ヨハネ福音書11章はラザロという青年の死が題材になっています。舞台はエルサレムにほど近いベタニア村です。ラザロにはマルタ、マリアという姉妹がいまして、その家族はイエスさまが上京する機会があれば立ち寄るというような、イエスさまとは親しい関係にありました。このラザロが病気になったので、主イエスを神の子メシアだと信じていた姉妹は、何とか兄弟ラザロを助けて頂きたいと、人をやってイエスさまに来てくださるように頼みました。
しかしイエスさまはその願いにすぐには応じず、そうこうするうちにラザロは亡くなってしまいます。イエスさまがベタニアに来られたときにはラザロは墓に葬られていて、既に四日も経っていたとあります。姉妹はイエスさまに向かって『もしここにいてくださったならラザロは死ななかったでしょう』と言葉を向けるのですが、それに対して主イエスは『あなたの兄弟は復活する』と言われるだけでした。
姉妹を慰めようと集まっていた人々の中には『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいたと書いてあります。きょうのテキストはそういう流れに続く部分です。まず38節ですが、『イエスは、再び心に憤りを覚えて墓に来られた』とあります。心に憤りを覚えたとはどういうことでしょうか。
「再び」とあるように、33節に続いて再び心に憤りを覚えられているのです。この「憤る」と訳された言葉は、辞書によると激しい意味が込められていまして、馬が興奮していきり立つような際に使われる言葉だということです。イエスさまは一体何に憤られたのでしょうか。よく理解できないので、注解書にあたってみたのですが、ブルトマンは、主イエスが憤られた対象は「彼らの不信仰」だと指摘しています。無教会の塚本虎二先生なども同様で、わざわざ「その不信仰を」と言葉を補って個人訳されています。
しかしイエスさまは人間の不信仰に対して、あきれ返ることはあるにしてもそんなに立腹されるものなのか、と思いましたので、もう少し調べますと、シュラッターの注解には頷けるものがありました。シュラッターは、この時の主イエスの心は、やがて内なる戦いをもたらす十字架に集中していたのだという意味のことを述べてから、「闇の諸力」その代表は死だと思いますが、それに対して主イエスは激しく憤られ、その力に闘いを挑まれたのだ、と説明しています。
またカルヴァンはこう述べています。「彼イエスは残虐な死の暴政に直面しながら、それに打ち勝たなければならなかった。彼イエスは人々の不信仰のことより、むしろ死の出来事に心を配っていた」。私はシュラッターやカルヴァンの解釈が適切ではないかと思いました。人間をどん底に突き落とし、場合によっては信仰さえも無力にしかねない死の力に対して、主イエスは激しい憤りを覚えられた、という理解です。
もちろんその憤りのきっかけは、ラザロへの深い愛でした。死というものを冷静に客観的に自然現象だと割り切れるならば、イエスさまの憤りはあまり意味を持たないでしょう。けれども私たちにとって愛する者の死は、決して単なる自然現象として片付けることはできません。死そのものを現象として科学的に説明はできるかもしれません。しかし私たちはそのように説明されたからと言って、決して納得は出来ません。納得できれば溢れ出る悲しみが湧き起こることなどないはずです。
イエスさまがこの場面で触れておられる事柄は、死の説明ではなくて、その理由や意味についてなのです。人間にとって生きていることを無意味にしてしまいかねない、その人の人生の最後の敵である死に対して、イエスさまは心の底から憤られたのだと思います。この自覚の上に立たれて、『その石を取りのけなさい』とおっしゃいました。
しかしマルタはイエスさまのその言葉が意味するところを理解できません。だから彼女は常識的に応じたのです。『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』。そうしてこの場面では、洞穴の墓をふさぐ大きな石が生と死を分ける象徴として描かれています。決して誰も動かそうとはしなかったその大石を、イエスさまは取りのけられるのです。少し前の25節では、イエスさまが姉マルタに向かって言われています。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』。その意味が、石が取りのけられる今、明らかにされます。
