I
キリストを宣べ伝える教会や信徒は、どのようにあるべきでしょうか?
もちろん礼節をわきまえ、控えめでつつましく暮らし、嘘をついたり他人をだましたりせずといったことが重視されるでしょう。世間では「クリスチャン」と言えば謹厳実直な「石部金吉」で禁酒禁煙、品行方正で家庭円満、賭け事なんてもってのほかの〈君子危うきに近づかず〉というイメージがあるように感じます。これは150年ほど前、プロテスタントの宣教師たちがもちこんだキリスト教が当時の日本社会に与えた印象であろうかと思います。つまり世間並よりも少しく禁欲的で、かつ模範的な生活者であれという要求です。
新約聖書にも、信仰者の生活態度について、よく似た発言があります。とりわけパウロの死後、彼の後継者たちによってパウロの名を冠して書かれたと想定される文書群――「第2パウロ書簡」と呼ばれます――にそうした発言が頻出します。例えば、
監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。(テモテへの手紙一 3,2)
あるいは、
奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。(テモテへの手紙一 3,12)
教会で指導的な働きをする人は世間一般からも尊敬され、うらやましがられるような幸せな家庭を営んでいる者でなくてはならないというわけです。この世界の価値基準よりも少しく厳格であることを求めること自体は責められるべきではありません。しかし罪人を招いて食事を共にし、病いの人に触り、世間の礼節正しい人々からは「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」(マタイ11,9)と悪口を言われながら自ら罪人の一人となり、恥辱に満ちた十字架の死を死んでいったイエスの姿からは遠いです。
パウロの場合はどうだったのでしょうか?
II
彼は宝物を「土の器」、つまり素焼きの器の中にもっていると言います(7節)。
「宝」とは直前の文脈にいう「福音」ないし「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことでしょう。他方で「土の器」とはパウロ自身を指します。キリストの使徒であるパウロは自らを〈壊れやすい存在〉、〈割れモノの人生〉を生きる者と形容しているのです。ヒビが入ったり欠けていたりする器の中から、光が輝き出るというイメージが浮かんできます。
このコントラストは、神の力や栄光はそれを運ぶ人間よりも常に大きいといった常識的な意味であるに留まりません。この宝にこの器がぴったりである、キリストの福音は、パウロの〈割れモノの人生〉を通して、より適切に伝達されるというつながりです。
彼は自分の病いに関連して、次のようなキリストの言葉を伝えているではありませんか、「私の恵みは君に足りている。力は弱さの中で完成されるのだから」(2コリ12,9)。第2パウロ書簡にあるような、環境世界の価値観にそっくりそのまま乗っかり、さらにその上を行くことで自分の存在を守ろうとするような態度とは、何か大変な違いを感じます。
III
続いてパウロは自分の生を、まるで低空飛行する飛行機のように描きます。
四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(8-9節)
これは全体として、どんな困難な状況にあっても神の守りによって決定的な敗北は免れているという意味なのでしょう。それでも「苦しめられ」「途方に暮れ」「虐げられ」「打ち倒される」という部分は、パウロの人生を外側から客観的に見た場合、まさにその通りなのだろうと思います。これらの描写には、ギリシア・ローマ式都市の劇場で催される剣闘士のショーにさいして、打ち負かされる側の戦士のようすが念頭に置かれているようだ、とする学説もあります。
パウロは同じ書簡の別の箇所で、次のように言っていました。
私たちは無名な者たちとして、かつ認知された者であり
死んだ者たちとして、かつ見よ、私たちは生きている!
懲らしめられた者たちとして、かつ殺されることのない者であり…
悲しむ者たちとして、しかし常に喜びつつ
物乞いとして、しかし多くの人々を富ませつつ
無一文として、かつ万物を手中に収めつつ(2コリ6,9-10参照)
キリストの福音は環境世界の価値基準を前提にした上で、それを優等生的に満たすこととはかなり違います。それは世間的に見れば「負け組」と呼ばれるであろうものに、むしろ近い。それでも、その死んだも同然のような使徒の生を通してこそ、キリストの力は伝わってゆく。伝道者パウロの、熱い心意気が伝わってくるようではありませんか!
