2015.11.22

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「新しい世界を垣間見る」

秋葉正二

イザヤ書65,17-18; ヨハネの黙示録21,1-7

 聖書の構造は人類救済に関する壮大なパノラマです。 創世記の天地創造で始まった大スペクタクルが、ヨハネ黙示録の新天新地の出現をもって完成します。 黙示録の著者預言者ヨハネはもちろんキリスト者ですが、活発な伝道活動を行ったために、ローマ帝国によりパトモス島に流刑になった人物と見られています。 ですから黙示録が象徴的な内容表現で溢れているとは云え、執筆の動機は権力者ローマ帝国への批判と、ローマ帝国によって迫害を受けて苦難の中に置かれている信徒たちへの励ましにあったことは確かでしょう。 私は高校生の時洗礼を受けましたが、長い間この黙示録が何を言っているのか分かりませんでした。

 しかし30年程前に佐竹明先生の聖書講義に触れて、それこそ目から鱗が落ちる経験をしました。 今では笠原義久先生の著作や村上先生、秋田先生の著作もありますから、内容を正確に理解することはかなり楽になりました。 皆さんも村上先生の著作などには直接触れておられると思います。 さて、きょうのテキストは終末の完成に関する部分で、新天新地の出現がテーマになっています。 これを私たちの信仰に関わるものとして理解しようというのが目標です。

 ところで、皆さんは終末をどのように理解しておられるでしょうか。 ユダヤ教では一般的にメシア待望という神の啓示を待つ期待感として理解されています。 ダニエル書などの黙示文学にそれが窺われます。 キリスト教においてはもちろん鍵を握るのはイエスさまで、終末は神の国という言葉で待望された宣教の基本的な特徴です。 学者はその待望の範囲・内容・神学的意義についてなど、いろいろ研究して、徹底的終末とか実現しつつある終末とか決断の終末とかいろいろなことを主張してきました。 福音書から見えてくることですが、イエスさまが神の国が明らかにされることをご自分の運命との関連で期待されていたことは確かだろうと思います。 それを継承するように、原始教会はイエスさまの死と復活を終末に属する事柄であると理解してその宣教に努めました。 でもその待望は最終的啓示として時間的になかなかやって来ないという問題に突き当ってしまいました。 そこで初代のキリスト者たちが行き着いた理解が、人間の実存に関わる復活という出来事です。 キリスト者は忍耐して最終的啓示を待つべきだ、というのが結論だったのです。

 爾来、2千年が経過しましたが、私たちの理解はその流れの上にあります。 即ち、私たちは終末を待望しつつ現在を生きています。 さて今日のテキストですが、預言者ヨハネは「新しい天と地」を見た、と言っています。この表現はこの箇所のテーマですが、ヨハネはおそらく信仰的見地から新天新地が今や実現していると主張しているのです。 ローマ帝国から厳しい圧迫を受けながら苦労して信仰生活を送っている各地の信徒たちが、終末をジリジリした思いで待望していることに対して終末の先取りという形で励ましているのだと思います。 それが目に見える形で具体的にどんな風に現れるかは彼も分からないのですが、信仰によってすべては神さまに委ねることができることを確信したのです。 「新しい」と訳されたギリシャ語カイノスに注目する必要があります。これは永遠に変わることなき絶対的な新しさを表す言葉です。 一般的な新しさは当初は新鮮でも時の経過と共に必ず古びていきます。 カイノスはそうではありません。 ヨハネはこの言葉を使うことによって、彼が信じている終末がこの世の時間の経過では捉えられないことを表現しています。 時が経過してもまったく古びず変わらない世界、これまでとはまったく異なる神さまの支配される世界を「新しい」という言葉で主張しました。 各地の信徒たちにその新しい世界を仰ぎ見るように促しています。

 2節には「新しいエルサレム」がバビロンに対立的な存在として出てきています。 バビロンはもちろんローマ帝国に当て付けた表現です。 新しいエルサレムが花嫁のように天から下って来るのを見た、と表象しながら、3節では玉座から語りかける大きな声を聞いたと言います。 その際、神の幕屋という表現を用いるのですが、これは幕屋ですから旧約聖書から導入したモチーフに違いありません。 そうして神さまと神の民について述べながら、神さまが人間にとってどういう存在なのかを証ししています。 神様は人の目の涙を拭い取ってくださるお方だと言います。 涙を拭い取ってくださるのですから、悲しみ苦しみにあえぐ人間を慰め支えてくださるのです。 「もはや死はない」とも言っています。 死は人の人生を支配する最大の厄介者ですが、ヨハネは死の諸相に触れながらそれは消滅したと断言します。 これは迫害下で喘ぐ各地の信徒たちを救う大きな励ましの言葉だったでしょう。 それにしても「玉座」とか「神の幕屋」とかモザイクのようにいろいろな表現が繰り出されるのですが、それらは皆他の箇所にも出てくる表現ですから、繰り返してそうした表現を用いているわけです。 様々な表現を繰り返し駆使することにより、ヨハネは新しい天地のマボロシを確認するように仰いでいるのでしょう。

