2013.7.28

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「幸いなるかな」

説教:トマス・マシュー ⇒ 原文(英語)
日本語訳:廣石 望

ゼカリヤ書9,1-10 ; マタイによる福音書5,1-12

 

I

 おはようございます。

 キリストに従う者の一人として、私たちの主がお造りになったこの美しい日に、皆さんの前でお話しさせていただけることをたいへん嬉しく思います。今日、ともに私たちの主であり救い主であるイエス・キリストを讃えるためにここにお集まりの皆さんと、通訳を担当される廣石先生に心から感謝いたします。

 さて、皆さんとごいっしょにマタイ福音書5章1-12節をもう一度読んでみましょう。

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 この「幸いなるかな」のセクションは、マタイ福音書で最も愛されている部分のひとつです。この言葉は、後に「山上の説教」(マタイ5-7章)として知られるようになったイエスの説教の冒頭に当たります。この説教は、イエスの人生の年代記では、もしかするとしばらく後のことであったのかもしれません。しかしマタイは、この説教をイエスの宣教の開始位置に置いています。それが「神の国」の大いなる宣言になっているからです。

 

II

 イエスは彼のもとにやって来る群衆を見て、山に登り、座ります――座るのはよく知られた教師の姿勢です。伝統的にこの山だと言われているのは、じっさいには低い丘で、ガリラヤ湖畔のカファルナウムその他の漁村の背後にあります。彼の弟子たちがイエスのもとに来て、イエスは教え始めました。マタイ福音書におけるイエスの最初の、そして最も長いメッセージです。イエスは、天の国がもう間近に迫っていると告げ、人々に悔い改めを促しました。そして今、彼の王国のマニフェストと呼ばれるこの部分で、イエスはその王国における生の基礎が何であるか、その生にどのような性格が具わっているかについて明らかにします。すなわち神の国で生きることの倫理的なガイドラインについて彼は教えます。神の国で生きること――いまは部分的に、しかし未来においては完全にそうなるであろう――その特徴である義とは何であるのか、そこにどのようなクオリティーが具わっているかについて、イエスは指摘します。

 イエスは、神の真の意思について万人に語りました。人々が悔い改めて神の国に入ろうとするなら、皆が示すべき義について語りました。弟子たちはすでに、この義を実践し始めています。ですからこの説教は万人に向けられています。説教は「幸いなるかな」の言葉で始まります。それは真の神の民がもっている性質について、あるイメージを与えます。この人たちは神の国の一部であり、その到来を待ち望みつつ、溢れんばかりの祝福を受けています。「幸いなるかな」の言葉は、全体として、約束の担い手であるキリストに完全に従う弟子についてのイメージです。ここでイエスは、人々がどのようにして完全な弟子になるかについては語りません。それは説教の後の部分で言われています。

 

III

 山上の説教の冒頭を飾る「幸いなるかな」の言葉の意味として最も説得的な説明のひとつは、それがイザヤ書61,1-3の反響として構想されているというものです。マタイは繰り返し、旧約聖書の預言成就という光のもとでイエスを描きます。それはここでも同様です。この部分を読むには、メシアと彼の王国がどのようなものであるかに関するイザヤの預言を見る必要があるわけです。

 さて、「幸いなるかな」の言葉には物語はありません。宣言があるだけです。物語のかたちによる導入は、説教全体の場面設定です。山上の説教本体は、「幸いなるかな」の宣言で始まります。おのおのの文章は形式的にはある事態を宣言するものですが、同時に勧めを含んでおり、その意味では人々の反応を求めています。

 「幸いなるかな」の言葉について、多くの注釈者が全部で8つあると言います。しかし9つの「幸いなる」者たちがいると言うこともできます。何れにせよ最後のものだけ形が違います。もはや「〜な人たちは幸いである」と言われず、「あなたがたは幸いだ」と言われているからです。しかも最後の「幸いなるかな」は、内容的に見れば、その前の第8の章句を、とくに弟子たちに当てはめてさらに明確化したものと見えます。

 ある意味では、「幸いなる」者たちについての主イエスの描写は、正しい人の心の霊的な性質に対して、神が与える報いについて弁護するものです。別の言い方をすれば、それは神の前に正しい人々の霊的な態度ないし状態を描くものとも言えるでしょう。

 ですからイエスは「〜な人は幸いなるかな」というとき、その人が神と正しい関係にあるので、その心が喜びと平和で満たされているのだと記述しているだけではなく、同時にその人々を称えているのです。

 

IV

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 「霊において貧しい」――the poor in spirit (RSV)――人々は、神の前にへりくだる人々です。この人たちは、自分の人生には、天の国を受けるに足りるものが何もない、ということを自覚しています。心の痛みをもって神の前に自分を低くし、深く悔い改めた人のことだと思います。だからこの人々は寄る辺ない、希望のない罪人として、王である神のもとに来ます。だからこの人々にはおごり高ぶりがなく、自己義認も自己充足もありません。この人々は見栄を張ることもしません。だからこそ彼らは、神と自由な関係に入ることができます。神の国に入ろうとする人は誰でも「霊において貧しい者」でなければなりません。なぜなら救いとは神の賜物であるからです。

 

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる

 少しだけ異なる「幸いなるかな」の言葉です。先の章句では、霊にあって貧しい者は王国を「もつ」と言われていましたが、ここでは約束は未来のもの、すなわち悲しむ者たちには将来慰めが与えられるだろう、と言われています。

