歴史にはいろいろな生産的なものを生み出す黄金時代とでも呼ぶべき一定の期間があるように思います。 数々の絵画や彫刻の傑作を生み出したルネッサンスのイタリアがそうですし、近代音楽を生み出した18世紀のドイツや新しい絵画を生み出した19世紀のフランスがそうです。 紀元前の世界にもそれはありました。 紀元前5〜1世紀頃は古代ギリシャ哲学の最盛期でした。 文化の興隆はもちろん地中海世界だけでなく、中国では孔子や老子が活躍しましたし、インドではお釈迦様も登場しています。
このうちギリシャ哲学が様々な点で聖書と接触がありました。 第2イザヤのようなイスラエルの預言者とギリシャの哲学者たちが同時代に生きていたということを想像するだけでも、何かこう興味が湧いてきます。 パウロが生きた時代は既にギリシャ哲学の全盛期は過ぎていましたが、その影響はまだまだ地中海のローマ世界に色濃く残っていました。 とりわけ言語への影響は重要で、新約聖書はコイネーと呼ばれるギリシャ語で書かれていますし、パウロもギリシャ語で手紙を書き、アラム語を話されていたイエスさまの言葉がギリシャ語で福音書に残されているというわけです。 ギリシャ哲学の中心地はアテネですが、パウロにとってアテネ伝道の記憶は、忘れられないものとして残っていたでしょう。 彼の宣べ伝えようとした福音が、そこでギリシャの哲学と正面からぶつかり合ったのです。 使徒言行録がその事情を伝えています。
ストア派やエピクロス派の哲学者にパウロは福音を伝えようと熱心に語ったのですが、パウロが復活について語り始めると嘲笑の渦が湧き起こり、議論もかみ合わなくて、彼は早々にアテネを立ち去っています。 コリントも同じギリシャの都市ですが、アテネとは都市の性格がまったく異なります。 コリントは商業の町でした。 パウロはこの町でプリスキラとアキラという夫婦に出会ったことがキッカケで、コリント教会が生み出されています。 けれどもパウロがこの町を去ると、俗世間の代表格のようなこの町にある教会は荒波にもまれ始めました。 当時は指導者が入れ替わる巡回伝道体制でしたから、落ち着いた教会教育もできなかったのでしょう。 そのような状況下でコリント教会はギリシャの思想や宗教の影響も受けて、様々なセクトが存在するようになっていきました。 きょうのテキストには「知恵ある者」「賢い者」という表現が度々出てきますが、この言葉はそうしたコリント教会の状況を反映したものです。 パウロは不協和音が聞こえるコリント教会に対して正しい解決を与えようと、自分の基本的な福音理解をきょうのテキストでも提示しています。
言うなれば、コリント教会の憂慮すべき問題に対する批判と論証を試みたわけです。 コリント教会の「知恵ある者」と呼ばれている人たちの一つの特徴は、宗教的知恵者であって、言下にキリストを否定するというよりは、すでに天にある霊なるキリストと合一するという神秘体験を重んじた人たちだと言われています。 そうなると当然の帰結として、歴史の出来事としてのイエスさまの受難と十字架は軽んぜられ、無意味とされていきました。 また「知恵ある者」には別の側面もあります。 彼らは文化人・教養人として自らを誇り、他者を軽蔑する傾向がありました。 はっきり言えば、自分たちこそ神の知恵をもっているのだ、と自惚れたのです。 そこには、霊的な救いに陶酔する裏に隠された人間のエゴが見え隠れしています。 教養を身につけ、知恵があると自負したときに、人間はエゴによる思い上がりで様々なセクトを生み出します。 結果、互いに争うという事態が生じます。 そうした状況を聞き及ぶにつれ、パウロは手紙を書かずにはおれなかったでしょう。
彼は何を書き送ったのでしょうか。 ひとことで言えば、18節にあるように、ひたすら「十字架の言葉」を語りました。 パウロの言葉の節々には、あのアテネでの体験のように、自分の経験が裏打ちされています。 パウロには十字架を語ることだけが、知恵がもたらす人間の高慢を打ち砕くとの確信があったのでしょう。 それでは「十字架の言葉」とは一体何を意味しているのでしょうか? パウロは一般的な「福音」という言葉を使わずに、あえて「十字架の言葉」にこだわります。 そこにはキリストの十字架とその言葉を明らかにする言葉としての役割が意図されていたでしょう。 今流に言えば、「十字架の言葉」は「説教」と言い換えてもいいかもしれません。 「十字架の言葉」はそれを聞く者を二分します。 それを「愚か」と見る人と、「信じる」人です。
