2016.5.8

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「イエス、天に上げられる」

秋葉 正二

ヨエル書3,1-5; 使徒言行録1,6-11

 ルカ福音書と使徒言行録の著者はルカです。  使徒言行録はルカ福音書の続編とも言われて、イエスさまの死と復活後40日にわたる復活の主の顕現と昇天とを、一部分福音書と重複して述べながら、弟子たちが約束であった聖霊を受け、エルサレムから地の果てまで世界宣教に従事するようにと勧めています。

 さて、きょうのテキストは復活のイエスさまが天に上げられるという場面です。  これはイエスさまの地上の最後のお姿です。  6節を見ますと、弟子たちが一緒に集まっていた時、彼らのうちの誰かがイエスさまに質問しています。  「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。  イスラエルの民はもともと選民意識が強いわけですが、そうした意識を彷彿させるように、今自分たちの前に立っておられる復活されたイエスさまこそが、ローマ帝国の支配からイスラエルを復興させてくださるのではないか、という期待をこの質問の中に込めているように思えます。  これに対して、イエスさまは二つのことを答えられています。  まず7節、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。   つまり、時期や場合は神さまが定められているのだ、ということです。  もう一点は、8節、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。  即ち、聖霊が弟子たちに降る時、彼らはイエス・キリストの証人となる、ということです。  弟子の質問に対して、イエスさまは直接それについて否定はせず、別の新しい方向を示されていることに気づきます。  この2点をお答えになった後、9節にあるように、弟子たちの見ている前で、天に上げられ、雲に覆われて見えなくなりました。

 これが先週5月5日の昇天日に記念された出来事です。  この記事から私たちが考えなくてはならないことが二つあると思います。  第一は、イエスさまが最初に示された「神さまの時」の問題です。  弟子たちのことですが、彼らはイエスさまが十字架につけられた時、おそらく「すべては終わった」と考えたのではなかったでしょうか。  それまでイエスさまに期待したことが完全に潰え去ったと考えなかったでしょうか。  政治結社である熱心党に所属していた弟子たちもいたのですから、弟子たちの第一の期待はイスラエルの復興だったと思います。  当時のイスラエルの人々は、選民イスラエルを異邦人の支配から解放してくれる者こそメシアだと考えていたからです。

 十字架につけられる前、イエスさまとあれほどまでに親しく過ごした弟子たちでさえ、おそらくイスラエルのそうした一般的な考えから抜け出すことはできなかったでしょう。  基本的に、それは当時も今もユダヤ教の持つ限界であるように思われます。  イエスさまは弟子の質問を否定しなかったのですから、ご自身が彼らの解放者であり、イスラエルを復興することも認めておられたのかもしれません。  しかしそうだとしても、弟子たちが考えていたことは、質的にも時間的にもイエスさまの考えとは違っていました。  イエスさまはただ地上のこと、人間的思いだけに縛られているわけではありません。  だからこそ、弟子たちの思いを正されたのです。

 時期や場合は天の父なる神さまが権威をもって定められているのであって、人間の知る限りではない、とイエスさまは言われました。  私たち人間は時折、神さまが一切の権能をお持ちであることを忘れるのです。  イエスさまからその点を指摘して頂かない限り、人間は神さまの絶対性・無謬性をいつの間にかないがしろにします。  この時の弟子たちも、人間の思いや計画をはるかに越えた神さまの計画があることをしっかり知る必要がありました。  イエスさまは言葉をもってハッキリとそのことに触れられたのです。  コヘレトの言葉3章の冒頭に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とありますが、あれもそういうことを表しているのだと思います。  私たち信仰を与えられた者は、この「神の時」があることを信じて、時代がどのように混乱しようが、目をしっかり神さまに向けて、焦らず、不安に苛まれず、一日一日の歩みを踏みしめることがもっとも必要なのではないでしょうか。  私などは平和憲法がないがしろにされ、戦争につながる時代が来るかもしれないと危惧し、おろおろしているのですが、おろおろするだけでなく、もう一度しっかりイエスさまのお言葉を噛み締めて焦らず、あきらめずに進まなければいけない、と思い直しました。