イエスさまは「自分は人を生き返させる力を持っている」という言い方はされません。25節の言葉はエゴー・エイミーという言葉で始まります。これは「わたしは何々である」という時にイエスさまが用いる常套句です。「わたしは世の光である」とか「わたしは羊飼いである」とかと同じように、25節では「わたしがよみがえりであり命だ」と言われているのです。この私がそうだ、と言われるのです。イエスさまが言われる「命」や「よみがえり」は、「永遠の命に生きる、神の国の命に生きる」ということですが、これは肉体的に不死の生命を与えるということではありません。
ラザロはこの物語では生き返っていますが、彼の地上の命は私たちと同様やはり何年かして死んでいったのです。昔から「不老長寿」を求めた権力者はたくさんいますが、皆その場限りの慰めしか得られませんでした。イエスさまはこの問題に終止符を打たれるのです。私たちも、ともすれば死という限界をすべての人間の大前提にしています。イエス・キリストに従おうとする信仰さえも、死のギリギリの線まで貫き通すことが最大の誠実さだと考えています。しかしこの物語でイエスさまが示されているのは、死の限界のこちら側でイエス・キリストを捉えることではありません。イエスさまが示されたのは確信なのです。私たちが設定した死の限界のこちら側にある、慰めのようなことではないのです。
ですからラザロが生き返ったからといって、すべての死人が生き返るなどと考えるのは見当違いです。ラザロの復活を手掛かりとして、彼を生き返らせた主イエス・キリストそのものに焦点を合わせなければなりません。私たちはイエスさまを単なるやさしいお方だとか、いつも慰めてくださるとかいろいろ考えますが、キリストそのもの、復活の命そのものとして見なければならないことを、このラザロの生き返る話から学んでいます。マルタもマリアもこの物語では、一言でいえばイエスさまの愚かな対話者として終始してしまっています。けれどもその愚かさは私たちの愚かさでもあります。死体はいずれ腐敗して腐臭がただようことを私たちは皆、経験で知っています。「カラマーゾフの兄弟」にゾシマ長老が死んだ時、立派な方であったから死臭はしないだろうというくだりがあったことを思い出します。
また「罪と罰」では強欲な金貸しの老婆を殺したことを娼婦ソーニャに告白したラスコーリニコフが絶望から新しい生へと歩み出すきっかけは、ソーニャが読んでくれたこのヨハネ11章でした。ドストエフスキーもずっと復活のことを考え続けていたのだな、とあらためて思います。先ほどヨハネ福音書と一緒に読みましたエゼキエル37章、ちょっと不思議な感じのする箇所ですが、そこでは主なる神が谷いっぱいの枯れた骨に肉をつけ皮膚で覆い、霊を吹き込んで生き返らせる情景が描かれていました。そして墓を開き、イスラエルの民を引き上げて霊を吹き込むとお前たちは生きる、とあるのです。あの箇所でも私はヨハネ11章と同じことが示されていると感じました。
私たちはきょうのテキストのマルタと同じように、復活であり命であるイエス・キリストから『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』と声をかけられているのだと思います。エゴイスティックな生き方が横行するこの世の中で、信仰的な誠実さを自分の死まで貫くことは立派なことでしょう。しかしそれだけでは不十分なのです。
ラスコーリニコフが気づいたように、イエス・キリストはこの私の「死」の主なのではなく、「生」の主であることを確認しましょう。ペトロのように「先生と一緒に死のうではないか」というのは心得違いの蛮勇です。そうではなく、イエスさまご自身が、よみがえりであり命であるキリストであることをしっかり見て、そのイエスさまと共にこの世の生涯をまっとうする、そして神の国へ入れていただく、そのように生き切ることができるようご一緒に祈りつつ歩んでまいりましょう。復活の主は私たちを悲しみに沈んでいるベタニア村から呼び出されています。私たちは悲しみの中にうずくまっているわけにはまいりません。立たなければなりません。そこにはよみがえりであり命である主イエス・キリストがおられます。復活の信仰は、何度も復活に関する記事を読んできたから卒業、とはいかないのです。これまでも信じてきたけれども、きょうまた新しく信じるのです。
きょうまた新しく信じることによって、私たちの前に主イエス・キリストの姿がいよいよはっきりと照らし出されます。『ラザロ、出て来なさい』。そうおっしゃるイエスさまの大きな声が、この朝も世界中に響いています。祈ります。