今年も「平和聖日」を迎えました。平和思想は古代からあり、その「平和」とは、ある時代のある地域の秩序が安定して保たれている状態、つまり戦争がない状態を意味しました。戦争になれば必ず悲惨な光景が現われます。その悲惨を味わうのは戦争に負けた敗者の方です。日本も太平洋戦争に負けていろいろな悲惨を味わいました。しかし勝者アメリカの方はどうだったでしょうか? 戦争に勝ってしまうと、戦争も平和を維持する手段の一つだ、と思い始めるのではないでしょうか。
アメリカ合衆国が、自分でもコントロールできない程世界一の軍事大国になってしまったのは、これまで経験した戦争にすべて勝利してきたからです。戦争に勝ち続けると、その国は高慢になってゆきます。アメリカがキリスト教国で、聖書を読む人々が多数存在することがまだ救いです。アメリカのキリスト者の中に、聖書から「平和は軍事力によらない」と学んだ人たちがいるのです。少なくとも聖書に触れれば、誰でも一度は軍事力によらない平和を考えざるを得ないからです。もちろん聖書を読んでも軍事力により平和を維持する考え方から抜け出せない人もたくさんいます。しかし少なくとも、軍事力によらない平和の考え方に触れるのです。
「ローマの平和」という言葉があります。これは周辺の敵をやっつけて屈服させてきた勝者の言い草です。少なくとも他民族や他国との間で、戦争を手段とせずに共存する平和を求める発想はここにはありません。旧約聖書には「万軍の主」という表現が沢山出てきます。あまりに沢山出て来るので、私などはこの表現に出会う度に抵抗感を覚えます。
「万軍の主」はあくまでもイスラエルを中心とした秩序、つまり平和の維持者としての神様を表現していますが、それは周囲の敵との戦いに勝利することが前提です。たとえばダビデ王はイスラエルの英雄ですが、なぜ英雄かと言えば、彼は戦争の勝利者として平和を維持するために神により立てられた王だから英雄なのです。古代イスラエルの預言者たちにももちろんそうした考えが土台としてあったでしょう。でも預言者の中には、そうではない「平和」を追求した人たちがおりました。イスラエルを中心とした排他的な民族主義的な平和ではない平和を追求する人たちが現われたのです。これは聖書の深くて凄いところだと思うのですが、その代表的人物の一人がアモスです。
アモスは、北王国イスラエルで預言活動をした人物です。その預言があまりに激しいので、最終的には祭司長により王国への反逆罪で追放されました。きょうのテキストの前の部分、1章2節以下からの記述を見ますと、小見出しにあるように、「諸国民に対する審判」がずらずらと語られています。彼の鋭い舌鋒は、まず近隣諸国に向けられました。アラム、ペリシテ、フェニキア、エドム、アンモン、モアブが順々に取り上げられます。それらの諸国はまったくの異国ということではなくて、いわばイスラエルの同胞諸国です。アラムの先祖はヤコブの叔父ラバンですし、エドムはヤコブの兄エサウです。つまり古くから関係の深い国々なので、本来は仲良く友好関係が築かれていて当然なのですが、実際は争いが絶えないという関係です。そのことを意識しながら、アモスはそれら同胞諸国に厳しい預言をぶつけて行きます。その言葉は非常に民族主義的な色彩を帯びた審判預言ですが、アモスは祭りに集まった人々に向かって、イスラエルに敵対する近隣諸国をまず呪ったのです。そこまでで預言が終わっていれば、イスラエルの人々はおそらく自分たちの民族意識を掻き立てられたままで、ますます近隣諸国に対立感情を露わにしたことでしょう。
