2013.8.4

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「平和の主に従う」

下村 優

イザヤ書2,4-5 ; フィリピの信徒への手紙2,1-11

I

 わたしが「平和」聖日にあたって、この箇所を選んだのは、「キリストに従う」ということが今日わたしにとって切実に問われているように思われたからでした。「平和の主に従う」という今朝のタイトルは、この聖書箇所における私なりの応答です。

 そう考えた理由には、今日「平和」を語る際に避けて通れない現状における危機感、閉塞感、息苦しさ、そして、また後で触れますが、半年前、御教会を通しての出会いと学びとがつながっています。

 祈りの足りない者のうめき声として、皆様が批判しながら聞いてくださることを願いながら、与えられた御用を務めさせていただくことをお許しください。

 はじめに今朝のテキスト2章1-11節、そして4章6-9節、そして私事になりますが御教会を通しての出会いについて、最後にイザヤ書のテキストと憲法9条に関してお話をさせていただきます。

II

 今朝の箇所、新共同訳では見出しを「キリストを模範とせよ」としています。2章1-2節にはこうあります。

あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

「同じ思いとなり、心を合わせ、思いを一つにして」――これはフィリピの信徒へのパウロの切なる願いです。言葉の背後に私たちはフィリピの信徒の中の動揺を推し量ることもできます。しかし、パウロ自身はこの状況の中で、14回も「喜び」という言葉を手紙に書き、あなたがたも喜んでほしい、と現状を「喜び」へと突破していきました。だから、動揺したり恐れたりせず、思いを一つにしてほしいと、パウロは書きます。

 2章3-5節で、パウロはフィリピの信徒の一致を願って次のように勧めています。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 パウロは「謙虚や謙遜」そして「自分のことだけでなく他者への関心を」とフィリピの信徒に促します。「心がけなさい」というのは「絶えず忘れぬようにしなさい」という戒めでありましょう。それはキリスト・イエスが示した生き様であることをパウロは指摘しています。新共同訳の見出し「キリストを模範とせよ」はここに対応しています。

 この後2章6-11節は「キリスト賛歌」と呼ばれる、初代教会のキリスト理解です。パウロは5節の「それはキリスト・イエスにも見られるものです」という言葉につなげて、前半部分の根拠として「キリスト賛歌」を引用・接続しています。その内容は以下のようなキリスト・イエスの生き様です――キリストが自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられた。

 一致を願うパウロの勧めと「キリスト賛歌」を一つにして「キリストを模範とせよ」という見出しがついているわけですが、私には何か釈然としない印象が残ります。テキスト前半部がそもそもフィリピ信徒の一致を願う勧めの内容であり、後半部には根拠として「キリスト賛歌」を引用・接続するという大胆な文章です。

 イエス・キリストの「謙遜」や「従順」が、今日の状況の中で、誰に対する「謙遜」や「従順」であるかを私たち読み手が意識しないのであれば、「従順のすすめ」ではありませんが、この世の権力や力ある者に対する「謙遜」や「従順」であれという態度決定に180度ひっくり返りかねない危うさを併せ持っているように思います。これは今朝のテキストに限った問題ではありませんが、今朝テキストに限定して前に進みます。

 今日の状況の中でパウロのテキストを読むときに、完全な肯定でも完全な否定でもなく、自分の状況の中で批判的に読むという態度だけが、テキスト自身の持つ危険性に対抗できる態度ではないでしょうか。パウロを批判的に読むという視点が必要だと私には思われます。それは私たちの精神の自由と解放に関係する事柄ではないでしょうか。

III

 前置きが長くなりましたが、私だけの見出しを今朝つけるのならば、言葉を補って「平和の主に従う」と自分なりの見出しをつけたいとあらためて思うのです。

 ここで「平和」という言葉を補うことには唐突感があるかもしれません。「平和」という語彙について、パウロはフィリピ書4章6-9節で「神の平和」「平和の神」として用いています。ヘブル語の「シャローム」、ギリシア語の「エイレーネー」という語彙です。

 日本語の「平和」に幅広い意味があるように、ギリシア語の「エイレーネー」にも平安、平和、健康、繁栄、安心、和解、安全などの幅広い意味があるそうです。4章6-7節でパウロは次のように書いています。

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 パウロの「思いわずらうな」という言葉は、考えることをやめなさいという意味ではもちろんなく、自分のことに執着しすぎないよう戒める言葉であったろうと思います。パランスを欠くほど思い詰めることから一歩引いて冷静になること。自分に執着しすぎずに神や隣人に目をむけて、感謝し祈ること。そうすることで、「神の平和」が私たちの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るのだということを、

