イエスさまが約束された通り、弟子たちに聖霊が注がれたことを記念するペンテコステを迎えました。 聖霊が注がれたことにより、イエスさまの言葉と業は使徒たちによって継承されていきます。 テキストの1-13節は聖霊降臨の物語で、著者ルカが見聞や想像を土台として、聖霊降臨という一大事件を叙述した散文です。 その日はユダヤ教の五旬祭でした。 イスラエルの三大祭りの一つで、過越祭から50日目にあたる小麦の収穫感謝祭です。 『一同が一つになって集まっていると』と1節にありますが、一同とはおそらく12弟子だけでなく、1章の15節に記されている120人も含んでいるのでしょう。 もちろん杓子定規に120プラス12だなどと考える必要はありません。 2節には聖霊が降る様子が書かれています。 『突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた』。 これは音の説明ですから、私たちにもその様子がイメージできます。 問題は続く3節でしょう。 『炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』。 この表現をそのまま表現通りにとると、なにやら怪しげな絵を描きそうになります。 炎だから赤くメラメラ燃えている火のようなものだろうとか、舌というからには平べったいナメクジのようなものかな……とか、人によっていろんな絵が出てくるかもしれません。
では3節をどのように理解したらよいのでしょうか。 実はこれは、文字通り表現通りにとるか、或いはそうした言葉で表現されている内容を読み取るかの違いの問題だと思います。 表現通りにとると、今言った炎だとか舌とかにこだわることになります。 実際昔の人はその様子を絵に表現しました。 ペテロたちの頭の上に炎がチロチロ燃えていたり、炎が分裂するようにちぎれていく絵だったり、たくさんあります。 それはある面から見れば、聖書を懸命に理解しようとする熱心な試みと言えるかもしれません。 しかし少し冷静になれば、「あれ、ちょっとおかしいかな」と気づくと思うのです。 それは私たち人間の、文字の表現形式にとらわれて自由な発想ができなくなっている姿ではないでしょうか。
少なくともルカは一つの霊的出来事を表現しようとしているのです。 霊的な出来事は本来文字や絵で表すことは不可能です。 神さまの働きである聖霊が使徒たちやイエスさまを慕って集まっていた人たちに降ったという霊的出来事を、ルカは彼の生きた時代に最も分かりやすい表現で描いたのです。 ですから「激しい風が吹いて来るような」とか「炎のような舌」とか、「〜ような」という言い方がなされています。 ギリシャ語本文でも「ちょうど〜のような」という意味の言葉が使われています。 つまりこれは、表現を文字通り受け取るのではなくて、そうした表現によって表されている内容を読み取りなさい、ということを意味していると思います。 もちろんそうは言っても、書かれていることがありもしない出来事だということではありません。 そこで起こった出来事を表現する場合には、時代時代が持っている様々な背景に影響されながら、いろいろな表現形式が採用されるという意味です。
さて、前置きはここまでにして、一体何が五旬祭に起こったのでしょうか。 物語の流れからはっきり分かることは、イエスさまの十字架と復活の後に、なおイエスさまに従おうとした人たちの上に聖霊が与えられたということです。 聖霊とは神さまの霊、キリストの霊です。 この聖霊がキリストを通して、神を信じるものに神の力として働くというのです。 聖霊は私たちイエス・キリストを信じる人間に、私たちが神の前でいかに小さな存在であるかを自覚させてくれます。 さらに、イエスさまがどういうお方であるかを明確にします。 イエスさまが救い主キリストであることをはっきり示してくれるのです。
そして「助け主」とも表現されるように、信仰に歩む者を慰め、癒し、導いてくれます。 パウロは「コリント前書」12章3節で、『聖霊によらなければ、だれも“イエスは主である”とは言えない』と述べています。 パウロの言葉に従えば、“イエスは主である”という告白は、目に見えない聖霊を自分は受けているかどうか、ということの判断基準になるということでしょう。 なるほど聖書学という学問をするには、イエスとキリストを切り離してみることが必要なのかもしれません。 しかし私たちは学問を大切にしこそすれ、まず信仰者として歩んでいるのです。 だからこそパウロの言葉を真剣に受けとめることが必要なのではないでしょうか。
