2016.5.15

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「聖霊に満たされて」

秋葉 正二

イザヤ書61,1-6; 使徒言行録4,23-31

 4章の前半にはペトロとヨハネがサドカイ人や神殿警備長に捕らえられ、牢に入れられて留置された出来事が記されています。サドカイ派は当時のユダヤの指導層の一つであり、サンヘドリンの議会を構成する重要なメンバーでした。捕らえられたと言っても、別にペトロたちが暴力を振るったわけでもなく、悪事を働いたわけでもないし、ユダヤ人社会の秩序を乱したわけでもありません。ですからこの逮捕拘束にはそもそも無理があります。

 今で言うなら「信教の自由」を侵害する行為です。翌日議会が召集されて役人、長老、律法学者たちが集まり、ペトロとヨハネをどうするか審議したのですが、結局二人は放免されています。サドカイ派は復活を認めなかったということですから、イエスさまに起こった死人の復活を二人が宣伝しているというのを聞きつけて放置できなかったというのがそもそもの発端だったのでしょう。きょうのテキストの前段部分では、議会のお偉方が堂々と語り、振るまったペトロたち二人の態度に振り回されている様子がよく描かれています。とにかく自由になったペトロたちは信仰の仲間がいる所へ帰り、祭司長や長老たちの語ったことを一切残らず報告したと23節に記されています。

 議員たちに「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように命令された」ことも報告されたことでしょう。報告を受けた信徒たちは二人の堂々とした対応に感激したのでしょう、よほど嬉しかったと見えます。

 少々大げさではないかと思えるほど、神さまを誉め称え賛美したのです。24節。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」。これはイザヤ書(37,16)詩編(146,6)からの引用で、神さまへの呼びかけの言葉です。初代教会の人たちは実に素直ですね。余計なことを思い煩わず、目前の一つの出来事に感謝して祈りと願いとを捧げられる……。これは信仰的に見て素晴らしいことだと思います。キリスト者の生活の基盤は、まず神さまに何でも申し上げることにあるからです。解放された二人を迎えた仲間の信徒たちといっても、そんなに数は多くなかったでしょう。文字通り小さな群れ、信仰の仲間です。彼らが声をあげた内容は旧約聖書にまで広がっていきました。彼らは詩編第2編1-2節を思い起こしたようです。呼びかけで始まった祈りが、与えられた神さまのみ言葉は本当だったと思い起こして、だんだんと賛美になっていったわけです。今自分たちが経験していることは詩編にある通りだった、と彼らは実感しているのです。旧約聖書の神さまが現在もその計画を実行しつつある、と確信することは、彼らの実生活上の体験以外の何物でもありません。信仰生活の喜びや確信が自分たちの体験として実証されるのなら、それ以上の恵みはないということです。そういうわけで、彼らの信仰体験は27-30節に祈りの締めくくりとして言い表されています。すなわち、ヘロデ・アンティパスとポンティオ・ピラトが、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、イエスさまに逆らい行ったすべてのことが、あらかじめ実現するように定められていたことである、と指摘した上で、彼らの脅しに目を留めてくださいと願っています。

 ペトロとヨハネが体験してきた出来事は、初代教会の仲間たちにとっては他人事ではなかったのです。ローマの権力やヘロデの横暴は自分たちの日常に充分起こり得る出来事でした。実はここが初代教会の信徒たちと現代の私たちが決定的に違う点の一つです。戦中・戦前派の世代は、自分たちに迫り来る国家権力がどういうものであるかを身をもって体験されました。ですから戦後すぐに平和憲法を掲げて再出発する決心をしたのだと思います。しかし人間という存在は弱いもので、折角の体験も30年たち、50年たち、70年を過ぎる頃にはいつの間にか民衆の中から消えうせようとしているかのようです。また初代教会の信徒たちと私たちを比べれば、信仰の素直さでも大きく水をあけられていると思いますが、何よりも私たち現代人の信仰を脅かす権力に対する覚悟の無さは決定的だと言ってよいでしょう。

 かくいう私もどのくらい覚悟があるかと問われれば、何とも自信がありません。戦後生まれの者には国家の圧力がジワジワと身に迫ってくるような経験がまったくないのです。それでも多くの先輩たちから戦争の話を伺ったりして、国家権力に横暴を許すような体制だけは阻止しなければと決意しています。私は平和憲法擁護や右寄り政権批判のデモにできるだけ参加していますが、このところ結構人が集まりますので、励まされています。特にシールズのような若い世代が民主主義を真剣に考え始めてくれるようになったことは嬉しいことです。私の世代も前期高齢者になったからデモから身を引こう、などとは言えなくなりました。さて、先ほど申しましたようにペトロやヨハネやその信仰仲間たちの祈りの締めくくりは願いでした。神さまに呼びかけて始まった祈りが、詩編のみ言葉通りであったことに感謝して、終わりを願いで結ぶ………。この形は、後の時代のキリスト者の祈りの一つのパターンになったと思います。初代教会の信徒たちの祈りの第一は、大胆にみ言葉を語ることができるように、ということでした。そして第二が、30節にあるように、癒すことができますようにということです。現代で癒しと言えば、病気や傷を治すことはほとんどお医者さんに頼っていて、私たちの出番はないようです。しかし人間は時に飢えを抱えたり、心の悩みなどにも苛まれる存在ですから、そうした場合には私たちの出番が少しはあるかもしれません。初代教会の信徒たちは、イエス・キリストの名によってしるしと不思議な業とを行わせてください、と祈りました。そこが重要なのです。神さまによってこの私にも力ある業ができますように、と祈ることが重要なのです。

 何と申しますか、神さまに祈る際のスケールの大きさが決定的に違います。これは初代教会に比べて、私たちの信仰がちんまりと固まってしまっているということでしょうか。今日の私たちの祈りとは一体何なのか? 大胆にみ言葉を語ることと、イエス・キリストの名によってしるしと不思議な業を願い求める心は、どうも衰退しているように思えてなりません。31節はこれぞ信仰共同体という場面ですね。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」。「集まっていた場所が揺れ動いた」というのは、祈りが聞かれたということを表わす古代ギリシャ・ローマ的表現のようです。感覚的によく分かる気がします。きょうは聖霊降臨日・ペンテコステです。私たち代々木上原教会の群れにも豊かな聖霊が降って、私たちひとりひとりがよく用いられて、福音宣教の業をしっかり担うことができるよう祈り求めましょう。大胆に神の言葉を語って、イエスさまの示してくださった真理を証ししていきたいものです。私たちが聖霊に満たされた時、私たちは大胆に神の言葉を語ります。イエスさまの時代に起こった五殉節の出来事が、今もなお現実にイエス・キリストの教会には起こります。心を引き締めて三位一体節、聖霊降臨節の歩みを進めてまいりましょう。祈ります。


 
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