パウロは愚かと見る者は「滅びる」とはっきり言い、「信じる者」こそ救われて、それは「神の力」なのだ、と主張しています。 そうしてイザヤ書(29,14)の言葉を自由に引用して、人間の知恵の空しさと愚かさについて語るのです。 十字架はもちろんローマ帝国が用いた極刑ですし、申命記にも「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」(21,23)という表現がある通り、当時の多くのユダヤ人たちの目には、十字架こそがイエスが救い主でない証拠だ、と映っていたのかもしれません。 20節には「知恵のある人」「学者」「この世の論客」という言い方が出てきますが、これらは言わば人間的知性を代表する人たちです。 こういう人たちの意識は滅びて行く世に釘付けになっているので、却って世の真相については「愚か」であるというのです。 ここにはパウロの厳しい批判が見えます。 続く21節では、自分の知恵で神を知ることはできないことが強調され、続く22節では、「知恵ある者」が十字架の言葉を愚かと見なす理由が述べられます。 それがユダヤ人とギリシャ人を引き合いに出した「しるしを求める」ことと、「知恵を探す」ことです。 そこには神さまの方を見ないで、自分本位に生きる人間中心という考え方への批判があるでしょう。 そして23節以下には使徒としての宣教の在り方が述べられます。
十字架につけられたキリストを宣べ伝えることこそが使徒のなすべき宣教であるという確信です。 しかしそれは「ユダヤ人にはつまづき」であるし、ギリシャ人には「愚か」に見えたのです。 25節では、それまで述べたことを結論づけるように、十字架のキリストにおける神の愚かさと弱さが、逆説的に強調されます。 それまで述べた「神の知恵」に対して「神の愚かさ」が、「神の力」に対して「神の弱さ」が対照的に語られています。 人間の知恵や力は結局神さまによって乗り越えられてしまうということでしょう。 ところで、世に宗教はたくさんありますが、愚かさを教えの中核に据える宗教はまずありません。 しかし、パウロの言い方によれば、キリスト教とは、ただ十字架と愚かさがあるのみ、となるのです。 現代人がこれまでの歴史を紐解いてみれば、キリスト教こそが世界をリードしてきた第一級の教えだ、という印象を受けるでしょう。 そこには「愚かさ」というイメージはほとんどないように見えます。
プロテスタント教会の歴史をさかのぼってみても、キリスト教は近代の生みの親であり、民主主義も自由や人権の思想もここから出たことが分かります。 言うなれば、キリスト教こそ近代文明を生み出したルーツとして認められそうです。 しかし、きょうのテキストによれば、キリスト教の中核は愚かさの極みにある十字架だ、とパウロは言います。 だからこそ私たちには、パウロの言う十字架の意味を現代という時代の中で深く探っていく作業が求められます。 パウロという人物は若い頃、碩学ガマリエルの門下ですから、世間でいう頭のよい優秀な人物であったに違いありません。 必要とあれば哲学者とも論争をする実力も備えていたと思われますが、少なくとも彼は論争の末に十字架を理解したわけではありません。 彼は十字架のイエスと出会ってしまったのです。 そして180度生きる方向を変えられてしまった、というほか言いようがありません。 もし哲学的な思弁や知識の多さこそが有意義だとする考え方に照らせば、イエスさまの十字架刑は歴史のほんの小さな一出来事に過ぎず、権力を握っていたローマ帝国から見れば、それは一犯罪人の処刑に過ぎないのですから、その事件から何か真理性がもたらされるとは到底考えられなかったでしょう。
パウロはまずユダヤ人とギリシャ人という二分法を持ち出しましたが、それをきっかけにして彼自身による二分法に至ったと考えられます。 つまり、「賢い者」と「愚かな者」という十字架の出来事によって切り分けられる二種類の人間の生き方を提示したのです。 それは神さまに向き合って生き切るか、そうでないかということでもあるでしょう。 切り分けられた2種類の人間の生きる姿、それは時代を超えて通用する人間の捉え方でもあると思います。 ですから私たちの宣教活動は決して整えられた礼拝であるとか、説教であるとか、あるいは念入りな会議によるとかで事足りるということはありません。 そうしたものはもちろん無駄なものではありません。 しかし神さまに向き合って生きることを保証してくれるものでもないのです。 私たちが礼拝や説教や会議や、皆で練り上げた文書や声明などを大切にしようと思うなら、それは生涯かけてコツコツと地味にやり抜いて初めて意味を持つ、ということなのでしょう。 そう決心して生きる努力をするならば、私たちキリスト者には「神の知恵」がそれこそ「神の力」として与えられるに相違ありません。 私たちはキリストの十字架に表された神さまの愛と希望の証人として、これからも生きていきたい、世に出て行きたいものです。
知恵やしるしに惑わされないで、救い主イエス・キリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう。 祈ります。