 ところで、ヨハネのこうした言い方は私たちに普段考えている歴史というものをもう一度考え直す機会を与えます。 私たちが普段意識している歴史は言ってみれば「人間の歴史」です。 いろいろな時代に、いろいろな人たちが繰り広げて来た、あるいはこれから繰り広げるであろう歴史です。 その場合、その歴史をつくるのは私たち人間であり、その人間たちが生きるそれぞれの時代です。 そこで私たちは過去の歴史から法則みたいなものを見出し、それを将来に生かすことができると考えます。 それが人間が担うことのできる生の営みというものでしょう。 しかし私たちは過去の歴史に学ぶと言っても、実際には学んだことを将来に生かし切れません。 それゆえ人間は愚かな行為を何度も繰り返しながら歴史を進めるしかないのです。 本当の意味で歴史を生かすことができないのが人間だと言ってもよいでしょう。 この人間の現実の姿に対して、ヨハネは神さまが導かれる歴史はまったく質を異にするものだと言っているのです。 創造主であり、歴史を支配される神さまは、人間が抱える限界性を持った歴史を根本的に変えてしまうことができるのです。 ヨハネが信仰において仰ぎ見た歴史はそういう歴史です。 人間の能力や努力では変えることのできない自分たちの歴史、これを根本的に作り変えてしまうもの、これが終末において明らかにされる歴史なのでしょう。

 終末に私たちが介在することはできません。 信仰を与えられなければ見ることのできない世界をヨハネは指し示しているのですから、私たち人間が地上の歴史理解から神の国を見ることなどは出来ないのです。 しかしその世界にイエスさまは神の子として風穴を開けられました。あえてご自身を十字架につけることによって、イエスさまは人間が超えることのできなかった死を滅ぼす世界を示してくださったように、神様は信仰によって見える世界を仰ぎ見ることをヨハネや信徒たちにお与えになったのだと思います。 預言者ヨハネが仰ぎ見た世界を人間の言葉で完全に表現することは不可能です。 ですから新天新地を表現しようと思えば、象徴的な表現にならざるを得ません。 もしこの黙示録を信仰のない人が読めば、おそらく荒唐無稽にしか映らないと思います。 でも信仰の目をもって読むと、そうではない世界が見えてくるのです。

 パトモス島から発信されたこの書物を読んだ各地で難儀していたキリスト者たちは、確かにこの書物から力を与えられたはずです。 信仰を持つ人同士に成立する世界がそこにあったことが分かります。 もちろんその共通認識は時代を超えて、現代の信仰者である私たちにも迫ってきます。 6節には「事は成就した」とありますが、これは救いが完成したという意味です。 アルファでありオメガであるというのは、イエス・キリストご自身のことを言われた言葉として出てきていますが、同時に『渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう』と言いつつ、救いが完成したという信徒たちの受ける恵みが語られています。 それは終末時に信徒たちが受ける至福の大きさに呼び起こされた著者ヨハネの信仰告白でもあるでしょう。 私たちは「命の水の泉」とか「勝利を得る者」とか「花嫁のように用意を整えて天から下って来る」といったような表現から、預言者ヨハネが福音書を意識しながらなるべく共通する言葉をできるだけ用いようと努めている点にも注意を払いたいと思います。 例えば、ヨハネ福音書では花嫁を迎える花婿はキリストであり小羊ですから、福音書との共通点を見出すことができます。

 私たちは終末ということを信仰を理解する上で平生からよく考えておかなくてはなりません。 私たちは確かに救われるのですが、救われるに際して積極的に救いを受ける努力が大切なのだと預言者ヨハネに呼びかけられているのです。 イエス・キリストを信じる者として、自分がどういう努力をしなくてはいけないのかを真剣に考えるということです。 もちろん私たちの努力で救いに与れるはずはないのですが、少なくとも神さまに対して信仰者として誠実な歩みを心がけることは当たり前でしょう。 私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の民とされ、神の子供となります。 さて、最後に一つだけ預言者ヨハネの信仰理解における問題点に触れておきます。 ヨハネはこの世を対立する2者、即ちローマ帝国とキリスト者にはっきり分けて論を進めていますが、人間界をそのように単純に善悪二元論で割り切れるのかという問題があるでしょう。 人間はそんなに単純ではありません。 ローマの役人の中にもキリスト者となった者がいるわけですし、ローマ皇帝で信仰を与えられたと指摘される人物もいるのですから。 人間理解の複雑さを頭の隅に置きながら黙示録を読むことも必要だということかも知れません。 それにしても、さしたる迫害もない世に生きる私たちは幸せです。 それこそ私たちが神さまにまず最初に感謝しなければならないことでしょう。

 お祈りしましょう。


 
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