  さて、イエスさまが「神さまの時」と共に示されたもう一つの点について考えます。  それは8節の終わりにある「わたしの証人となる」というお言葉です。

 イエスさまはイスラエルの国を復興するために聖霊を降すとは言われませんでした。  弟子たちに聖霊が降る時、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃったのです。  弟子たちは聖霊によって導かれると力を受けると言われ、エルサレムのみならず、地の果てまで証人となるのです。  何の証人でしょうか。  それはこの後22節に出てくるように、「主の復活の証人」となるのです。  イエスさまがよみがえり、救い主キリストになったことを証言する人になる、また証言する力が与えられる、とイエスさまは弟子たちに教え諭されています。

 裏返して言うと、聖霊が降り、力が与えられない限りできないということでしょう。   頭で考えて、気力を込めてやろうと思っても、それはおそらく一時のことで終わると思います。  私たちがイエスさまのために働こうと思うならば、聖霊が与えられるようにまず祈り求めることが必要なのです。  人間の計画や見通しはその次のことです。  パウロはコリント前書(12,3)で、「聖霊によらなければ、誰も〈イエスは主である〉とは言えない、と言っていますが、その通りだと思います。  聖霊の賜物にはいろいろあるでしょう。  癒しなどもそうです。  そして、聖霊が神さまから与えられているか否かの根拠は何でしょうか。  8節の言葉から窺えるのは、イエスさまが復活され、私たちの主となり、救い主キリストになられた、つまりイエスさまはキリストであると信じているかどうかです。  キリスト者が最初になすべきことは、その証人となることに他なりません。

 学問としての聖書学を進めるにはイエスとキリストを区別することが求められるかもしれません。  しかし信仰に進もうとするのであれば、イエスさまが救い主であることを、少なくとも信じられるように祈り求めなくてはならないでしょう。  「神さまの時」ということ、そして「主の証人」という2点について考えてみました。

 終わりに、9節以下の記述について触れておきます。  9節、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。  おそらくこの時のイエスさまにはパウロが言うような「霊の体」が与えられていたのではないかと思います。  現代ではさしずめロケットの打ち上げを見上げる人々の様子を私などは連想します。  ロケットが打ち上げられて宇宙空間へ出て行くのを、固唾を呑んで一同の目が追っている、そういう景色です。

 10節では、「白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。』」  さらに11節、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」  いきなり「白い服を着た人」と言われても私たちには誰だかさっぱり分かりません。  おそらくルカは、神さまのご意向を知らされたという事実を、こうした表現をしなければ伝えられなかったのでしょう。  文字表現の限界と言ってしまえばそれまでですが、ただ単に視覚的にだけ記述を理解するだけでなく、ルカが伝えている大事なことを読み取らなければなりません。

 キリストが再び地上に来るというこの信仰を再臨(パルーシア)と言います。  再臨信仰を理解するには、新約聖書のさまざまな箇所を読んで参考にする必要があります。  イエスさまは逮捕された後、大祭司の屋敷で、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われていますし、パウロはコリント前書の11章23節以下の主の晩餐の制定の箇所で、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と言っています。

 今年度私たちの教会の基本方針に基本聖句として掲げた「ヘブライ書」なども大いに参考になります。  例えば、9章27節以下にこうあります。  「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。  昔、内村鑑三先生が、お嬢様のルツ子さんを天に送られた際、再臨運動にのめり込まれたことは有名な話です。  あえて言うならばこのイエスさまの再臨の時、イスラエルの国も神の民の国として、本当の意味で復興するのだと思います。  再臨の時、地上には神さまの支配が完全に行き渡り、正義と愛に満ち溢れた神の国が完成するということです。  そういうわけで、私たちキリスト者の第一になすべきは、「主の証人」となることだと言えるでしょう。  祈りましょう。     


 
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