2014.12.28

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「幼子は境界線を越えて」

秋葉 正二

ヨエル書3,1-5ルカによる福音書2,22-38

 教会暦は降誕節に入りました。世間ではもう既にクリスマスから正月を祝うことに意識は向いているようですが、私たちキリスト教会の中では、クリスマスの出来事は一層輝きを増して続いています。きょうのテキストは、降誕物語の後日譚の一つと言った位置づけでしょうか。際立ったストーリー性はあまり感じません。律法には「清めの儀式」が定められていましたが、その期間が過ぎたので、イエスさまの両親は幼子イエスをエルサレム神殿に連れて行ったようです。ヨセフとマリアは神殿に詣でることを実直に守った両親であった、つまり信仰深かったということです。もっとも、イエスさまの家庭がそうであったとしても、一般大衆の子どもについて言えば、こうした習慣は厳格には守られていなかったようです。

 この神殿に詣でることについて少し考えてみましょう。日本人にとって身近な例を挙げると、一般的には「願掛け」というものがあります。何か誓いを立てて神仏に祈願するのです。これには古代イスラエルにも似たようなものがあって、代表的なものでは民数記6章に、聖別されたイスラエル人としてのナジル人の誓願、つまり願掛けの規定が載っています。もちろん律法です。でもこれはあくまで、ナジル人として何らかの理由で特別に神様に誓願する事例であって、誰にでも該当するわけではありません。まァ、神殿に詣でる理由を考える際の一つの典型です。

 なぜ神殿で誓願のようなことが行われたかと言えば、これは一つの考えですが、ある共同体が内側に閉じ籠って信仰に没頭し、何事かを強調するためには、外に支払わなければならない供物、犠牲という形態が必要になってくる、ということでしょう。というのは、どんな共同体であれ、人間組織である以上、閉じ籠ったきりというわけには行きませんから、閉じた共同体も外部とアクセスを取る必要が生じるのです。その場合の装置を確保しておかなければなりません。それが神殿儀礼の一面です。

 おそらくきょうのテキストでルカが強調したのは、ヨセフとマリアが幼子であるイエスさまをナジル人の規定に従って神に捧げたのだ、というアピールです。神殿礼拝という儀礼をもってイエスさまは聖別されているのです。そのようにして捧げられた子は、こちら側からあちら側へ、閉じられた世界から外部の世界へというように、何らかの境界線を越えて移っていくわけです。こうした境界線越えに関わるのが祭司なのです。

 きょうのテキストで言えば、『お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。』とイエスさまを腕に抱きながら口にしたシメオンです。彼はザカリアのように、神殿と深い関わりを持っていた人物でした。「安らかに去らせてくださいます」というのは、この世からあの世へ安らかに旅立つという意味でしょう。つまり、仏教的に言うならば、此岸と彼岸の境界線で、出入りの手続きをする人がいるということです。古代イスラエルの場合、その役割を担っていたのは祭司で、このテキストで言えば長いこと待ち続けて来たその務めがようやく終わります、というわけです。シメオンはこれで祭司の役目を終えることができます、と告白しているのです。

 彼は幼子イエスを腕に抱いて賛歌を謳っています。29〜32節は「マリアの賛歌」と並んで、「シメオンの賛歌」として有名です。カトリック教会ではとても重要なもので、修道院などでは長い間、晩祷の際に朗詠されてきました。シメオンはもう自分は安らかに去ることができる、と歌っていますが、それだけでなく、31〜32節で、メシアを迎えた世界への祝福を謳っていることに注意してください。両世界を意識した上で、シメオンは両親と幼子イエスを祝福したのです。

 これはどういうことかと言うと、これからこの幼子が両世界を取り仕切りますよ、という宣言です。彼は母親マリアにそのことをにおわせました。34節です。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたり」すると言うのです。これはまさしくイエスさまの生涯そのものを言い表している言葉でしょう。祝福を受け、ナジル人のように今まさにこの世に出て行こうとする幼子イエスと、子どもを引き渡して戻って行く両親とが、この世と神の国の境界線上で対比されている、と見ることができるでしょう。

