イエスさまが語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」から学びます。最初にこの譬え話の位置づけを申しますと、イエスさまのエルサレム入場後、即ち最後の一週間の三日目にエルサレム神殿内で行われた五つの論争物語の中に挟み込むように置かれていますので、受難という大きな枠組みの流れの中にこの譬え話が位置づけられていることを確認しておきたいと思います。
ストーリーを要約すると、こうなります。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して旅に出ました。収穫時期になったので、地主でありぶどう園主であるオーナーは一人の僕を送って、収穫の分け前を取り立てさせようとします。しかし農夫たちはその僕を袋叩きにして、手ぶらで返すのです。そこでオーナーはまた他の僕を送るのですが、僕は殴られたり殺されたりします。更に何人も僕を送りますが、同じような目に遭わされます。とうとう最後にオーナーは最愛の一人息子を使いに出しました。すると農夫たちはぶどう園という相続財産を得るために、この跡取りをも殺してしまうのです。そこで、ぶどう園のオーナーは酷いことをした農夫たちを殺して、ぶどう園を他の人々に与えるだろう、というのがイエスさまの話の結論です。
農夫たちは最後に遣わされた一人息子を殺してしまうのですが、オーナーを神様と考えれば、最愛の一人息子とはイエスさまのことでしょう。その神様の最愛の息子を殺してしまうのですから、神様は農夫たち、つまりイスラエルの民を滅ぼして、その地を他の人たちに与えるにちがいないと9節に書かれています。マルコ福音書を読んだ、初代の教会の人たちは、こうした表現からローマ軍によるエルサレム滅亡と占領・破壊を現実として読み取ったかもしれません。
さて、農夫は小作人とも訳されます。小作人と言えば普通は必ず対立的に地主が登場するわけで、話の背景に地主と小作人の争いがあったと捉えることは可能です。実際当時のパレスチナ、特にガリラヤには外国にいる不在地主が所有する土地がかなりあって、その土地を耕す小作人が現地で雇われるという図式がありました。しかしこの譬え話では、地主の搾取に苦しんで怒りに燃えた小作人たちの反乱を描くのが目的でないのは明らかですから、言わば、そうした社会背景を借りて、暗にイスラエルの指導者たちに虐待された旧約の預言者たちに言及しているのでしょう。ですからこの譬え話は、最高法院を構成していた議員たちに対しての当てつけとして語られたものと考えられます。12節を見ると、イエスさまの話を聞いた例の祭司長・律法学者・長老たちは、この話が自分たちに当てつけられたものだと気づいたので、イエスさまを捕らえようとしたけれども、群衆を恐れてイエスさまを残して立ち去った、とあります。また、外国の地主と言えば、異邦人を連想することもできます。神様の言うことを聞かないユダヤ人よりは、素直に神様の言葉に耳を傾ける異邦人の方に神様の憐れみ、恵みは向けられている、といった初代の教会の発想も含まれているかもしれません。他にもいろいろ考えられることがあるのですが、まずはこうしたことを頭の隅に置きながら、譬え話の意味を探って行くことにします。
一言でいえば、この譬え話はイスラエル民族の信仰の歴史に関わっています。何故かと言いますと、ぶどう園はイザヤ書5章1-7節にある「ぶどう畑の歌」と同じようなイメージで描かれているからです。イザヤ書の構成に従えば、狭い意味では、ぶどう園はイスラエルを表わし、農夫は宗教指導者たちを表わします。もう少し広い意味にとれば、この世は神様のぶどう園であり、農夫たちはそこに生きる人々、ということになり、遣わされた僕たちは旧約の預言者、ひとり息子とはイエスさまということになります。旧約の歴史を振り返って見てください。神さまはイスラエルの民を選ばれましたが、彼らは選民の責任をおろそかにして神様に反逆しました。預言者とはそのイスラエルに警告を与え、救いを確かなものにするために遣わされた人たちです。ぶどう園のオーナーが遣わす僕は、奴隷と訳される言葉ですが、遣わされるのは預言者ということになるでしょう。しかしイスラエルはその預言者たちの言うことに耳を傾けませんでした。にも拘わらず神様はイスラエルと人類を愛して、ひとり子キリストを地上に遣わされました。つまり、旧約の時代は預言者たちによりいろいろな方法で先祖たちに語られたけれども、今は御子イエス・キリストによって私たちに語られているのだ、という理解がマルコ、あるいは彼が所属する初代の教団にあったと思うのです。祭司長や律法学者に代表される人々が、私たちの信じるキリストを殺したのだ、もしかすると我々の心にもこの悪い農夫が巣食っていて、キリストを追い出して、彼を捨てて殺そうとしているのかもしれない……そういう受難に関わる思い、預言とも呼ぶべきものがこの譬え話には込められています。10節には『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』と詩編118編から引用した象徴的な言い回しがあります。ご存じのように、隅の親石というのは、日本建築で言えば大黒柱のようなものです。家を建てる場合に一番重要な位置を占めていて、建築の際の基準となる角石です。引用された詩編の句の意味は、大工さんたちがこれは不用だと判断して捨てた石が、実は最も重要な角の基準の石であった。これは神様がそのように用いられたのであって、人間の理解を超えたことであった、ということです。
もう少し突っ込んで言えば、これは著者マルコの「譬え話」理解に関わってくると思うのですが、「譬え」というものは本来分かりにくいことを具体的に説明しようとする教育的な助けではなく、神様について何かを伝えようとすれば、譬えによるしかないのだ、というマルコ自身の理解が表明されているようにも思います。「譬え」として語られたことに対して、それを聞く者がイエス・ノーをはっきり表明して、みずからその中に身を投ずることによってのみ、その「譬え」の内容は理解されます。別の表現をすれば、聞く者の明確な信仰・不信仰によって、本来の内容理解の可否が決まるのだということです。つまり、真理を分からせてくれるのは信仰をおいて他にはないのです。私たちの人生にとって、イエス・キリストはこのようなお方として存在されておられることが分かります。イエス・キリストは私たちの人生の大黒柱、隅の親石なのです。私たちの人生の基準はこのイエス・キリストであり、私たちは彼によって導かれ、彼によってのみその本来の生涯をまっとうすることができます。人の目には不思議に見えるとしても、神様がそう定められたのです。なぜなら神様は歴史を導かれるお方だからです。
さて、最初にイエス・キリストの受難という大きな枠組みの流れの中にこの譬え話が位置づけられていることを確認しておきたい、と申し上げました。このイエスさまの受難に関して譬え話のどこが関わるかと言いますと、オーナーの最愛の一人息子の殺害の出来事でしょう。愛する息子の殺害は、イエス・キリストの十字架による殺害に重なります。ぶどう園が他の人たちに与えられるというのは、先ほどちょっと触れましたが、イエス・キリストを信じる者に、十字架の死とそこからの復活から神様の人類救済計画が実現するということです。「他の人たち」という表現が異邦人を示唆するのであれば、私たちは間違いなく異邦人の一人ですし、教会こそ異邦人世界に広がった信仰共同体という世界です。きょうは受難節の第2主日ですが、イエスさまの十字架と復活がどんなに深く私たちの人生に関わっているのかということに、皆様と一緒に思いを馳せたいと思います。祈りつつ、受難節の歩みを続けてまいりましょう。