IV
「弱さ」を通して働く「命」があるという洞察は、キリストの死と復活から与えられるとパウロは言います。
いつもイエスの死(殺害)を体で運んでいる、イエスの命もまた、私たちの体にあって明らかになるために。私たち生きている者たちは、いつもイエスのゆえに死に引き渡されているのだから。イエスの命もまた、私たちの死すべき肉において明らかになるために。こうして死が私たちにあって働き、命は君たちにあって。(10-12節参照)
イエスの死を運ぶとパウロが言うとき、彼の念頭にあるのは、キリストの使徒であるがゆえに被らざるをえない、その意味ではあらずもがなの苦労です。
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(11,24-27)
私たちに残された真正パウロ書簡と使徒言行録をすべて読みあわせても、この艱難表に列挙されたすべての事由の対応物を見出すことはできません。そうしたことについてパウロはほぼ沈黙したまま、世を去ったのです。
彼は苦労自慢、貧乏自慢がしたいのではありません。そうした労苦には別の目的、すなわち「イエスの命もまた、私たちの体にあって明らかになるために」があるからです。弱さを通して働く命がある。私の弱さはイエスの弱さと二重映しです。それは「イエスの命もまた」、その私の弱さの中で現れるためなのです。
キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる。(13,4)
だから、キリストの弱さに参加する私たちを通して、彼の命もまた私たちを通して明らかになります。この「〜もまた」を新共同訳聖書はなぜか訳出しませんが、「〜もまた」は他にも出ます。
私たち生きている者は、いつもイエスのゆえに死に渡されているのだから。イエスの命もまた、私たちの死すべき肉にあって明らかになるために。(11節)
主イエスを起こした者は、私たちをもまたイエスと共に導き、君たちと共に立たせるであろう。(14節)
これら二つの「〜もまた」を見ると、現在の苦難が一方ではイエスの命が現在に現れることに、そして他方ではそれが同時に未来の復活につながっていることが分かります。だからパウロはこう言います、
こうして死が私たちのうちに働き、命は君たちのうちに。(12節)
パウロはイエスの復活をその恥辱に満ちた十字架の死の姿から理解しました。十字架と復活は相互に切り離されません――例えば〈イエスは十字架刑に処されることで一敗地にまみれたが、復活によって死に打ち勝ち、ユダヤ人どもの悪意を乗り越えて、燦然と輝く栄光の主として天に凱旋した〉というような仕方で。パウロにとって復活のキリストは「十字架にかけられたまま」のキリストです。彼の死は「弱さ」であり続けます。そして、そうであることを通して「命」が働くのです。
V
北海道の浦河というところに「べてるの家」という施設があります。さまざまな心の病をもつ方々が共同で生活し、働き――昆布の販売が中心です――、そしてケアを受ける場所です。
「べてるの家」の理念というのが、なかなか素晴らしい。たくさんあるのですが、そのいくつかをご紹介しますと、「三度の飯よりミーティング」「安心してサボれる職場づくり」「自分でつけよう自分の病気」「場の力を信じる」「弱さを絆に」「利益のないところを大切に」「勝手に治すな自分の病気」、そして極めつけは「昇る人生から降りる人生へ」。――このうち、とくに「弱さを絆に」という理念は、大震災後の日本にも大切なことであるように感じます。
この施設に関しては何冊かの著作が書かれています(ビデオもあります)。その中のひとつ、横川和夫さんというジャーナリストの方が書かれた『降りていく生き方 「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』(太郎次郎社、2003年)に、この施設の立ちあげに関わった向谷地さんというソーシャルワーカーの方へのインタヴューがあり、次のようなエピソードが紹介されています。
向谷地さんは理想に燃えた22歳のワーカーとして浦河赤十字病院に着任したのですが、そこで目の当たりにしたのは、凄まじい差別の中でアルコール漬けになって暮らしているアイヌ人たちの惨状でした。毎日、何件もの仲裁に走り回ります。
学生時代までの私は、観念的に自分が正しくとか、自分を人間として磨いていこうという、ある種の高みへの欲求があったんです。ところが、どう観念的であろうと、弱く、うす汚れた、そしてみじめな現実が日のまえにあるわけです。言葉では言いあらわしがたい悲惨な現実、それには、こうあるべきだという観念的な発想は通用しない。だから、そうしたものをかなぐり捨てて、自分もいっしょになって取り組まざるをえなくなっていったんです。
あるときアルコール依存症の夫をもつ妻からSOSの電話が入ります。娘が近所の子どもから「アイヌが乗ったブランコに乗りたくない」といじめられ、これを聞いた伯父さんがかんかんに怒って、いじめた子の母親を呼び出して怒鳴りつけ、そのお母さんは「赦して下さい」と泣きながら土下座している。そこへタイミング悪く酔ったお父さんが帰宅し、伯父さんは父親の胸倉をつかんで、「てめえの娘がこんな目にあってるときに、酔っぱらってるとはなにごとか!」と殴り飛ばす。そして逃げる父親を追いかけまわし、なぜか斧をつかんで「この野郎!」と振り上げた瞬間、娘さんが「私の父さんになにすんのよ!」と絶叫して伯父さんにすがりついたそうです。「こんなの、父さんでねえ!」「どんな父さんだって、伯父さんに関係ないでしょ!」――すさまじいですね。このお父さんは、子どもに命を守ってもらったのです。
そして13年後、娘さんは成長して看護師さんになっていて、浦河教会で向谷地夫妻を証人に結婚式をあげます。ところがお父さんはまだ飲んでいて結婚式に欠席。やっと夕方の披露宴に、しかもすっかりできあがった姿で現れます。
お父さんが「ごめん、ごめん」と言いながら会場に入ってきたのを、花嫁は手を引いて席に座らせたんです。私は花嫁のそんな姿を見て、貧しかったこと、辛かったこと、寂しかったことなどすべてを許したのだと思ったんです。
とても教会らしいと感じます。そして、ここに描かれているのは、「こうして死が私たちのうちに働き、命は君たちのうちに」というパウロの言葉そのままであると。