 もちろん実際にはイエスさまはまだ幼子ですから両親はまたナザレ村へ連れて帰るのです。しかし信仰世界のおけるこの世と神の国を分ける境界線上のやり取りは既に終わっているのですから、連れて帰っても何の差支えもありません。イエスさまというお方は、生まれて間もない幼子の時から、この世と神の国の差配を身に負われていたことが分かります。

 35節で、シメオンはマリアに、『あなた自身も剣で心を刺し貫かれます』と言っていますが、これはマリアだけが受け留めるのではなく、私たちも一緒に受け止めなければならない言葉と言うべきでしょう。マリアはメシアの母として後に自分の息子の処刑を見なければなりませんでした。人としてこんなに辛いことはありません。でも彼女はそれを静かに受容しました。私たちもその辛さ悲しさをマリア一人に任せ切りにしないで、少しでもその剣で貫かれる心を理解しようと努力する気持ちが大切だと思います。

 話は変わりますが、教会の礼拝では普通終わりに牧師の祝祷があります。祝祷は単純に言えば、祝福と派遣です。その祝福にどの言葉を用いるかというのは、厳密に神学的に検討して行けば、そんなに単純なものではありません。教派や教会には伝統がありますし、祝祷を神学的にどのように位置づけるかで、どの言葉を採用するかも違ってくるでしょう。プロテスタント教会に圧倒的に多いのが、コリント後書13章13節、つまり書簡の最後の結びの言葉を引用して、イエス・キリストの恵み・神の愛・聖霊の交わりを祈る伝統で、私もそれを採用しています。

 もっとも特別な儀式の後では、別のテキストから祝祷の言葉を選ぶこともあります。最近では旧約の「アロンの祝福」もよく用いられるようになりました。「アロンの祝福」というのは、先ほど触れたナジル人の誓願記事に続く部分です。ということは、「アロンの祝福」は、もともと聖別されて境界線の向こう側に行くナジル人への祭司の祝福の言葉ということになります。古代イスラエルでは、祝福は異なる世界へ旅立つ人への手向けの言葉なのです。境界線のあちら側とこちら側の諸々を、祝福の言葉としてイスラエルはずっと引きずって来た、とも言えるでしょう。

 きょうのテキストを降誕物語の後日譚と最初に申しましたが、このテキストは、イスラエルがずっとメシアを待望する歩みの中で、引き継がれてきた祭司の祝福の言葉を、律法からキリストへ、旧約から新約へ、という流れの中で、今、私たちの主、救い主イエス・キリストが、神さまから明確な使命を委ねられてこの世の第一歩を踏み出した、というメッセージとして結実させていると言ってよいでしょう。

 36節以下にはアンナという女預言者が出てきますが、彼女も基本的にはシメオンやザカリア同様、神殿と結びついた敬虔な老ユダヤ人です。ただ女預言者というのが珍しいので、印象的です。旧約におけるメシア待望と、それがイエスにおいて実現したことを彼女も語っています。救いを待ち望む人々にイエス・キリストのことを話し伝えることは信仰者にとって祝福なのです。

 クリスマスが終ったからと言って、イエスさまについて口をつぐんでしまったら、祝福はありません。私たちはキリスト者として、精一杯イエスさまについて証しする責任があるのです。それにしてもこのクリスマスシーズンに、あらためて神の子イエス・キリストがこの世と神の国をつないでいてくださるお方であることを確かめることができるのは何よりも大きな恵みです。私たちの命はキリストの許にあります。『生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています』 と言い、また 『生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです』 と言った使徒パウロは、キリスト降臨の意味を本当によく分かっていたのでしょう。私たちもそのように信仰生活を生き抜きたいと願うものです。


 
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