2015.12.06

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「牧者キュロス-神の道具」

秋葉正二

イザヤ書44,21-28; マタイによる福音書2,4-6

 今日のテキストから48章にかけてペルシャ王キュロスについての叙述が続きます。43章等にも既にその姿が浮かび出ているのですが、この人物は第2イザヤの中ではおそらく「主の僕(苦難の僕)」の次に重要視しなければならないと思います。キュロスについてはイザヤ書だけでなく他の歴史書にも記されていますし、現代のイランには墓も残っていますので、歴史的にはかなり色々なことを知ることができます。彼は分裂していたペルシャを統一し、バビロン、メディア、ルディアを制圧して大帝国を建設しました。バビロンにはネブカドネザルによって捕囚民となっていたイスラエル民族がいましたが、彼らを解放したばかりか、帰国を許可し、略奪品も返して神殿再興にも力を貸すという、イスラエルにとっては信じられないような寛容な政策を行った王です。キュロスの勢力圏を地図で見ると改めて驚かされます。カスピ海、黒海、ペルシャ湾、地中海から紅海に至る広大な支配地域です。しかし余りキュロスの偉大さを強調し過ぎればイスラエルの神の存在が薄れてしまうことに配慮し、第二イザヤはあくまでもイスラエルの神がキュロスを用いてイスラエルを解放したのだという見方を貫きます。

 そのことを確認するかのように、21-23節では『わたしを忘れてはならない』『わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った』と強い調子で訴えています。その上で、イスラエルの解放、祖国の再建について語るのです。現代の私たちは醒めた目で歴史を振り返ることができます。私たちは、ネブカドネツァルの死後急速に衰退したバビロンがペルシャの英雄キュロスによって滅ぼされたのは時の勢いだと簡単に言えますが、当時は情報の少ない古代であり、ましてや政治的な情報はかなり制限されていたであろう捕囚民の中にあって、いち早くバビロンの崩壊やイスラエルの解放を預言したことは第二イザヤの大胆さです。彼の大胆さは、きょうのテキストに続く45章1節でキュロスを「主が油を注がれた人」と呼んでいることからも分かります。

 第一イザヤがアッシリアを「神の鞭」(10,5)と呼んだり、エレミヤがネブカドネツァルを「わたし(神)の僕」(25,9)と呼んだりしたことは既にありますが、「油を注がれた人」というのはメシアという意味ですから、はるかに踏み込んだ表現です。自分たち捕囚の民に救いをもたらす人物なら、たとえ異郷の王であろうと最大級の賛辞を呈してしまうこともためらわないというのは、実に大胆です。それは捕囚というどん底の境遇に痛む同胞への愛が深く真剣であったことの証拠でしょう。22節に『わたしはあなたを贖った』とありますが、24節でも『あなたの贖い主』という主なる神への呼称が出てきます。当時の国際情勢を鋭い嗅覚で嗅ぎ取って、ペルシャ王キュロスに目を付けただけでも第二イザヤが凡庸でないことは分かりますが、彼は政治的・軍事的な救いだけを見てはいませんでした。それだけならば扇動的なデマゴーグであったかもしれません。けれども第二イザヤは宗教的に浅薄で民衆に媚びるような預言者ではありませんでした。

 彼の救いへの確信はセンチメンタリズムではありません。エレミヤやエゼキエルたちと同様に、救いについての明確な根拠を持っていて、亡国というイスラエルへの神さまの審判がイスラエルの罪の結果であることをはっきり自覚しています。その罪の処理なくしてイスラエルの未来はないことを確信しています。ですから彼はこの罪の処理問題に踏み込んで行きます。それは彼の信仰の独特な深さ、宗教的センスを物語っています。どうしたら救いが与えられるのか? 神さまの無制限の愛、無条件の赦しという基本線はホセアやエレミヤやエゼキエルと変わりませんが、同時に第二イザヤは、イスラエルの罪が何としても処理されねばならないことを確信しているのです。罪は贖われなくてはならない、というのはイスラエルの伝統的な深い宗教的思想です。レビ記を思い出してください。そこには犯された罪の贖いとして、捧げられるべき犠牲の数々が延々と書かれています。漫然と読んでいると退屈極まりない場所ですが、ゆっくり考えてみると、それは実に見事な体系です。そしてその根底にある「罪は血をもって贖われなければならない」という信仰は、古い伝統ですけれども、実に大事な考え方であることに気づきます。ヘブライ書の記者が『血を流すことなしには罪の赦しはありえない』(9,22)と書いている通りです。

 この伝統的な深い信仰思想を第二イザヤは「主の僕の歌」という独自な考えで表現しました。49章1-6節とか53章1-5節などはその代表です。もうすぐクリスマスですが、そこで読めば、救い主イエス・キリストの姿がくっきりと浮かび上がるでしょう。とにかく罪の贖いということに関して、まるで十字架のイエスさまを先取りするかの如く預言していることは驚きです。さて、25節には『占い師を狂わせ』という表現があります。古代には超自然的な力が人間を恐れさせていました。現代では科学とか医学と呼ばれている分野も古代では魔術や占い、口寄せという役割を果たしていました。私たちは一口に預言者と言いますけど、そこには口述預言者から記述預言者への変遷がありますし、どの時代の誰から預言者と呼ぶのか、という問題もあります。アモス以後の記述預言者の時代になっても小才がきいた偽預言者が輩出し、信仰のみならず政治にまで影響を及ぼしました。

