えてくるような気がします。

 マタイやルカが古代ユダヤ社会に見た現実は、根本的には二千年後の現在も大して変わっていないようにも感じるのですが、皆さまは如何でしょうか。 貧しさの中で飢餓に喘いだり、困難を抱えて悩み苦しんでいる人々は、おそらくいつの時代でも存在し、世界を大変革してくれるようなメシアを待望しているのかもしれません。 聖書はクリスマス物語を通して、メシアの現れ方についてヒントを与えてくれています。 手品のように、目に見える世界を変えていきますよなどというメシアが現れたら、それはまゆつば物なのです。 米国のトランプさんは言いたい放題のことを並べて当選してしまいましたが、その通りにことが運ばなくなることはやがて明らかになるはずです。

 幼子イエスはメシアとして誕生しましたが、人を驚かすような華美さや華麗さには無縁の誕生の仕方でした。 貧しさの極みの環境に、ただ天使の祝福だけをいただいて生まれたことを聖書は伝えているのです。 この赤ちゃんこそメシアに違いないという直感を、異邦人の学者や夜なべ仕事の羊飼いたちは感じとったのです。 それはこの世の権力や栄華とはまったく無縁の直感です。 神さまを信じる心にだけ与えられる信仰的直感です。 羊飼いたちは、生まれたばかりの幼な子イエスを見て、じわじわとメシアに見えた喜びが増していったに違いありません。 そして、彼らは自分が今体験したその喜びを人々に話さずにはおれなかったろうと思うのです。

 伝道の原点はそうしたところにあるように思われます。 伝道はノルマを目標に掲げて、様々なノウハウを駆使するというようなこととは根本的に異なります。 自らの心に湧き上がった喜びを、出会った人たちに話さずにはおれないというその人の証言なのです。 私たちに当てはめて言うならば、聖書をしっかり読んで、聖霊の導きをいただいて、神さまの働きに組み込まれるように用いられるということです。 イエス・キリストの降誕は、すべての人間の救いに関わる出来事ですから、マタイやルカのように直接その時代に生きていなくても、その喜びはいろいろな形で表現可能なはずです。 マルコは自分流に真理を汲み取りましたし、ヨハネも自分流にロゴスの受肉としてイエスさまを受け入れました。 私たちも自分流にイエスさまを受け入れれば良いのだと思います。

 とにかく、イエス・キリストはある階層の人々には不安を抱かせ、裁きを告げるのです。 先週はベルリンからクリスマス・マーケットで起きた凄惨なテロのニュースが世界を駆け巡りましたが、この闇のような世界の只中で、聖書は『み心にかなう人々に平和があるように』と告げています。 その平和は「み心にかなう人々」にとっての平和なのです。 これは何らかのこの世の力によって事態を変えて実現される平和、ということではないと思います。 あえて言うならば、他者のために苦しんだり、最も小さい者の一人を顧みることによって得られる平和です。 イエスさまがご自分の命を捧げて示してくださった平和です。 クリスマスの平和は地上からではなく、神さまによって救い主の降臨によってもたらされた平和です。 決して消えるようなことのない、そのような平和を仰ぎ見つつ、間もなく訪れる新しい年も歩んでまいりましょう。 祈ります。


 
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