2015.8.2

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「平和の君」

秋葉 正二

イザヤ書9,1-6; マタイによる福音書4,15-16

 「平和聖日」を迎えました。ヘブライ語では平和のことを「シャローム」と言います。シャロームはただ単に戦争がないことを意味する言葉ではありません。古代のイスラエル共同体の中に祝福が満ち、そこに生きる人々の間に調和があり、全体としても力が溢れている状態です。このシャロームが現代日本の私たちにもあったらどんなによいかと思います。いや、これは日本だけでなく、どの国の人々も願っていることでしょう。問題は自国民だけでなく、他国をも含んだシャロームを形成できるかどうかです。より強い軍備を備えて周囲の敵を打ち負かすことによって得られる平和は、決して本来のシャロームではないはずです。

 今、私たちの国はいわゆる「戦争法案」に揺れています。この法案が制定されたらどんな状況が起こるのか、私たちの国はどんな国になるのか、そうしたことをよく吟味しなければなりません。民主国家では、国の法律を決めるのはその国の国民自身ですから、どういう国にするのかという責任も、私たち自身にかかってきます。伝統的な仏教界やキリスト教界を中心とした宗教界からこの法案にNOの声が挙がっているのは、この法案の中にシャロームではない平和をそうした宗教界が読み取ったからでしょう。

 先ほどイザヤ書の9章1-6節を読みましたが、そこでは預言者イザヤがメシア的王の誕生を謳い上げています。預言者の目に映ったシャロームの世界は、苦悩する現実の中から生まれました。イザヤの活動した紀元前8世紀という時代は、東の大国アッシリア帝国にイスラエルが翻弄された時代でした。北王国はアッシリアによって滅ぼされ、住民は塗炭の苦しみを体験することになります。アッシリアは占領地を属州として再編しましたが、その後もガリラヤ地方は多くの外国勢力によって順次支配されていくことになりました。住民の強制移住や外国人の入植政策が数世紀にわたって繰り返し実施されたのです。その結果、人種も宗教も文化も混合状態となりました。南王国から見ればかつての北王国は、まぎれもない異邦人の地と見えたことでしょう。

 ですから新約の民がガリラヤを指して「異邦人のガリラヤ」と呼んだのは、人種や宗教の混合民族をさげすんだ言い方です。占領地がどのような有様であったのかは、ある程度きょうのイザヤ書テキストの表現からも窺うことができます。ゼブルンとかナフタリといった地名は、もちろんヤコブの子どもたちの名前にちなんだ12部族連合時代のイスラエルの領地を指しています。この土地が再びイスラエルのものとなるのは、紀元前80年のマカバイ王朝時代まで待たねばなりませんでした。

 さて、人種や宗教が混合状態になった世界を皆さんイメージできるでしょうか。これは島国である日本に住む私たちにはとても難しいことだろうと思われます。実際は「日本島国論」も「単一民族論」も、とっくに崩壊しているのですが、未だにそうした意識を持っている方は結構多いようです。ネット右翼と呼ばれる現首相の取り巻きが現れたりするのも、こうした傾向と無関係ではないでしょう。

 ところで、日本の仏教は100%外来宗教です。しかし1500年近くを経て、日本は仏教国と呼ばれるまでになりました。そもそも仏教は経典量も膨大で、元々広大な思想体系を持っていましたから日本に根付くことも可能だったと言えそうですが、実際はかなり骨抜きにされたと思います。奈良時代など、時の政権は見事に仏教を古代神道と抗わないように並立させることに成功しています。春日大社と興福寺や東大寺が違和感なく並立できる世界です。やがて神仏混合の思想も次々現れて、本来の仏教が備えていた内容はかなり改変される形で残されていきました。

 そして、この基本的な構図は近代になっても変わらなかったと思います。つまり、日本文化(?)は新しく招来された宗教なり思想なりを呑み込んで本来の内容を変えて残していくと言ったらよいでしょうか。近代では、明治維新と共に新しくキリスト教も大手を振って入ってくることになりましたが、100年くらいの間にすっかり骨抜きにされてしまったと思います。何と言いましょうか、自由とか人権とか本来聖書まで遡ることができるような思想が正面に出てくると、体よく潰されてしまうのです。キリスト教あるいは聖書の中には体制を変革してしまうような力が様々な記事を通して示唆されていますが、これは古来からの日本の政治手法に馴染まないようです。

