福音書記者ルカの記したイエスさまの誕生物語から学びます。テキストは小見出しにあるように、大きく二つに分けることができます。一つはイエスさまの誕生譚、もう一つは羊飼いに救い主誕生が天使から告知される話です。クリスマス物語はルカとマタイにしかありませんが、この二人の福音書記者が福音書を書くにあたってイエスさまの誕生に関する伝承を参考にしたであろうことが指摘されています。どこまでがどういう伝承であったかを確定することはおそらく出来ないでしょう。聖書学者はその伝承について詳細な研究を重ねてそれなりの結論を出そうとするのですから、その苦労は大変なものです。背景にしても明確に断定できないことがあまりにも多いのです。
まず1-7節までを見て行きましょう。いきなりローマ皇帝アウグストゥスによる住民登録の勅令の記事が出てきます。この勅令一つとっても、いつのものなのか、どの住民登録を指すのかなどいろいろな見解が出されています。私たちとしてはまずこの記事に少しでも興味を持つために、アウグストゥスなる人物について確認しておきます。彼の本名はガイウス・オクタヴィアヌス。シェークスピアの戯曲ジュリアス・シーザーを思い出してください。古代ローマは共和政から始まって内乱の紀元前1世紀に突入し、カエサル(英語名シーザー)が抗争に勝利して帝政への第1歩を踏み出しますが、彼は暗殺されてしまいました。「ブルータス、お前もか」というセリフでお馴染みの場面です。シーザーは生前甥のオクタヴィアヌスを見込んで養子としていますが、そのオクタヴィアヌスが結局最後に盟友アントニウスとクレオパトラを自殺に追い込んで、全権力を手中にします。その結果彼はローマ帝国初代皇帝となりました。アウグストゥスというのはローマの元老院が送った「尊厳なる者」という意味の称号です。
「キリニウスがシリア州の総督であったとき」とありますが、パレスチナで住民登録があったのは紀元6乃至7年なのでズレがあります。しかしルカが得ていた伝承ではとにかく「アウグストゥスの人口調査でヨセフがベツレヘムへ旅をした」とあったのでしょう。エジプトに残された資料には、住民登録は各自郷里に帰って登録させたとあるそうですから、ヨセフはベツレヘムからナザレへ移住していて、郷里へ登録のためにやって来たのかもしれません。何にせよアスグストゥスの皇帝在位期間は紀元前27年から紀元後14年までですから、41年も権勢を振るったわけです。しかも西はイギリスから東はアジアまで広大な地域を、強力な軍隊と奴隷制で統治しつつ、富を一手に握ったのですからこの世的に凄い人物であることは間違いありません。対して、イエスさまが生まれたユダヤはその片隅に位置する小さな民族国家です。しかもさびれて名もないべツレヘムの村で幼な子イエスは誕生したとルカは記します。おまけにその誕生の次第は、困難な旅路の果てに宿泊する宿屋に泊まる場所がなくて生まれた子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせたとあります。伝承には旅の途中で子どもが生まれ、飼い葉桶に寝かしたとあったのでしょう。おととい京都の孫が幼稚園でクリスマス劇をした報告を電話でしてくれました。幼いなりにストーリー展開に感激したようです。
聖書の誕生物語はキリストを信じた人たちの信仰が美しく盛り込まれているわけですから心打たれるのですが、幼稚園の降誕劇にしても、どうも教会用の話になり過ぎている感がします。何と言いますか、元の伝承が復元しにくい程手が入ってしまっています。当時の馬小屋は人が住む部屋とひと続きになっていたか、外の掘建小屋かあるいは洞窟に設けたものだったようですから、イエスさまはそういう場所に生まれたのです。宿屋には泊まる場所がなかったというのは、裏返せばそこには宿屋に宿泊できた階層の人たちと馬小屋で出産しなければならなかったマリアたちの姿が対照になっています。同時に、ルカはアウグストゥスという権力の最高峰を示した後、家畜小屋の出産物語を置いているのですから、これは最極端の対照です。
で、ここまではきょうのテキスト全体の前段という気がします。その理由はルカがもっとも伝えたかったことが、続く8節以下の羊飼いと天使の話の中に込められているからです。飼い葉桶の中に生まれた赤子イエス誕生のニュースは、まずその地方で野宿していた羊飼いたちに知らされました。徹夜で羊の群れを守る仕事は決して楽なものではなかったでしょう。旧約聖書に出てくる羊飼いの仕事は、当時もっとポピュラーであったにしても、楽なものでなかったことは確かです。創世記の31章には長子の特権を奪い取ったヤコブが叔父ラバンの許に逃れて、10数年羊飼いとして働かなければならなかった顛末が描かれていますが、ヤコブは羊飼いの仕事についてラバンに訴えています。『昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。』羊飼いはもともと年中休みのない苦痛を伴う仕事です。ダビデは羊飼いの少年でしたから、彼が英雄として王となると、羊飼いはイスラエルの中では重要視されるのですが、イエス時代になると当時の社会では完全に疎んじられていた人たちの職業になっていました。当時の羊飼いはほとんどが雇われで、低賃金です。もし羊に何かあればペナルティーも取られます。おそらく羊飼いたちに、この世的な楽しい夢や希望はなかったでしょう。そういう社会から締め出されてしまった人たちに、救い主誕生の第一報が天使によって伝えられ、彼らが最初に救い主に会った人たちになったとルカは言います。野宿の羊飼いたちに天使が現れ救い主の誕生を告げたというのも、おそらく伝承です。一番貧しい人たちに幼な子の誕生が告げ知らされた、この人たちが真っ先に馬小屋に駆けつけたというのは、何かこう救われる気がします。
