I
天使が羊飼いたちに救済者の誕生を告げたという物語は、今朝、世界中の教会で朗読されていることでしょう。ベツレヘム近郊の野原で、寝ずの番で放牧されている羊たちを守るという重労働をしていた人々を天使が訪れて、ダビデの町に救済者が誕生したことを告げ、彼らは生まれたばかりの赤ん坊を見に行ったというストーリーです。
マタイとルカによる福音書では、イエスの誕生物語に天使が登場します。マタイ福音書の天使は、マリアの夫ヨセフの夢に現れて、妻と息子イエスを守るための指示を必要に応じて的確に与えます。
他方、ルカ福音書では、天使ガブリエルが登場します。まず洗礼者ヨハネの父ザカリアに現れて、息子の誕生を告知し、次にはナザレの少女マリアに現れて息子イエスの誕生を告知し、今度はベツレヘムの羊飼いたちに現れて救済者の誕生を告げます。野原の場面の天使は「ガブリエル」と名指されませんが、おそらくそうなのでしょう。
皆さんは、天使を見たことがありますか? 私はありません。伝統的にキリスト教文化が強い地域では、そうした事例はあるかもしれません。私の知っている学生さんに、米国の伝統的にプロテスタントが強い地域の大学に留学したことのある人がいます。彼女が当地の日本語学科の学生たちに、日本語を学び始めた理由を尋ねると、約半数が「神さまに言われたから」と返答したそうです。「神さまに言われたから」という言い方は、「天使に言われた」ということに近いような気がします。
II
さて、私たちの物語は、旧約聖書に出てくる天使顕現の物語の類型に合わせて造形されています。まず天使が出現し、それに接した人間が恐れ、次に天使が「恐れるな」と言った上で、顕現の理由を告げるというパターンです。
私たちの物語でも、光を放ちながら現れたガブリエルは、羊飼いたちに「恐れるな」と言った上で、イエスの誕生が何を意味するかを告げています。
そのとき先ず、ガブリエルは「私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(11節)と宣言します。「告げる」と訳されているのは、「福音」という名詞と同根の動詞で、「福音を告げる」という意味です。つまり「大いなる喜びの福音を告げる」。内容的には、イエスの誕生を指しており、「福音」が単なる理論や現実記述ではなく、できごとであることが分かります。
「民全体に与えられる」とあるときの「民」は、通常はイスラエル民族を指す表現ですが、この文脈では「人々すべて」というほどの一般的な意味でしょう。イエスの誕生が「万人」に喜びと幸福をもたらすできごとだというわけです。
続いてガブリエルは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げます。「救済者」という称号と、「主メシア」――ギリシア語原文は「主なるキリスト」――という称号の二つが、イエスに帰されます。後者については、同じ著者ルカが使徒言行録で、人々が「十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またキリストとなさった」(使2,36)と述べていることが参考になるでしょうか。その場合、イエスが「主」にして「キリスト」であることには、彼の死と復活の運命が含まれます。そしてベツレヘムは、その子孫からメシアが誕生すると信じられていた「ダビデの町」でした。
III
ここまで話せば、やはりローマ皇帝アウグストゥスについてふれざるをえません。以前にもご紹介したことがありますが、小アジア、現在のトルコのエーゲ海沿岸にあるプリエネという古代都市の遺跡から、紀元前9年に発布された暦についての勅令に関する碑文が発見されました。小アジアの諸都市が、アウグストゥスの誕生日である9月23日を「一年の最初の日」とすることに決めたことについて述べたものです。その一部をご紹介します。
「摂理」「救い主」「「平和」「福音」「神の誕生日」等々、新約聖書のクリスマス物語にあっても不思議でない言葉がたくさん含まれています。つまりこれらのタームは、もともとローマ帝国の皇帝神学のヴォキャブラリーだったのです。
したがって天使ガブリエルの言葉は、アウグストゥスではなく、むしろローマ帝国によって無残にも虐殺され、しかし神によって新しい命へと起こされたナザレのイエスこそが世界の救済者だ、彼の誕生こそが真の福音だと告げているのでしょう。
IV
しかし続いて天使が提示する、この真の福音の「しるし」なるものは、ひどく小さなものです。彼はあろうことか、「布で巻かれて家畜小屋に横たわる赤子」がそうだと言うのですから。これは貧民の夫婦から生まれた、じつに小さな命です。年老いた女性の妊娠を通して洗礼者ヨハネが誕生する、あるいは若い女性が処女懐胎する、とかいった奇跡的できごとと比較して、ほとんど「アンチしるし」と言うべきものです。
