きょうのテキストも昨年の受難節にローズンゲンに従って学んだ箇所ですが、また新たに学び直しましょう。イエスさまのエルサレム入城後、神殿で祭司長、律法学者、長老たちと交わした激しい論争の中で語られた譬え話です。譬え話というときには、あらかじめ基本的な区別を確認しておいた方がよいでしょう。福音書では短いたとえである直喩や隠喩のような比喩と、説明のために用いるたとえの素材一つ一つに意味を寓する、つまりかこつける寓喩に分けられます。「ぶどう園と農夫の譬え」は寓喩的物語でありまして、一つ一つの表現に教訓的な意味が含まれていると考えられます。その教訓的な内容とは何なのかを私たちは取り出さなければなりません。私たちは聖書に記されたこの寓喩的物語を何度でも読むことができるのですから、恵まれています。というのは、あくまでもイエスさまは、譬え話を読ませるために書かれたのではなく、その場その場である一つのことを明らかにするために語られているからです。その場にいた人にとってみれば、パッパッとイエスさまから投げかけられた言葉の意味をすぐ理解しなければならなかったわけですから、同情してしまいます。祭司長や律法学者は頭脳明晰であったことをイエスさまから認められていたとも解釈できます。
現にきょうの物語では、12節で祭司長や律法学者は『彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので……』とありますから、この譬え話は寓喩として解釈されなければなりません。この譬えはどういう状況の中で語られたかと言いますと、イエス・キリストの権威に関する問答の後で話されていることに留意する必要があるでしょう。そのことはすぐ前11章27,28節の言葉に示されています。曰く、『一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。“何の権威で、このようなことをしているのか。だれがそうする権威を与えたのか"』。だから祭司長、律法学者たちがこの話を聞けば、その一つ一つが寓喩であることが分かったのです。つまり、一つ一つの話の材料が他の物事にかこつけて表された意味を持っていることが理解できたのです。
ということで、早速材料の一つ一つにあたってみましょう。「ある人」とは神様でしょう。「ぶどう園」はイザヤ書などから(5,7)イスラエルを意味すると考えられます。「農夫たち」はイスラエルの指導者層、「僕」は洗礼者ヨハネなどの預言者たちでしょう。とすれば、「ぶどう園の収穫」というのは、神の民としての使命に対する成果、いわば信仰の果実です。6節に「愛する息子」が出てきますが、これは神様の子であるイエスさまでまちがいないでしょう。物語はその「愛する息子」が8節にあるように「殺されて、ぶどう園の外にほうり出された」と言うのです。ここまで来ると、誰でも「ああ、これはエルサレムの城外のゴルゴダで処刑されたイエスさまだ」と気づきます。さらに9節では『さて、このぶどう園の主人は、どうするだろか』と問うのです。
紀元70年にエルサレムはローマ軍によって滅亡しますが、これはそうした歴史的出来事や最後の審判を意味しているように思われます。ということで、この寓喩的物語をまとめてみるとこうなります。神様はイスラエルを人類の救いを成就するために選民として立てられ、その歩みを正すために指導者のもとへ預言者を送られた。しかし彼らは預言者たちに従おうとせず、その中のある者たちを殺した。そこで神様はそのひとり子イエス・キリストを地上にくだされたけれども、彼にさえイスラエルは従わず殺してしまった。それゆえ、神様の選びはイスラエルからイエス・キリストを受け入れる人々へと移っていく。そしてエルサレムは滅びる。さらに神様は、その愛子イエス・キリストを拒む者に最後の審判をもってのぞまれる。大体そんなふうに要約できると思います。この寓喩の意味が祭司長や律法学者は分かったのです。それはイスラエル民族の信仰史ともいうべき歴史的事実でもありました。だからこそイエスさまを捕えようと血眼になって奔走したわけです。
さて、イエスさまは「ぶどう園と農夫」の物語に詩編118編から引用された他の譬えを付け加えられています。10節と11節の「隅の親石」という比喩です。「隅の親石」というのは、パレスチナではさしずめ日本の「大黒柱」に相当するでしょう。建築の際の重要な基礎です。ですからこの詩編の意味はこうなります。大工さんたちが重要ではないと考えて捨ててしまったものが、意外にも家を建てる際の最も大切な大黒柱だった、ということです。これは神様がそのように用いられたということです。そのことは人間が頭で考えただけでは分からないのです。それを分からせてくれるのが信仰です。私たちの人生にとってイエス・キリストがどういうお方として臨んでおられるか、お気づきになられたでしょうか。イエス・キリストは私たちの人生にとっての大黒柱なのです。しかし私たちが生きる現実はどうでしょうか? 現代人の多くは神様によって創造されたこの世界を、イエス・キリストを無視し、神様に逆らって運営しようとしています。ですから、その結果として現れているのは生活難であり、殺人であり、戦争です。聖書を読めば、神様はこの世界を決してそのようには創造されませんでした。なぜこんな世の中になってしまったのか、私たちにはこの寓喩的物語から追求する責任があります。
イエスさまはキリストとしての業をまっとうされました。そのイエスさまを受け入れようしない現代世界の罪が、生活難や戦争という姿をとってあちこちに露わになっています。なるほど神という言葉を口にして宗教活動はなされているかも知れません。しかしそれらはイエス・キリストが中心にはなっていないのです。キリストによって神様に出会い、主イエスによって宗教の真理を見なければなりません。教会も伝道伝道と言いながら、本当にキリスト中心に歩んでいるでしょうか。もしキリストを抜きにするならば、「ぶどう園と農夫」の譬えは即、今日の教会に当てはまると思います。11節に『これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』とありましたが、私たち一人ひとりは立派でなくてもいいのです。しかしそのダメな私のために、その罪のあがないとして、イエスさまが十字架にかかってくださったことだけは心から信じましょう。そこをしっかり捉えていれば、人から捨てられたはずの私たちでも、なくてはならないものとして、神様は私たちを救いの完成のための新しい隅の親石として用いてくださるはずです。
イエス・キリストこそ私たちの人生の力であり、すべての生活の規準です。
祈りましょう。