2015.3.29

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「平和の主の到来」

秋葉 正二

詩編118,25-26; ヨハネによる福音書12,12-19

 棕櫚の主日を迎えました。この棕櫚にちなみ、今日私たちはイエスさまのエルサレム入城の場面を記した記事を読んでいます。四福音書すべてにこの記事はありますが、描き方はだいぶ違います。共観福音書にはろばの子を見つけるいきさつが描かれていますが、このヨハネ福音書では『イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった』と簡潔に記しているだけです。それよりももっと大きな違いは、ヨハネ福音書では17節以下にありますように、すぐ前にあるラザロの復活の出来事とエルサレム入城を関連させている点です。大勢の人々がなつめやしの枝、つまり棕櫚の葉のついた枝を持って出迎えたことを「ハレルの詩編」と呼ばれる詩編118編を引用して描いている点は共通していますが、共観福音書は特段ラザロの事件には触れません。この点に注意しながら読み進んでまいりましょう。

 「ろばの子に乗って」というのは、小預言書のゼカリヤ書9章9節からの引用です。ゼカリヤ書の9章以降の後半は、紀元前2-4世紀頃の成立と見られていますから、比較的イエスさまの時代に近いのですが、黙示文学的にエルサレムの勝利を述べます。この箇所はイスラエルの救いについて預言している部分ですが、平和について考える時、大きな示唆を与えてくれると思います。一部の引用だけでなく、ちゃんと読んでみることにします。ご無理でなかったら、旧約の1489ページを開けてみてください。

 ゼカリヤ書9章9,10節を読みます。『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ』。いかがでしょうか? 平和のメシアを仰ぎ見つつ、エルサレムの勝利を述べていますが、素晴らしい預言の言葉だと思います。特に「ろば」というのがいいですね。ろばは紀元前4千年以上前から家畜として人間と生活を共にしてきた動物ですが、体高も1メートルちょっとしかないので、荷物を積むのも容易です。何よりも性質が温和なのがいいですし、粗食にも耐えるそうですから、家畜としてとても優れていると思います。ウマ科ではありますが、馬のように足が速くないし、背も低いので、見栄えはパッとしません。

 三浦綾子さんの小説でおなじみですが、「ちいろば先生」と呼ばれた日本のアシュラム運動の指導者であった榎本保郎先生は、このろばにすっかり惚れ込んだようです。イエスさまが小さなろばに乗ってエルサレムに入城されたことに、余程感銘を受けられたのでしょう。私にも榎本先生のお気持ちがよく分かります。イエスさまが立派な馬ではなく、ちいさなろばを選ばれたことは、キリスト教の本質を表しています。イエスさまが小さなろばに乗られたということは、イエスさまというお方が平和を選択し、平和を与えるお方であることを表しています。イエスさまが平和を与えるお方であるというのは、ヨハネ福音書の重要なモチーフなのです。

 たとえば、14章27節の聖霊をくださると約束してくださる箇所にはこうあります。『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな』。そして16章33節はこうです。『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』。

 古い時代の王や将軍の凱旋入城のシーンを想像してみてください。そこには戦勝の興奮がまだ残っており、この世的な名誉や戦利品をこれ見よがしに見せつけるような振る舞いが多く見られることでしょう。しかし、ろばに乗ってトコトコ入城してくる様子にはそうしたところは微塵もありません。凱旋将軍の立派な軍馬は、聖書という書物によって見すぼらしい小さなろばに置き換えられて、イエスさまにこれから起こる十字架と復活が、人間を支配する罪と死へ勝利することを見事に予兆するのです。イエス・キリストの受難の七日間はこういうところから始まるのだ、と共観福音書もヨハネ福音書も宣言しているのです。とりわけヨハネ福音書は、17,18節の説明を付け加えることによって、即ち、ラザロの事件を目撃した群衆も加わってその証人となっていたことを記して、イエスさまの復活の圧倒的な恵みを描いています。

 イエスさまがエルサレムに迎えられるということは、ヨハネによれば、これからの世がこのイエス・キリストの十字架と復活によって新しい時代を迎えることの宣言でもあります。この世には私たちの心を騒がせ、おびえさせることが沢山あるが、これからは大丈夫だ、十字架と復活のイエス・キリストが共にいてくださる、これ以上の平和があるだろうか、ということなのです。ところで、イザヤ書9章5節には「平和の君」という表現があります。『ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた』という箇所ですが、これはメシアが支配権と一緒に受ける4つの称号のうちの一つだと書かれています。ヘブル語の平和(シャローム)が意味するところによれば、この「平和の君」という称号は、戦争のない、政治上の平和・平安の創造のみならず、繁栄と幸福の確立をも示唆するものです。このことに照らし合わせれば聖書における平和とはまさしく神が共にいてくださることを意味しています。

 このような平和を与えてくださる方としてイエスさまはエルサレムに入城されたのでした。小さなろばに乗って入城されたという出来事の裏側には、イエスさまご自身の中に、既に十字架にかかって人々を救うという毅然たる決心・選択があったはずだと思うのです。入城される時、棕櫚の枝をもって「ホサナ、ホサナ」と叫んだ群衆はそういうことにはまったく気づいていません。「ホサナ」というのは、「いま救い給え」という意味です。当時のエルサレムの人口は10万人くらいと見られていますが、祭りの期間になるとその人口は30万人にもふくれあがったと言いますから、イエスさまにかけられた賛美の声の勢いというものは相当なものだったでしょう。しかし拍手を送る者が、必ずしもその人を理解しているとは限りません。いくら「ホサナ」と叫んでも、イエスさまの行動を正しく理解することは出来ないのです。

 おそらく群衆の多くは、イエスさまなら自分たちをローマの政治支配から解放してくれるのではないかと期待していたものと思われます。自分に都合のよい考えだけでイエス・キリストを歓迎する者は、やがてイエス・キリストを捨てる者となるのです。そのこともこのテキストの行間には示唆されていると思います。きょうから受難週に入ります。4/2は「洗足の木曜日」、4/3は「受難日」です。エルサレム入城からスタートする七日間の一日一日を、意識的に過ごすようにしましょう。

 さて、終わりの19節ではファリサイ派の人々が互いに言い合っています。『見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか』。なんと、イエスさまがこれから死を克服し新しい命を与えるお方であるという事実の前に、イエスさまを受け入れなかった張本人たちが、この世自体がイエス・キリストを受け入れようとしているのだ、と判断しているのです。皮肉にもこの判断は、イエスさまご自身が『わたしは既に世に勝っている』とおっしゃったことを事実だと証明しています。サタンが大手を振って歩いているこの世自体がイエス・キリストの前に自己分裂しかかっています。

 ヨハネの描く物語の展開は、この後章が進むにつれて、この世がイエスさまを十字架につけるという最悪の展開を示しますが、翻ってそれは十字架と復活の主、平和の君イエス・キリストの本質を証しすることになります。それが証拠に、復活されたイエスさまは、最初に弟子たちに現れた時にこう言われています。『あたながたに平和があるように』。この宣言をすべてのキリスト者がいただいています。私たち一同、心を合わせ祈りを合わせて、来週の復活祭を迎えたいと願っています。祈ります。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる