2014.10.12

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「彼女の真剣さと信仰」

秋葉 正二

列王記上 17,8-24マタイによる福音書15,21-28

 旧約聖書を読みますと「外国人」のことが度々出てきます。「寄留の他国人」といった表現です。ヘブル語で表現される「外国人」には区別があります。大きく四つに分けてみます。 第一番目は「ザール」という語です。 英訳RSVを見ますとStrangerと訳しています。このザールで表現される外国人は、古代イスラエル社会では何の権利も許されません。それどころか、イスラエルに降りかかるあらゆる災難の主犯であるかのように扱われています。例えばイザヤ書1章7節にはこうあります。神の審判がソドムやゴモラのようにユダの国に下される場面です。『お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で 異国の民が食い尽くし 異国の民に覆されて、荒廃している。』 この場合の「異国の民」がザールです。ですからザールはイスラエルにとって恐るべき相手、敵対する外国人ということになります。

 二番目の外国人は「ノクリ」です。英訳ではForeignerです。ノクリは居住地とは無関係に、外国人のあらゆる特性を指す総称で、具体的な意味はこの言葉が用いられる状況により変化します。しかしイスラエル共同体の中では一般的に権利も特権もなく、排除されていたことは確かでしょう。元来は「混血」を意味する語のようです。この語が充てられる代表的な外国人は、カナン人・モアブ人・アンモン人などです。有名なルツ記の主人公のルツさんはモアブ人ですから、本来は彼女も排除される対象であることが分かります。

 それから三番目の外国人ですが「トーシャーブ」があります。この語は英訳ではStrangerにもForeignerにも訳されています。トーシャーブはイスラエル社会が一応受け入れていた異邦人ですが、権利に関してはかなりの制限が加えられていて、永住権のない居留民です。俗に言う居候みたいな存在で、法律的な地位や権利はありません。宗教的にも過越祭の食事では会食が許されません。そして最後の四番目の外国人が「ゲール」です。英訳ではStrangerが充てられることもあるのですが、大体はSojournerです。逗留者、滞在者という意味です。元々はイスラエル民族に属していたとか、相続権がない短期滞在者とかを指します。新参者を指す場合もあります。ゲールには権利が認められていまして、律法に基づく限りゲールはイスラエルと同等です。ですからゲールには律法や祝日などを守る義務があります。『あなた方と共にいる寄留の他国人を愛さなければならない』とか 『寄留の他国人や寡婦や孤児の審きを曲げてはいけない』 とかあるのは、大体ゲールです。そこで、大胆な言い方をしますと、旧約聖書はこれらの外国人、ザール,ノクリ,トーシャーブ,ゲールの歴史なのです。

 具体的にどういうことかと言いますと、ユダヤ民族と外国人・異邦人の関係が、恐るべき敵から大切にしなければならない仲間へと位置付けが変化して行く歴史なのです。神さまはイスラエルの民に、「お前たちはかつてエジプトで奴隷であった。そのことを忘れるな。私がお前たちを選んだのは、決してお前たちが強大な力を持つ民族だからではなく、小さいからだ」 と繰り返し語っておられますが、だからこそ、「お前たちの社会の中でかつてのお前たちと同じ位置に置かれている外国人ゲールを助けなければいけない」 と言われるのです。さて、きょうのテキストで私が最初に気になったことは、どうしてイエスさまは自分の娘が悪霊に憑かれて、治癒を必死に願って叫んでいるカナンの女性にすぐに応えなかったのだろうか、という点です。

 福音書の他の箇所では、イエスさまは治癒を願う人たちの求めを断っていることはありません。悪霊に憑かれた人も、目の見えない人も、死ぬほど苦しんでいる人も、誰一人無視されたことはありません。ところが、どうもこのカナンの女性だけは例外のようなのです。イエスさまは彼女に応えません。ですから弟子たちもいつもと様子がちがうぞ、ということで少々焦り出した雰囲気を私は感じます。「こんな女は早く帰した方がいい」と思ったことでしょう。それでもイエスさまは一切応えようとはされません。

