I
学生に「クリスマスに来るのは誰でしょう?」と尋ねると、およそ半数が「サンタクロース」と答えるような気がします。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という洗礼者ヨハネがイエスに差し向けた問いは、――サンタクロースのことはさておき――真剣に問われてしかるべきです。「来るべき者」とはどのような存在であり、それは誰であり、またどのような意味でその人の到来が福音なのでしょうか?
一般的なこととして、「これが真理だ」「本物の権威だ」と主張されるとき、「その証拠は何ですか?」という問いが返ってくることがあります。そして「これが証拠です」と何かを見せたとき、「そのまた証拠はありますか?」と、問いが繰り返される可能性があります。つまり堂々巡りです。
では、真理や権威などというものは、まるっきりない方がよいのでしょうか? まったくの相対主義こそが最善なのでしょうか? この問いに、躊躇なく「そうだ」と答えるのは難しいと感じます。人はまったく何の価値観ももたずに生きることはできません。じっさい世界には、価値観の違いから生まれる意見の対立や論争がたくさんあります。キリスト教会にとって、イエスが「来るべき者」であるのかどうかは決定的に重要です。
クリスマス礼拝を来週に控え、マタイのテキストを手がかりに、そのことをごいっしょに考えてみましょう。
II
イエスの返答は、自らの奇跡行為を指示しつつ、約束の時はいま成就したというものです。そこには、とりわけ以下のような預言書の言葉が響いています。
そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。(イザヤ35,5-6)
その日には、耳の聞こえない者が 書物に書かれている言葉をすら聞き取り 盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い 貧しい人々は イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。(同29,18-19)
しかしイエスの言葉にあって、預言書にはない新しい要素が二つあります。重い皮膚病の人の癒しと死者の復活です。レプラ罹患者の癒し、死者の蘇生はイエスに固有な奇跡行為です。イエスは、かつて預言者を通して語られた約束をはるかに超えることが実現している、と言いたいのでしょう。
さらに、イエスの発言には、かつてイスラエル民族の救済とワンセットにして語られることの多かった、周辺の異民族への処罰について言及がありません。
最後に述べられる「貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉は、全体を総括するものとして、この位置に置かれています。
III
「私につまずかない人は幸いである」(6節)とイエスは言います。この発言は意味深長です。「イエスが来るべき者である」ことを証明する完全無欠の証拠はこの世界に存在しない。イエスを信じないことは相変わらず可能なのです。
「貧しい者に福音を告げる」人々は今も存在します。しかし徹底した清貧に生きたマザー・テレサですら、世間の疑いの目を免れることはありませんでした。彼女の運営する孤児院に、税務調査が入ったことがあるからです。
イエス自身も、「罪人」たちとの共同の食事について、当時の人々からこう罵られたと伝えられています。
人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と〔人々は〕言う。(マタイ11,19)
しかし考えてみれば、イエスのことなどどうでもよい人が、彼につまずくことは最終的にはありません。あるいはイエスをイデオロギー的に「神」にまつりあげる原理主義者たちが、イエスにつまずくこともありません。彼らにとってのイエスは、自分の正しさを常に保証してくれる存在だからです。
イエスに真の意味でつまずくのは、洗礼者ヨハネのように、イエスに向かって「あなたが来るべき方ですか」と問いかけ、イエスから「これをごらん。君は信じるか」という問い返しを受けとる人たちです。
その意味ではイエスは、私たちにも問いかけています。イエスの周りで起こっていること――視力の回復、肢体不自由の回復、穢れからの清め、聴力の回復、死者の蘇生、貧者への福音宣教――を、君は何だと言うのか?
私たちは何と答えましょう。〈いかさま宗教の客寄せプロパガンダではないか〉〈上から目線の独りよがりの慈善行為、結局は偽善ではないか〉という疑いを、完全に払拭することはできません。「約束されたものの実現」というメッセージは、いつもアンビヴァレントなのです。
イエスの発言の特徴は、「君がそうなのか?」という問いに対して、「私がそれだ」と答える代わりに、「私を通して生じているできごとを見よ」と言う点にあります。
わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(ルカ11,20)
「神の国」はイエスの「わたし」ではなく、「あなたたち」と結びあわされています。イエスと共に神の国が到来したのかどうかは、悪霊を追い祓ってもらった人の経験に委ねられています。
IV
続いてイエスは、かつての師である洗礼者ヨハネについて発言します。そのさい「王権」と「神権」の二つが、発言の根底にあります。真理と権威が問題だからです。
まず「王」について、イエスはとても微妙な発言をします。
あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。(7-8節)
「荒れ野へ行く」とは、文脈的には、洗礼者ヨハネがヨルダン渓谷で行っていた活動を見に行くという意味でしょう。「荒れ野」は、イスラエル民族のアイデンティティが危機に晒されていた時代、かつてヨルダン川を渡って約束の地に入った、それ以前の状態にいったん立ち返り、もう一度自分たちを確かめるための場所でした。
ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、イエスの登場より少し後の時代、多くの預言者が現れて民衆を扇動し、「荒れ野」に導いたと報告しています。そして、そのつど民族の王やローマ人の支配者たちは、彼らを殲滅しました。使徒言行録には、エルサレムの神殿警備に当たっていた千人隊長が、パウロに向かって投げつけた言葉が記されています。
