きょうのテキストにある 『わたしたちの本国は天にあります』 という一節は、60歳を過ぎた頃から私にとってもっとも平安を与えられる箇所の一つになりました。 還暦を過ぎる頃というのは、自分の人生がいわゆる黄昏時に差しかかる時でして、両親や叔父や叔母たちも次々に亡くなっていく時期ですから、この一句は心にしみます。 若い方々は実感がないと思いますが、やがて私と同じような気持ちになる時を必ず迎えます。
ギリシャ語の訳の問題なのですが、文語訳では 『我らの国籍は天に在り』 でしたし、口語訳も 『わたしたちの国籍は天にあります』 ですから、私にとっては「国籍」という訳の方が馴染みがありました。 浅草教会の牧師をされた永井直治先生は明治学院神学部のご出身で、すぐれた新約聖書の個人訳を昭和の初めに出版された方ですが、その「新契約聖書」は基本的に逐語訳なので、神学校時代、私は虎の巻のように用いさせていただきました。 その永井先生は、『そは、我らの民籍は天に在り』 と訳しておられます。
この国籍とか本国とか民籍とか訳されている言葉には、市民権、市民共同体あるいは外国の居留民という意味もあり、時には国家とも訳されます。 原文ではすぐ後に「天に」という言葉が続いていますが、意味合いとしてはやはり国家とか人々の共同体を指しているのでしょう。 人間の存在する場所は当然この地上だけだと考えていた高校生頃の自分が、信仰を与えられ、この聖句に出会って以来、大きな安心感が自分を包んでくれていることを感じるようになりました。 年齢を重ねる度に一層この思いは強くなっています。 聖書はこのことを人間に告げるために書かれたのではないか、とさえ感じるほどです。
福音書を読んでいますと、実にたくさんの「天国」や「神の国」の譬え話が出てきますが、イエスさまもこのことに関する真理を真心込めて語られたのではないでしょうか。 イエスさまは弟子たちと地上で活動される中でそれを語られたわけですから、その喩え話は単純に天の上の話というのではなく、いわば天に国籍を持っている者たちの地上での生活、地上での在り方を語られたと思うのです。 普段は平凡に流れゆく日常生活の中では気づきにくいのですが、『わたしたちの国籍は天にあります』 という言葉に出会うと、私などは一瞬のうちに天国の扉を開く鍵を渡されたような気分になって、何とも言えない大きな安心感、喜びに満たされます。 そして「天国」や「神の国」のことをもっと深く探ってみようという気になります。
原文は先程申し上げたように、「本国・国籍」の後に「天に在る」と続いているのですが、「天」という言葉は数え切れないほど新約聖書に出てきます。 「主の祈り」の「天にまします」もそうですし、「み心の天になるごとく」もそうです。 つまりそうした言い方からわかる通り、「すでにみ心が天になされている、それ故私たちが生活するこの地上でも、神さまの天地の支配があまねく行き届いていて、神の国は完成しているのだよ」 とイエスさまはおっしゃっているのだと思うのです。 それではなぜパウロはフィリピの教会の人たちに 『わたしたちの本国は天にあります』 という言い方をしたのでしょうか。
フィリピという町は、ご存知のようにローマ帝国の直轄植民都市です。 そこにはローマ帝国の高級官僚である行政官が駐在して、商売上でもローマからはかなり優遇されていた都市です。 パウロが生まれ育ったタルソスなどと同じような都市なのです。 そして何と言っても、そこに住む人たちにはローマの市民権が与えられて、それが持つ権利は当時の地中海世界圏では非常に有益かつ便利なものでした。 それだからこそ、パウロにしても 「私はローマの市民だ」 と上手にその権利を使ったのです。 こればかりはペトロやヨハネにもできないことでした。 パウロが 『わたしたちの本国は天にあります』 と言ったとき、そこにはローマの市民権など比較にもならないほど素晴らしい真理があるよ、という語りかけになるのです。パウロはローマ帝国直轄植民地の人たちにはこう言えば分かるという、彼らにピンと来る表現を使ったのだと思います。 パウロは、『私たちの国籍は天にあるのだよ』 と熱く呼びかけているのです。
話は別のことですが、以前前任地の砧教会で 「我らの国籍は天に在り」 という説教題を玄関先の看板に掲げましたら、郵便ポストに投げ文がありました。 名前も住所も書かれていなかったのですが、〈我らの国籍が天に在り、などと言うのはけしからん〉 という抗議文でした。 割合丁寧な文章が書かれていて、自分は戦前に大学を出て海軍士官として戦争に行ったが、戦中にこんな看板を掲げたら国粋主義者が教会堂を焼き払ったろう、とありました。 単なる抗議文ではなくて、忠告の意味もあったのかもしれません。 戦前に大学を出られているというのですから、そうとう高齢な方であることはわかります。 あなたたちが自らを 「神の民」 と言うのは認めてもいいが、〈我らの国籍が天に在り〉 とまで言われたら、それは放っておけないので撤回しなさい、とありました。