しかし、アモスはきょうのテキスト2章4節から、あろうことか審判預言の矛先を南王国ユダと北王国イスラエルに向けたのです。つまり同胞への罪の列挙です。しかもアラムからモアブまでの六つの国と南王国ユダに対しては、「三つの罪、四つの罪のゆえに私は決して赦さない」と言っていますが、そこで指摘されている罪はそれぞれ一つだけです。ところが、2章6節に来て、当の北王国イスラエルへの批判となると、「三つの罪、四つの罪のゆえに」という言い方は同じですが、中身はなんと七つの罪の指摘です。それらの罪こそ、神がこれまでイスラエルに与えられた数々の恵みに対する忘恩ではないか、と言うのです。だから、イスラエルに対する神の審判は逃れられない程の厳しいものだぞ、と結論します。
アモスの偉さは同胞に向かって最も厳しい預言をぶつけた点です。これは同胞に対する強烈な悔い改めの勧めでしょう。敵をくさしたり攻撃したりすることは誰でもやります。しかし、自分が排除されてしまう程の強い言葉で同胞の罪を指摘する人は少ないでしょう。ドイツは戦後東西に分割されましたが、大戦中に犯したナチスの罪を自らの罪として、徹底して悔い改めました。そのために法整備をし、機会あるごとに悔い改めを具体的な形で表明してきました。その姿勢をヨーロッパ諸国は評価して、ドイツをまた仲間として認めたのです。結果、東西の壁は壊され、ドイツは再び一つとなることができました。のみならず、今やEUという壮大な実験の中で、ヨーロッパ連合の中心です。
それに比べると、私たちの国はどうでしょうか? かつて植民地にしたアジアの国々に心からの謝罪をしたでしょうか? アジアの国々へは戦後いろいろな形で多額のお金を回して来たことは確かです。それを一定評価してくれる国もあります。しかし最も迷惑をかけた隣国に対しては、心からの謝罪がなされていないのです。戦争が勃発するには前段階の様々な出来事が複雑に絡み合って開戦の火ぶたが切って落とされます。太平洋戦争においても開戦前夜の諸事情がいろいろな角度から研究されています。その研究結果がどうであれ、軍靴の音を響かせて他国の領土を占領していった事実は覆いようもありません。とりわけ半島全部を植民地化された南北朝鮮や、満州国という傀儡国が建設された中国にとっては、戦後の日本の歩み方はずっと気になっていたはずです。 良心的な人々は悔い改めの言葉を口にし、心からの謝罪をしてきました。しかし、政治家の中には未だに心の中で、「あの戦争は日本が悪いのではない」「植民政策の中で沢山のよい事も行った」とうそぶく人たちがいるのです。
これは神の前に立たされた人間としての悔い改めの問題です。少なくともアモス書のような人間の生き方を鋭く問う書物をこの国の人々が持っていたら、戦後の日本の歩み方は少しは違ったものになったのかも知れません。本日は日本基督教団の「平和聖日」です。私たちは先程「戦責告白」を一緒に読みました。戦責告白が問うているのは、この国の、また私たちキリスト者の悔い改めの問題です。戦責告白が出された1967年の時点で、既にこの国が、またこの国のキリスト者が、悔い改めないまま進み行く姿を見て取った人たちが、鈴木教団議長をはじめいたのです。
この視点は聖書から導き出されたものです。 アモス書と共に読んだルカ福音書の6章には軍事力による平和維持という考え方を拒否するイエス様の言葉が記されていました。敵への憎悪を扇動し、その敵に勝る軍事力を持つことによって自らの平和を得ようとする発想から、私たちは抜け出す必要があります。イエス様は『頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい』と言われました。敵とは一体誰なのか? 中国でしょうか、韓国でしょうか? 敵を問い直すことは味方を問い直すことに通じます。私たちが無条件で前提としている平和の根拠を、イエス様は問うていらっしゃるのです。イエス様は、自己満足ではない真の平和を考えなさい、とおっしゃっておられます。力による平和の対極にあるイメージを膨らませていきましょう。ボンヘッファーが指摘したように、宗教としての新しいキリスト教ではなくて、新しい生に向かって歩んでまいりましょう。