 パウロは自分の体験から学んだのではなかったでしょうか。

 迫害の中で、自分への執着から離れ、神や隣人に目を向けることによって、「神の平和」が心と考えとをキリスト・イエスにあって守るということを彼自らの体験で学んだのではなかったでしょうか。

 9節ではこう書きます。

わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 これは「実行しなさい」という促しです。行動することによって「平和の神」が私たちと共におられることを知るのだと、パウロは自らの体験から学んでいたのではなかったでしょうか。伝道旅行という「行動」の中でこそ「平和の神」が共におられることを彼自らが学んだのではなかったでしょうか。

IV

 さて、わたしは2月に御教会で「神の恵みの喜び」と題して講壇に立たせていただきました。今日、再びお招きくださったことに心から感謝しています。また御教会の祈りを神が聞き届けてくださった喜びに共にあずかることができて感謝しています。

 あの日、善野碩之助先生の『若い世代へ』という御著書をいただきました。シベリア抑留体験の上で、「いじめ問題」が生きる希望を失わせる人間の状況として今日もあることを、善野先生が警鐘をならしておられるようにわたしには感じられました。同時に、御著書を通して善野先生の「信仰」に接して、自分の中にも「希望」の明かりがともったように受けとめました。

 また、しばらくして村上伸先生の『キリストに従う』というラジオ講座の音声データをいただきました。先生のおだやかな声にいざなわれながら、ボンヘッファーの『キリストに従う』を20年ぶりに開きました。「キリストに従う」ということを自分がどれだけ安易に考えていたか、また考えずにきたのか、ボンヘッファーの言葉に接して愕然といたしました。

信ずる者だけが従順であり、従順なものだけが信ずる。

神の恵みや愛にすがりついて、その日一日一日を生きるのが精一杯という自分の信仰理解にとっては、ボンヘッファーの言葉の重みは衝撃でした。自分の信仰理解とは「安価な恵み」に過ぎなかったのではなかったか、と。

V

 今日の私たちの状況の危うさの中で、彼の言葉が強く胸に響いてきます。戦争責任告白と重ね合わせて問われているように思われます。

 今朝の旧約のテキスト、イザヤ書2章4-5節は有名な箇所です。

彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 この日本という国は、70年前の戦争の悲惨を体験し、その反省の上で、憲法で戦争を放棄した国であるはずです。軍事力をわたしたちがコントロールできない国であることを多くの犠牲の上で学んだはずです。

 その憲法の要である憲法9条を書き変えようとする声が大きくなる中で、選挙の投票で意思を表明するだけで果たしてよいのだろうかと疑問を持たざるを得ない現実が目の前にあります。

 キリスト者としてこの流れに抵抗しなければならない。傍観していることは赦されないことのように、わたしには思われてなりません。この国の現実と危うさを考えれば、憲法9条は守らなければならないと私も強く思うのです。

 しかし具体的に私に何ができるのかという自分のプランがあるわけではなく、私自身も相当に迷い、祈っております。

 この暗闇をつきぬけてゆく道を見いだすことができますよう私は祈り願います。それがどのような道なのかはわかりませんが、「平和の主に従う」ということは今日において私自身そのような課題として受け止めます。

 一人でできることには限りがありますが、一つひとつの小さな声や小さな行動を神がきっと聞き届けてくださることを信じ、一人では負いきれぬ責任をも主がともに担ってくださることを信じて、祈ります。

憐れみに冨み給う神さま、
この国の70年前の戦争の悲惨、その記憶を私たちが忘れることがありませんよう、力と知恵と勇気とをお与えください。戦中・戦後の中を生きてきた方々の一日一日の歩みをどうぞあなたが格別に覚えてくださいますように。再びこの国が剣を持つことがありませんように、どうか憲法9条を守らせてください。剣を持つことではなく、別の方法で「平和」を実現する道をどうか歩ませてください。
あなたの教会の礼拝に招かれた会衆一人一人の心の中の祈りに応えて、あなたが慰めと平安とを与えてくださいますように切に祈ります。礼拝に来たくても来ることができなかった方々にも変わらぬ豊かな恵みがございますように。広島を訪れている廣石先生のお働きの上に豊かな恵みがございますように。あなたの御教会の歩みの上に豊かな恵みが注がれ、お一人お一人が希望と光の中を歩んでゆけますよう祈ります。
この祈りを救い主イエス・キリストの御名によって御前に捧げます。アーメン

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