しかし教会学校の降誕劇で、子どもたちが演じるヨセフとマリアの夫婦が、小さな赤ちゃんのお人形を大切そうに抱きかかえている姿を見れば、これこそが平和のしるしだと感じます。
羊飼いたちは――眠っている羊たちを叩き起して移動させたのでしょうか――ベツレヘムの町まで出かけてゆき、家畜小屋で最初の子どもを生んだ夫婦をついに発見したとあります。平和の「しるし」は、探さなければ見つからないものなのでしょう。そして見つかるのは、ほとんどしるしとは言えないほどの小さなできごとです。それでも、それが平和と福音を告げています。
V
天使ガブリエルが伝える「しるし」には、しかし、もう一つの要素――天使顕現の伝統的な図式には含まれない、新しい要素――が加わります。天の軍隊の大群が、神を称えて歌う歌がそれです。ユダヤ・キリスト教の伝統では、天使の重要な役割が神への賛美でした。
預言者イザヤが幻のうちに見た、セラフィムたちが神を称えて歌う歌です。
さらにヨハネの黙示録では、幻視者ヨハネが「ここへ昇ってこい」という天からの声によって一瞬のうちに天上界に引き上げられて、神の玉座を見ます。そのまわりにいる4つの生き物――それぞれ獅子、雄牛、人間のような顔、鷲のような姿をしている――は6つの翼をもっていて、その表と裏には目がたくさん着いている。その異形の存在たちが昼も夜も神を称えて、こう歌います。
これに対して、ガブリエルもそこに加わった私たちの天使の軍隊は、次のように歌います。
先に紹介した二つの天使の歌と比較して、この歌の特徴は、神のことだけでなく、人間のこと・地上のことも歌われている点にあります。
そのさい、「栄光」は――ローマ皇帝ではなく――ただ天にいます神にあれ、そして地にあって「平和」は――ローマ帝国が軍事力によって作りだす「平和」とは異なり――マリアやヨセフ、また羊飼いのように、天使のお告げに従って歩む者たちにあれ、という意味だと思います。
ギリシア語の原文は定冠詞も動詞もない詩文で、そのまま訳すと以下のようです。
もしかすると、「また地上で」を前半にかけて、
と読むことができるかもしれません。つまり、ベツレヘムの小さな赤ん坊は、天における神の栄光の地上における顕現であり、このことを敬い尊ぶ人々の間に平和が実現するだろう、と。
VI
ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースの作品に『ベルリン――天使の詩』(1987年)というものがあります(原題Der Himmel über Berlinは「ベルリンの上の空」の意)。台本は作家のペーター・ハントケが書きました。
この作品には、2人の天使が登場します。長いオーバーコートを着た中年のおじさんたちで、背中にうっすら羽が見えることもありますが、とにかく地味で無口です。突然の町の広場に立っている黄金の天使の塔の上に立って、下を見下ろしていたりするので、肉体をもたない無重力な存在なのでしょう。彼らは当時、東西に分裂していた都市ベルリンに降り立ちます。
二人の天使の名はダミエルとカシエル。彼らの役割は、ひっそりと人々に寄り添い、その心の声に耳を傾けることです。いろいろなドイツ語が聞こえてきます。天使は、幼い子どもには見えるのですが、大人には見えません。人々は天使の臨在に気づかないのです。そしてさまざまな不安や絶望の中にある人々の肩に優しく手を置いて、その耳に生きる勇気を吹き込みます。これが永遠に生き続ける存在である天使の役割です。
天使たちは人間をたいへん愛しています。――ダミエルは、死すべき人間と共に生きることを望み、不死性を放棄して人間になるという決意を友人カッシエルに告げます。そして中世風の甲冑と共に――神に仕える天の軍隊の一員であったことのしるしでしょう――この世界に落ちてきます。そしてトルコ語なまりのドイツ語を話す、サーカスのブランコ乗りの女性についに自分の姿を見せて、恋をするというお話しです。
まるで、〈人を愛するあまり、神はついに死すべき人になった〉という受肉の神学を、天使の姿に託したかのようです。
天使の重要な役割に「神の世界支配」の執行機関としての役割があります。この点に注目して、ある学者は天使論の著作に「天の官僚たち」というタイトルをつけました。天使が「軍隊」のイメージで捉えられるのも、彼らが神の統治権力の執行者だからです。
そういうわけで、私たちのクリスマス物語のメッセージは、〈神は、天使たちに支えられて、貧民の子どもとして生まれた神の御子キリストを通して、世界を平和のうちに統治する〉というものです。
教会学校の子どもたちが歌う賛美歌が告げていることの中身は、とてつもなく大きいと感じます。