もう一つ言えることは、私たちキリスト者は、各人が神さまから頂いている賜物が違うということです。 それゆえ聖霊の働きを一般化することなど出来ません。 ですから、五旬祭の日に起こったこの出来事は、聖霊を受けなければ、キリストの福音を他の人々に伝えることなど出来ないということを表しています。 そのことがあるから、聖霊は『ほかの国々の言葉で話しだした』と書いてあるのです。 ルカはこのことを『炎のような舌が分かれ分かれに現れ』と表現しました。 12弟子やイエスさまを慕って集まった人たちに最初に必要だったことは、新しいスタートを開始するために、まず聖霊を受けて、神さまのみ旨に従って、イエス・キリストの福音を自由闊達に語ることができる力を授かることでした。
さて、5節にあるように、五旬祭のエルサレムには、天下のあらゆる国から信仰深いユダヤ人が集まり、滞在していました。 その人たちは、聖霊を受けた使徒たちが他国の言葉で語り出したのを聞いて、あっけにとられています。 7-13節には彼らが不思議がっている様子が描写されています。 ディアスポラのユダヤ人以外に異邦人もいたと思われますが、とにかく驚いたことでしょう。 ルカが全世界の人々をここに引っ張り出したのは、やがて彼らが自分たちの国語で、イエス・キリストの福音を聞く日が訪れるということの伏線を敷いたのでしょう。 ルカは世界中の人たちが驚き、不思議がっている様子をペンテコステの出来事として象徴的に描きました。 コイネーと呼ばれるギリシャ語が当時ローマ帝国の支配地域の世界共通語でしたが、パルティアとかメディアとかメソポタミアの人々はアラム語を話していたと言われます。 で、聖霊を受けたときに、使徒たちは群衆それぞれの生まれ故郷の言葉で話しだしたと書いてあります。 どのようにして語ったのかは書いてありませんから分かりませんが、ルカが言いたかったのは、聖霊を受けた者はたとえ他国の人たちであっても、力強くイエス・キリストの福音を説きあかすことができるようになるということです。 そのことをルカは象徴的に人々が驚き戸惑う姿を通して描いたのです。
13節の『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』という描写はとても興味しろい記事だと思います。 お酒も飲み過ぎれば、その人物を別人に変えてしまいます。 それを聖霊の働きと対比したのです。 聖霊はそれを受ける人を神さまの働き人として良い方向に変えます。 しかし酒はほろ酔い気分のうちはよいのですが、飲み過ぎれば、大抵その人の全存在を悪い方向に変えてしまいます。 もしかすると、ルカは始末に負えない酔っ払いの姿を普段からよく見かけていたのかもしれません。 それにしても聖霊の働きと酒に飲まれる姿とを並べているのは興味しろいと思いました。 それはさておき、ペンテコステの出来事を私たちは今五旬祭の日の出来事として読んでいるわけですが、聖霊の働きはもちろんその日だけのことではありません。 教会の2千年の歴史にずっと続いている出来事です。 どんな時代でも聖霊は神を信じて歩む者に、命と力を与えます。
ただ聖霊がイエス・キリストの十字架と復活の出来事を通じて、新しい形で働き始めたことをルカは述べたのです。 ですから聖霊を理解するときにも、イエスさまが十字架に死なれ、よみがえったという真理をきちっと捉えておくことが重要です。 この真理のために、教会は福音宣教という使命を与えられました。 その意味で確かにペンテコステは教会という歴史の第一歩を表しています。 14節以下にはその使命のために最初に立ち上がったペテロの説教が記されています。 ペテロの第一回目の説教です。 きょうは18節までを読みましたが、彼の説教は40節までずっと続きます。 ペテロが一番強調していることは、ナザレ人のイエスさまが救い主キリスト、メシアなのだという点です。 そのことを証明するためにペテロは話の半分近くを旧約聖書を引用しながら語りました。 これはもう、解説するよりは皆さんが直接彼の言葉に耳を傾けるのが一番よいと思います。 教会の礼拝説教の大本、原形がここにあると思います。 イエス・キリストの福音は、今に至るまで、世界に宣べ伝え続けられています。
私たちも、聖霊が自分たちの上に豊かに働くよう、ご一緒に祈りましょう。