 これには二つの理由が考えられます。一つは、彼女が女性だったからです。当時の習慣では女性は口数は少なく、あまり目立たないようにするのが普通で、イエスさまのような男性に直接治癒を願い出るとか、教えを乞うとかはしないのが一般的でした。もう一つの理由は、彼女がユダヤ人ではなくカナン人だったからです。創世記にはユダとシメオンがカナンの女性と結婚する記事がありますが、それは後に混血として軽蔑の対象となっています。

 とにかくイエスさまは何と言われたかといえば、“わたしはイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない” です。このお言葉を皆さんどういうふうに受けとめられますか?

 こうした表現によって、彼女がユダヤ人ではないために無視されていることを、そこにいた人たちにそれとなく気づかせたのではないでしょうか。他の箇所では、例えば死んでいる従者のために懇願するローマ兵の願いを拒んでいませんし、身体を痛めている人たちを助ける逸話は沢山あるのです。この場面で起こっていることはどういうことなのだろうといくつか注解書をあたってみたのですが、ある学者はただ単に「彼女の信仰心を試すためであった」と解釈しますし、他方では「弟子たちを悟らせるためであった」とあります。また、イエスさまといえどもここでは普通のユダヤ人のラビのような行動をとったと見做して、イスラエル人を中心に置く立場から出て来た態度だと推論する説もありました。

 とにかく、ハッキリしていることは、当時外国人や女性が、ユダヤ人によって日常的に無視されたり侮辱されたりしていたということです。で、はたと思い当ったのですが、ここで提起されていることは現代でも同じだということです。21世紀の現在にも、多くの外国人、とりわけ3K労働に従事する移住労働者や女性には、イエスさま当時と変わらない社会的、経済的不平等の現実があるということです。イエスさまが彼女に関心を払わず、まるで目に入らないかのように振る舞われたのは、何かを暗示されたのではないでしょうか。マイノリティーとして生きざるを得ない人たちの現実を、私たちにも推察がつくように促されたのではないでしょうか。彼女はそれでもイエスさまの足下にひれ伏して、大勢の人たちに施したような助けをくださるように繰り返し願っています。しかしそれでもまだイエスさまの返答は、“子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない” でした。当時のユダヤ人は自分たちだけが神の子だと思い込んでいて、自分たち以外の人は、まるで犬のような不潔な外国人として扱っていた様子が分かります。犬を出しに使われるのは愛犬家としては憤懣やる方ないのですが……。

 イエスさまの発言をストレートに取れば、マイノリティーの立場からするとかなり差別的に映ったことでしょう。でもこのカナン人女性はそんなことに負けてはおりません。自分の娘を心から愛していたので、必死なのです。彼女の心の中には、イエスさまならば必ず願いを受けとめてくださるといった理屈ではない確信があったのかも知れません。イエスさまの中に、物事を眺める視点を変えてくださる秘められた力を感じ取ったのでしょう。ユダヤ人という神から選ばれた人たちだけでなく、すべての人が神さまの祝福に与ることができる、ということを確信して彼女はイエスさまに食い下がっています。この彼女の稀に見る真剣さと信仰心をイエスさまは認められます。

 イエスさまが性別や人種や地域といった大きな差別の障壁を取り除くことができる、という確信をなぜかこの女性は持っているのです。どうしてカナン人女性がそのような確信を持てたか分かりませんが、信仰に関係していることは確かでしょう。とうとうイエスさまは彼女の信仰を認められました。つまり神と人間との関係は、国や人種や性別による制限などはない、ということを、彼女の信仰を認める形で宣言されたのです。この女性の名前は記されていません。もしかすると娘を抱えて生きる寡婦かも知れません。どんな境遇であろうと、自分の娘を心底愛し、深い信仰心を宿すところに不可能はないことをイエスさまは保障されました。この女性の信仰のように、私たちキリスト者も差別を覆すべく、この世への挑戦を始めたいと願うものです。


 
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