2014.1.5

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「行く手には光」

秋葉正二

イザヤ書60,1-3; ヨハネの黙示録22,16

 黙示録の一節から学びます。黙示録については皆さん大体のことはご存知だろうと思います。黙示文学という象徴表現の多い、そのままでは文意をつかみにくいジャンルに属している新約聖書唯一の文書です。きょうはこの書物が、アジア州の諸教会が殉教の危機に直面している時、激励のために書かれた文書であるということと、そのために主イエス・キリストの恵みを教会員たちのために祈る内容を持っているということだけを心に留めておいてください。

 せんだって私たちはクリスマスを祝いました。キリストの生誕物語をお読みになったと思いますが、そこでは遠く東の方から占星術の学者が旅をして、夜誕生したイエス様にまみえます。また真夜中、羊の群れを守る羊飼いに光である救い主の誕生が告げられました。クリスマス物語では、どうも夜が重要な役割を果たしているようです。光と言えば、私はすぐ創世記の創造物語を思い出します。創造物語では神様が「光あれ」と言われて、光と闇とを分けられています。光は昼で闇は夜と呼ばれるのですが、その後に『夕べがあり、朝があった』と書かれているのがとても興味しろいですね。普通私たちの感覚では、「朝夕」という表現があるように、一日は朝の夜明けから始まって、昼を過ごして、日没から夜に至る、というのが一般的だと思うのですが、聖書は冒頭から夕から朝へという順番ですから、ちょっと捉え方が異なります。夜はすっかり闇に包まれてしまいますから、私たちは活動はせず大体眠ります。とにかくそんな調子で毎日を送っています。

 一日のこうした捉え方は、私たちの生涯にもあてはめることができそうです。人間は赤ちゃん・幼児期・青年期という言わば若さから始まって、元気な最盛期を過ごします。若い時は朝でしょう。一番元気な活動期は昼です。そして黄昏の夕べを迎えます。そこから先は夜、闇に包まれて行きます。まァ、老齢期があてはめられます。闇に包まれて生涯が閉じてしまうわけですから、そこから先はどうなってしまうのだ、と心配になりますから、闇は嫌われます。日本人の一般的な人生観には、こうした捉え方があるのではないでしょうか。でも聖書は、「夕べがあり、朝があった」です。とすると、多くの日本人が持っている人生観とは異なる人生観が聖書にはあるらしいと考えられます。

 これを裏付けるようにユダヤでは一日は夕べから始まります。イエス様が十字架につけられた記事を思い出してください。イエス様は金曜日の昼過ぎ、午後3時頃に息を引き取られました。金曜日は翌日の安息日の準備の日です。夕方から一日が始まりますから、夜まで、つまり安息日に入ってまでイエス様の遺体を十字架につけておくことはできません、とユダヤ人たちはピラトに申し出て、遺体を十字架から降ろす許可を得ています。

 話を夕と朝に戻します。つまり一日を人生に例えると、ユダヤではまず夕べに向けて、夜・闇の方に向けて進んで行くということになります。これは、人間はすべて老年に向かって進んで行くことに目を向けなさい、そこから人生というものが見えますよ、ということになるのかもしれません。先ほど引用した創世記の創造記事では、神様によって二日目・三日目と創造の業が進められて行くのですが、必ず終わりに、『夕べがあり、朝があった』 と付け加えられています。夕べに向かって、つまり私たちの生涯は必ずそこへ向かって位置づけられているけれども、夜に入って闇になっても終わりではないですよ、というメッセージが、「朝があった」という一言で約束されているのではないかと思うのです。夕べの次には必ず朝が来ることが神様の私たちの人生への約束なのです。

 日本には「一寸先は闇」という諺があります。ちょっと先のことだって、私たちには分からない、どんな禍が降ってくるか分からないという不安を表現した言葉だと思いますが、聖書の神様は 「夕べの次には朝があるよ」 と約束してくださっている神なのです。これを私たちの信仰の表現で言い表すと、「すべての時は神様の御手のうち」ということになります。過去も現在も未来も、実は主なる神様の導きの中にあり、私たちが進んでいく先々に神さまは光を備えてくださる、ということです。どうも日本人の多くの人たちは人生の終末は死ですべて終わり、と考えているのではないかと思われてなりません。聖書はそうではありませんよ、と私たちに呼びかけてくれています。

 人間50歳を過ぎる頃から、家族や周囲の友人たちの中に、亡くなっていく方が少しずつ多くなっていく現実に出くわすようになります。親が死に、叔父や叔母が死に……近頃は癌で50代、60代で亡くなる方も目立ちます。私たちはキリスト者として、自分の死が迫った時、どういうふうに処するのでしょうか。新年早々死ぬ話なんか聞きたくないと思われるかも知れませんが、救い主の誕生には既に十字架の死がつながっているのです。

 前任地の砧教会はこの2,3十年の間にすっかり高齢化教会になってしまいました。日本の多くの教会が同じ状況を抱えているとも言われます。実際、私が過ごした10年間の中で20人ほどの方々が召されたり、癌にかかったりしました。私も一昨年前立腺癌の手術を受けまして、自分の死のこともかなり考える良い機会を持てました。私は、高齢化という現実は、キリスト者がその信仰を証しする良いチャンスだと思っています。高齢化して行く現実を多くの人は闇の中に入って行くように感じているかも知れませんが、「黙示録」の著者は光である主イエス・キリストを「ダビデのひこばえ」「輝く明けの明星」だと言っています。「黙示録」は迫害の時代の文書ですから、必然的に闇とか夜とかの記述が多くなりやすいのですが、イエス様は「輝く明けの明星だ」 と力強く述べているのです。使徒パウロも「ローマ人への手紙」で『夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう』と勧めています。これは終末論的な言い方ですが、救いが近づいていることを迫害の現実の中にある人たちに確信してもらいたい、というパウロの願いが込められた言葉だと思います。迫害という闇の中にも朝の光である主イエス・キリストへの希望が確実にあるのだという、パウロの信仰的確信でもあります。きょうは顕現主日ですが、私たちキリスト者は今、「明けの明星」を仰いでいます。この一年も主イエス・キリストへの希望をつないで歩む一年にしたいと心から願って祈りたいと思います。

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