役員会で一応話し合った結果、注意しながら様子を見ようということになったのですが、結果的には事なきを得ました。 私はそのときの出来事が、ある部分でパウロがフィリピの人たちに 〈我らの国籍は天に在り〉 と語りかけたことと関係があるように思ったのです。 国籍とか本国とかいう表現に強い何かを感じる人たちがいるのです。 ナショナリストとか愛国者とか憂国の士を任じている方々にとっては、国とか国籍とかは刺激的な言葉なのでしょう。 これは私たちがこの地上に生きていて、何が最も大きな安定感をもたらせてくれるか、ということでもあります。 この点に関して 〈我らの国籍は天に在り〉 という一文は、投げ文を投じた方の琴線に触れたのです。
いうなれば、キリスト教が掲げるこの表現は、日本の国粋主義者には受け入れられない部分があるということでしょう。 表現の問題だと言ってしまえばそれまでですが、仕方ないことなのかもしれません。 自分が日本人であることをどう意義付けるかに関係するわけですから、自国の民族性や国体の優秀性にこだわる人たちには、「勝手に我々の国籍がキリスト教がいう天にあるなどと決めるな」 となるのでしょう。
先ごろ国会で、蓮舫さんが民進党の党首に就任するというので、その二重国籍が問題にされていました。 日本の法律では重国籍者は22歳に達するまでに日本国籍を選択するか外国籍を選択するか届けなさいということなのですが、私は蓮舫さんが少し気の毒に見えました。 条文には、「期限までに国籍の選択をしないときは,その期限が到来した時に日本の国籍の選択の宣言をしたものとみなされます」 とあるのですから違反をしているわけではないと思います。 第一、外国がその人に国籍を与えるのはその国が行う行為であって、日本がそこに口を挟むことではないでしょう。 血統主義でなく生地主義を採る国はたくさんあります。 先進国はほとんどがそうです。 アメリカでもカナダでもそこで生まれたら両親が何人であろうと、たとえ難民であっても自動的に国籍が与えられます。 フランスの法律などは、国籍は三つまで持つことができます。 世界がグローバル化している時代に、自国だけの国籍を強要するのは世界のスタンダードから外れていると私などは考えるのですが、皆さんはどうでしょうか。
ちょっと話が横道に行きました。 さて、先ほど「主の祈り」に触れたのですが、私たちキリスト者は「主の祈り」をささげるとき、心の中で主なる神さまのみ心とつながるようにと念じて祈ります。 それは言い換えれば、この私の本国が天の神さまのみ許にあるということを確かめていることでもあるのです。 地上の世界があまりに不確かなことで満ち溢れているので、その中で揺れ動いている自分の体と心が、しっかりと主なる神さまのみ手とつながっているようにと、私たちは祈るのです。 そうした想いで「主の祈り」をささげるとき、私などは、何と申しますか、「天の国」「神の国」を楽しむというような信仰ゆえの楽天的なゆとりが与えられるように感じます。この信仰の人生を 『わたしたちの本国は天にあります』 とパウロは言い表しました。 ですからその上で、パウロは 『だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい』 と勧めているのです。
地上のニュースは暗いものばかりが目につきますが、しかし、目に見える、耳に入ってくることだけに振り回されてはいけません。 信仰を与えられた者が頂いている恵み、十字架で死なれ復活して勝利されたイエス・キリストがこの地上をも治めておられるのですから、たとえ何があっても、病気になっても、負債を抱えても、老いの不自由が訪れても、本当は、私たちはあまり心配しなくてもよいのです。 なぜなら 『本国は天にあります』 と信じているのですから。
きょう、会堂の前には多くの皆さんの写真が並んでいます。 大好きな人、信仰の先輩、自分より先に天に帰られてしまった友、いろいろな人生を生きた方たちですが、皆さん例外なく、信仰の世界に生きて、地上の生涯をまっとうされた方々です。 すべて神さまの目には、「それでよし」 とされた人生です。 本日、この召天者記念礼拝において、後に残された私たちも、彼らのようにそれぞれの人生を充分に生き抜きたいものです。 21節に、『わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる』 とありました。 注解書によると、この「同じ形に変えてくださる」の「変わる」という言葉は、幼虫から美しい蝶に変わる際に用いられる言葉だそうです。 主イエス・キリストの勝利と栄光は、今はまだ隠されていますが、やがて、完全な形で、私たちをキリストの栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 これはキリスト者の希望です。 教会の暦はまもなくアドヴェントに入りますが、この確かな希望に包まれてクリスマスのシーズンを歩んで行きます。 祈ります。