お前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。(使徒言行録21,38)
これは〈お前はテロリストか〉という恫喝ですね。荒れ野に行く人々は、現体制に満足していません。そして、そのような人々は支配階級から見ると「反乱者」「暗殺者」に他なりませんでした。
イエスは、「風にそよぐ葦」や「しなやかな服を着た人」ならば、荒れ野ではなく、「王宮」にいると言います(原語は「王たちの家々」、つまり離宮や別荘も含む)。
「しなやかな服」はともかく、「風にそよぐ葦」とは何のことでしょうか? じつは、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスが彼の治世の間に鋳造させた貨幣に、支配者である彼自身の肖像に代えて――いちおうユダヤ人ですので偶像禁止に配慮して――、ガリラヤ湖半に繁茂する葦が風になびく紋様が刻印されています。
古代社会にあって、貨幣は権力者によって格好の宣伝媒体でした。アンティパスはガリラヤ開発に力を入れた人です。彼は王族の生まれですが、ローマ育ちです。新しい首都をガリラヤ湖畔に建設し、皇帝にちなんで「ティベリア」と名付けました。漁村マグダラをガリラヤ湖でとれる魚の加工拠点として開発し、塩漬けの魚を都市ローマにまで輸出しました。王宮には、動物や植物のレリーフがある居室があったことが知られています。ガリラヤ湖畔の葦は――「アベノミックス」ならぬ――「アンティパノミックス」の象徴だったのです。
そしてこの人物が、イエスの師匠である洗礼者ヨハネを殺害しました。イエスの噂を聞いた王アンティパスは、こう言ったとマルコ福音書が伝えています。
私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ。(マルコ6,16)
イエスを含めて、洗礼者ヨハネに耳を傾ける者は、ヘロデ王家の支配に疑いをもっています。この王権は、神の権威に従っていない。だから話は、民族の中で伝統的に神の権威を体現する者、すなわち預言者に移ります。
V
マラキ書が引用されます。
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。 あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。(マラキ3,1)
ここにいう「わたし」は神、「使者」「契約の使者」という存在が準備者として派遣されるという預言です。さらにマラキ書には、それが「再来のエリヤ」であるとする発言が現れます。
見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。(同3,23)
イエスが洗礼者ヨハネを指して、「実は、彼は現れるはずのエリヤである」というのは、マラキ書を受けてのことです。洗礼者ヨハネは、神が審判に到来する前に派遣するエリヤであったのだという意味です。
もしかしたらこのようなヨハネ理解は、洗礼者自身に遡るのかもしれませんが、キリスト教はヨハネを「神」というより、「イエス」の到来を準備する存在として再解釈しました。
そのヨハネについて、イエスは「預言者以上の者」と形容します(9節)。彼のヨハネ評価を見てみましょう。
およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。(11節)
すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時まである。(13節)
この発言は、かつての師である洗礼者ヨハネに対する、イエスの自立宣言のようなものです。ヨハネからイエスを区別するのは「天の国」、つまり「神の国」の到来です。時は変わったのです。だから人類史上、最も偉大な人間である洗礼者ヨハネよりも、「神の国」に生きる者は、それがより小さい者であったとしても、もっと大きい(原文は比較級で、「天の王国でより小さい者は、彼よりも大きい」)。マラキ書の預言が洗礼者ヨハネの登場までを告知するものであるなら、その先の「神の国」の到来は、「すべての預言者と律法」にとって未知であった、まったく新しい事態です。
洗礼者ヨハネの日々から今に至るまで、天の国は暴行され、暴行者たちがそれを奪っている。(12節参照)
この言葉は、新約聖書の中で最も理解が難しいもののひとつです。――「暴行者たち」とは誰のことでしょうか? イエスと同志たちのことで、新しい事態である「神の国」に決然として対応するのがよいという意味なのでしょうか。はたまた「暴行者たち」とはイエスの敵対者のことであり、「神の国」に生きる者たちが旧勢力によって痛めつけられているという告発なのでしょうか。とにかくよく分かりません。
しかし私たちの主題との関連で、より広義に〈真理や権威をめぐって激しい論争がある〉という意味に受けとることも可能かと思います。
いずれにせよ、洗礼者ヨハネは「時の転換点」に立つ者です。〈審判の神が来る〉という彼の預言によって、「神」の権威への問いが立てられました。イエスは〈救いの神は到来した〉と宣言しました。「神」の真理の宣言です。これらの真理および権威に関する主張をめぐって論争が生じるのは、ある意味では当然のことです。
VI
「来るべき者」とはどのような存在か、と最初に問いました。イエスの答えは、貧者に福音を告げる者というものです。では「それはイエスなのか?」という問いに対する彼の返答は、預言を超える新しい神の現実を見よ、というものです。
これが私たちの時代に、どのような具体的なかたちで現れることができるかについては、いろいろな可能性があると思います。
ひとつのたいへん分かりやすい事例をご紹介します。チューリヒに留学していたころ、ある有名な牧師さんの呼びかけで、クリスマスの時期に、市役所その他が共催して、街の路上生活者たちを一流ホテルのディナーに招待するという催しがありました。皆さん、一張羅のおしゃれをしてホテルに来られます。牧師が説教をし、こういうかたちで具体的にクリスマスの喜びを知らせました。「貧しい人は福音を告げ知らされている」!
日本で暮らす私たちを通しても、何らかの同じようなことが生じることが、「来るべき者はイエスなのか?」という問いに対する答えになるでしょう。