宿屋に泊まっていた人とか、同じ夜なべ仕事でも王宮で警備についていた人たちというのではなく、あくまで最底辺の羊飼いたちに天使は現れています。私たちは後にイエスさまがどのように生きたかを福音書で読んでいますから、天使が最初に羊飼いたちに、と聞いて何かホッとします。イエス・キリストはその生涯を人々のためにささげ尽くしました。とりわけ救いや助けを求める貧しい人たちのために生涯を費やされています。そういうイエスさまにとって、王宮でもなく、立派な宿屋でもなく、馬小屋が誕生場所であったというのは一番ふさわしいことではなかったかと思います。天使についても少し考えてみます。天使の告知の中心にあるのは大きな喜び「福音」という言葉です。この言葉はルカがよく使うもので、使徒言行録にも度々出てきます。ルカはギリシャ人ですから、彼の教会は異邦人教会で、ユダヤ人でない人たちが中心だったでしょう。ユダヤ人でない人が「福音」という言葉に接すると独特な意味が伝わりました。というのは、当時の一般的用法ですと、「福音」は支配者の宣言を指すときに用いられた言葉なのです。つまりギリシャ人が天使の「福音」なる言葉を耳にした時、それはこの幼な子がイスラエルの王、メシアたるキリストであるという、神ご自身の宣言であると受け取ったのです。ですから福音-喜びの知らせが、たとえその開示が初めて人々に聞かれたものであっても、それは民全体への告知を意味します。ルカはイエス・キリストの福音を異邦人も含めた民全体に伝えられるべきものとして自覚していました。
また、11節の終わりには『この方こそ主メシアである』とありますが、「主メシア」はクリストス ソーテールというギリシャ語で、ソーテールも典型的なヘレニズム用語です。アウグストゥスはソーテールとも呼ばれていました。この救い主アウグストゥスに対して、神の与える救い主イエスをルカは真正面に対峙させました。ルカは何としてもイエスという名前をギリシャ語を話す人たちにも伝えたかったのです。この幼な子はメシアですよ、しかし王であるのに神さまがこの幼な子に与える「しるし」は、王の宮殿でもなく、綺麗な服装でもなく、布つまりオムツと馬小屋であって、さらにはさびれた寒村ベツレヘムです、とルカは言うのです。これは幼な子イエスの貧しさが神ご自身の事柄であることを表しています。
幼な子イエスが神によって油注がれたメシアであるのは、ここに馬小屋とオムツがあるからではなく、彼がそれらを必要とされたからだとルカは言うのです。この幼な子がメシアであることの啓示は、天が開かれてその大軍がイエス誕生について神を賛美するという13節の場面で最高潮に達します。『いと高きところに栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちの賛美は、天において啓示される神の栄光と、地上での神のわざの両方に向けられています。この天地が一体になっていることが重要です。神の栄光は、地上における神のわざの本質です。またそのわざは止むことがないゆえに、神は常に栄光の主であり給います。ですから、神の未来のわざもそのメシアであるキリストによって与えられます。幼な子イエスがメシアである「しるし」は、戦いにおける力とか人間的偉大さではありません。反対に、憐れみと服従により神の支配をしっかりと打ち立てることです。そしてそれらすべてが、「地には平和」という天使の言葉に込められています。平和というのは、完全に成し遂げられたメシアの救いです。つまりこの物語に登場する天使は平和の使者です。羊飼いたちは先に「今日ダビデの町で」と告げられた通りに、ベツレヘムで生まれたばかりの乳飲み子を見つけ出しました。羊飼いたちは最初に天の大軍勢による神の賛美を聞き、それが地上に事実与えられていることを発見したのです。飼い葉桶に寝かされた赤子はあまりにも貧弱な小さい「しるし」でした。
今日私たちは二千年の歴史の証明に基づいてイエス・キリストとすぐ呼べるかも知れませんが、ルカの教会のように初代教会が「イエスは主である」と告白した時の状況は全く異なります。そうした時代に羊飼いたちが飼い葉桶という「見えるしるし」に躓かないで、その幼な子を迎え入れ、神を崇め賛美したことは私たちにとって大きな信仰の励ましです。クリスマスはこの羊飼いたちの喜びを追体験し、一緒に救い主誕生を賛美するひとときです。公現日までのこのシーズンをじっくり味わいながら過ごして参りましょう。私たちもそれぞれ自分のクリスマス物語を持てたらいいですね。改めてクリスマスおめでとうございます。祈ります。