 たとえば国家間に何か歴史的問題があったとします。日本の政治家は水に流して新しくやり直そうと発想しますが、これが国境が時代と共に変わってきたような歴史をかかえる国にしてみれば、歴史的事実を水に流すことなど土台無理な話ということになるのです。これは、第二次世界大戦で見方によっては同じような経験をした戦後のドイツと日本を比べてみれば、はっきりします。ポーランドの民衆にひざまずいてナチスの非道を謝ったアデナウアーのような人物は戦後日本の政治リーダーにはおりません。いたのはA級戦犯候補だった現首相の祖父のような人たちです。日本はアジアの国々にまだ心から謝ってはいないのです。

 口先だけで謝っても、その本心はすぐにばれます。戦後70年も経つというのに、これが現実です。何とも心許ない現実ではないでしょうか。謝るという行為はキリスト教信仰では大きな要素です。あらゆる人間は神さまに謝らなければ生きては行けない存在として聖書に登場します。私たちキリスト者にとって懺悔や悔い改めは信仰生活を送るにあたって省くことのできない大切な要素です。信仰世界では人間はまず神さまに悔いて謝らなければならないのが第一のことですが、これは人が実生活の上で、他人に対して何か過ちを犯したりした時にも同じように謝るべきであることをも示唆していると思います。謝ることと、許すことがないと、我々人間は神さまと一緒に生きられないことはもちろん、人間同士としても共生できないのです。

 イエスさまはこの謝ること・許すことに関することを、分かりやすい言葉でたくさん教えてくださっています。「山上の説教」にある復讐の禁止や愛敵の教えはその代表的なものでしょう。私たち現代の日本のキリスト者が平和を考える場合、この謝ることと赦すことは、現実世界でも抜くことのできない行動原理となるはずです。マタイはかつて自分たちの先祖の生活の中に起こった強制移住や入植という厳しい出来事を想起した時、もう二度と「異邦人のガリラヤ」を繰り返してはならないと思ったことでしょう。しかし彼はかつて「暗闇」「死の陰の地」と呼ばれた地域に、今自分が生きるこの時代に、新たな光が射していることも思い返さずにはおれませんでした。イエス・キリストの登場は、ナフタリを、ゼブルンの地を変えたのです。

 それは福音書記者マタイが仰ぎ見た、イエス・キリストというお方のもたらした福音の展開の新たな方向でした。いまや暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者には光が射し込んでいるのです。かつてイザヤが仰いだ「ひとりのみどりご」は今や明確な姿・形で、マタイの前に立っておられます。王の王座と王国はやがてすたれてなくなりますが、この方は「平和の君」として現れてくださいました。この方はローマ帝国という強大な軍事帝国の圧倒的な力の前に、十字架刑によって葬り去られたかに見えましたが、そうではありませんでした。古代から、国々は立ちては滅び、滅びては立ちを繰り返してきましたが、イエス・キリストの光は「異邦人の地」をそっくりそのまま「神の国」に変えてしまった光です。私たちもその光を今浴びています。

 預言者イザヤの希望はマタイの見た「異邦人の地」に実現し、さらに今、世界中のキリストを信じる者の上に実現しています。あらゆる政治的な政策はこの平和の君の光に照らして吟味されなくてはなりません。私たちは力による平和の維持という考え方の限界をこの平和の君が残された言葉の中に見出そうと思います。敵を想定し、その敵を力で征服していくことによって自分の平和を得ようとする発想を捨てましょう。

 そもそも敵とは何でしょう? 中国でしょうか? ロシアでしょうか? 違う民族や国は敵なのでしょうか。そこには力による征服しか平和の道はないのでしょうか。 イエスさまは、『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい』とおっしゃいました。これは自分にとっての敵と味方を想定して、その敵を排除することに平和を見出そうとする考え方へのイエスさまの挑戦の言葉です。私たちは今、目の前にある「戦争法案」という現実にどう対処しますか、というイエスさまの挑戦の言葉を耳にしているのです。この挑戦に、逃げずに答えようと思います。祈ります。

 
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