 イスラエルのカナン入りから王国建設を経て、それ以後もずっと唯一神ヤハウェと魔術との戦いは繰り返されています。例えばサウルはサムエルを殺そうと口寄せや占い師を国から断ちながらも彼女たちに頼んでいます(ISam.28章)。占い師バラムを殺すヨシュアの意図も魔術の克服です(Josh.13章)。捕囚の地バビロンでは魔術が盛んでした。今で言う科学的な要素も少し加わっていますが、星占いなどで国政が大きく影響されていたのです。イスラエルの民は捕囚民の立場ですから心が弱くなれば魔術へ傾くこともあったでしょう。しかし第二イザヤが覚めた信仰をもって捕囚民や支配者を導こうとしている姿は驚きです。申命記は夢見がちな預言者に対して『あなたがたをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から贖われた神』(Deut.13,5)という歴史を持ち出して神さまの啓示を示しましたが、そういうことを第二イザヤは行ったのです。

 偽預言や占いが人々の心を奪おうとする時には貧しい者からさらに搾取しようとする政治家や宗教家が現れるものですが、バビロン捕囚の時代とはそうした時代だったのです。経済状態が悪化すると怪しげな終末論がよく流行するものですが、そうした信仰的に見て危険極まりない状況に捕囚民は置かれていました。バビロンの占い師は宮廷に入り込んで政治を脅かしていたのです。私はバビロンのそうした危機を考えながら現代日本の政治を考えざるを得ませんでした。現閣僚のほとんどが所属する「神道政治連盟」という政治団体がありますが、神道とあるように、神道の精神を以て日本国国政の基礎を確立しようというのが彼らの狙いです。彼らは神意を奉じて経済繁栄をはかり、安国の建設を期すと主張するのですが、そのために2.11などは「建国記念日」だと強調して奉祝行事を行います。教育勅語まで持ち出しますから、これはもう戦前回帰と見て間違いありません。

 そういう宗教性を帯びた思想が政治に食い入って今の政権が運営されているのかと思うと、心が寒くなってきます。ですから話は紀元前のことだけではないのです。第二イザヤは当時の口寄せや占いの横行に対して明確に迷信打破を打ち出し、唯一神ヤハウェへの信仰を土台として、新しい歴史の創造をもって祖国復興を推進したと言えます。その預言ははっきりとバビロンの滅亡を示しました。そして新しい神の僕、使者を登場させて祖国の再興を預言したのです。27節には『深い水の底に向かって』という表現がありますが、この水の底は淵とも訳される珍しい語で、いろいろな隠喩を含んでいると言われます。まず第二の「出エジプト」とも言うべき「出バビロン」に際して、かつて紅海の水が乾いて海を渡ったモーセに率いられたイスラエルの民を思い出させてくれます。紅海に代わって今ユーフラテスの川を渡るのだと、渡渉することを重ねているのでしょう。

 メソポタミアと言うのは「川の間」という意味ですが、ユーフラテス川と無数の運河によって文化を築いていたバビロンに、川の水を干してそこを渡るという発想は、文字通り川の死、バビロンの死が重ね合わせてイメージされています。そのようにして口寄せや占い師であるバビロンが干上がって滅び、僕や使者たちの言葉の成就としてエルサレムの再建を暗示的な歴史展開として記した後、その偉業の推進者としてキュロスが牧者として登場するわけです。28節にはキュロスについてこうあります。『わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う』。キュロスを「牧者」や「油注がれた人」と呼んでいることについては先ほど述べました。

 まあ外国の王をそう呼んでいることには確かに抵抗感もあるのですが、第二イザヤはキュロスに熱狂的な希望を抱いていたのでしょう。政治家や王としての象徴が旧約ではどうしても強くなりますが、本来旧約の神さまは正道を乱す王に対して警告預言をもって自ら牧者として来られるお方でもありますから、キュロスを牧者と呼んではばからない第二イザヤの気持ちも分かるような気がします。何と言っても牧畜は当時の中東諸国の生業でしたから。キュロスが失せて散ったイスラエルの民へ、集合と帰国を計画し、それを実現してくれたことは事実ですから、第二イザヤはためらわずに彼を牧者、主が油を注がれる人と呼んだのです。とにかくキュロスの政治的寛容さによりイスラエルは復興するのです。エルサレムが再建され、神殿も復興します。

 そして神さまの真の目的がそこから始まりました。立派な街や神殿よりも、人類の救済がベツレヘムの馬小屋に生まれたメシアの出現によって成就するのです。イエス・キリストという大牧者がこの世に来られて、「良い羊飼い」として「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という道を選ばれるのです。クリスマスを前にして、皆さんもう一度「主の僕」と呼ばれる箇所を読んでみてください。イザヤ書の53章などです。その時、私たちにも「主の僕」として第二イザヤが誰のことを述べたのかはっきり分かると思います。神さまははるかに時を超えて、イエス・キリストを神の僕としてお立てになったのです。クリスマスはもう間近です。天使の声がもう聞こえ出しています。祈りましょう。


 
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