 私たちは災害や事故について悲しみます。その嘆きの中で希望を探します。そしてあまりにしばしば、この世界にはほとんど希望が見出せないのです。

 しかし私たちは知っています。最後に勝利するのが死ではないことを。キリストにあって死んだ者は、やがて朽ちることのない命へと起こされるでしょう。メシアはそのとき、万物を回復なさるでしょう。この希望が人々に慰めを与えます。だから、その人々は慰められるだろうと約束されているのです。とりわけ神が人々の目から涙をぬぐいさり、死もなく、嘆きも苦しみも無くなるそのとき彼らは慰められる。人は人生の悲しみに直面するものです。もしそのとき罪について悲しむならば――これは救い主への信仰の明確なサインです――人は希望もって悲しむことができるのです。

 

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 柔和な者は、貧しい者と同様、自分のうちに提示できるものをもっていません。モーセは柔和で謙遜であったと言われています。柔和な人々は他者を搾取せず、抑圧を加えません。復讐せず、やられてもやり返しません。彼らは暴力をもちいません。自分の目的のためのパワーをもちたいとは思わないのです。つまり彼らはイエスの本性を自分たちの本性のために活かし、イエスから学んだのです。彼らは心優しく、謙遜ですが、弱い人、抑圧された人々の必要を満たすためには大いなることをなすでしょう。

 

 

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

 この言葉は、どのような人が正しいか、なぜよいことをすべきなのかについて記述するだけのものではありません。描かれているのは、むしろ正しい人たちの人生の情熱です――この人たちは義に飢えており、義に乾いている。貧しい者、柔和な者と同様、この人々は自らの生を神の手にゆだね、神の助けを待っています。

 

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 この人々が幸いであるのは、自分たちの権利を超えた憐れみを示すことができるからです。何かを必要としている人々に向かって敵意をあらわにするのではなく、むしろ親切であろう、他者の傷をいやそうとするのです。この人たちが生まれつき憐れみ深いというのではありません。そうではなく主が彼らにまず憐れみを示し、常に主イエスの憐れみにすがりながら彼らは生きています。彼らは憐れみが何であるかを理解し、他者に憐れみを示すがゆえに、この人々は憐れみを受けるというのが神の言葉なのです。常に赦されて生きているので、彼らは他者を赦すことを学び、毎日憐れみを受けて生きているので、他者に憐れみを示すことを彼らは学んだのです。

 私が運営しているNGO・SEEDS-India(Socio-Economic-Educational-Development-Service India)も同じです。SEEDSは、キリストを信じる者として、インドで生きる貧しい人々、必要なものに事欠く人々、障碍をもつ人々、社会的なアウトカーストの人々に助けの手を差し伸べようとしています。

 

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 この言葉は内面の清さと心の純真さを描いています。「心」は聖書では、意思や選択を示します。だから心が清いとは、その人がなす決定や、その人が欲しいと思うこと、つまり思いや意思の向かう先が罪によって穢されていない、という意味です。人の意思は、神を喜ばせることであるべきだからです。心の清さからは、ただよいものだけがやってきます。愛と憐れみの行い、正義と公正を行うという願い、神を喜ばせる決心などです。

 

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

 神は平和の神です。しかし人類には平和と統一ではなく、争いと諍いがあります。神がもたらす平和は敵意が止むこと、寛容、そして譲歩の用意があることにとどまりません。世界に必要な本当の平和が実現するには、自然そのものがまったく変化することが必要です。それは神と和解することから始まり、他の人々との和解へと広がってゆくことでしょう。

 ピースメーカーである人々とは、先ず何よりも、本物の平和が何であるかを理解している人たちです。彼らの努力は、神の摂理の内にある平和を実現しようとすることにあり、神との平和をもつ人々の間で、他の人々との調和の内に生きようとします。別の言い方をするなら、真のピースメーカーとは神の国を推し進める人のことです。ここに描かれた平和のクオリティーはその意味では霊的なものであり、たんに政治的な平和探求とは異なります。

 平和を創りだす者たちは、世界の平和の福音を広げることで、平和を生みだします。また信仰の家族の中で和解を創りだすことによっても。つまりメシアの仕事を為さねばならないのです。

 

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 洗礼者ヨハネは義を求め、若くして命を落としました。イエスはあらゆる正しい徳目を宣教しましたが、そのメッセージに対しては反対の声が上がりました。それが彼の王国に入るようにという呼びかけであったからです。

 ここで祝福が与えられると言われるのは、この世界で迫害を受ける人々です。この人々の運命は、現在の賤しめられた状況とはまったく逆のものになるだろうと。天の王国は彼らのものであるから。そしてそのために命を落とすことがあったとしても、その甲斐もあるのが天の国であることを、弟子たちは知っています。

 

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

 イエスは、この世のあらゆる苦しみを通り抜けた方です。ですからイエスに対する信仰のゆえに、あらゆる種類の侮辱と苦難を通り抜ける者たちもまた祝福を受けます。今日、キリスト教徒は世界で最も迫害に晒らされたコミュニティですが、イエスは「それは祝福だ」と言います。だから迫害者を報復してはなりません。

 

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである

 いつの時代にも、真理を探究する者たちは迫害され、拷問を受けました。イエスは、そんな君たちと共に天が喜ぶだろう、そして天における君たちの場所は偉大な預言者たちのようになるだろうと約束します。この世での戦いを恐れはならない。それはやがて終わる。永遠の命が、君たちの苦しみに対する褒美として与えられるだろうと。

 

 神の祝福が皆さんにありますように

 平和が皆さんと共にありますように!

 

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