I
キリスト教会は、どのように主イエス・キリストについて適切に語ることができるでしょうか?
教会には聖書や古教会の信条、宗教改革時代の信仰告白やカテキズム(教理問答)、そして現代の諸教会教派の信仰告白などがあり、それが「外枠」となって個別教会の実践を支えています。例えば聖書を抜きして、誰かが「私一人で教会を作った」と主張したとしたら、それはキリスト教会ではありません。
他方で、そうした枠のいわば「内側」で、個々の信徒たちが生きてゆく上で、主イエス・キリストについて語ることがたいへん重要です。「証し」とは、狭い意味では伝道集会その他で、ある信徒が仲間たちや求道者を前に語るものですが、広い意味では、キリストを救い主として信じて生きる私たちの生き方そのものです。
そのどちらにおいても、「キリストの十字架が空しいものになってしまう」という危険があることを、本日のパウロのテキストは指摘しています(17節)。私たちは始終びくびくして自己検証する必要はありません。安心していればよいのです。しかしキリストを通して示された神の信実に、私たちもまた信頼をもって応えようとするとき、「聖書を使っているから」「教会法に違反していないから」「礼拝堂のてっぺんに十字架を掲げているから」というだけでは、信仰は形骸化する危険性があります。
「空しいものになってしまう」(原語は「空洞化される」)とは、何かをしたそのときにもともとそこに含まれているはずの効果が、なぜか現れないままに留まり、何かをしたことが無駄に終わってしまう、というような意味です。
「キリストの十字架」にもともと含まれているはずの効果とは何なのでしょうか? 十字架がその効力を発揮することを妨げかねない「言葉の知恵」とは、いったい何なのでしょう?
II
パウロは、「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言います(17節)。なぜ洗礼と福音宣教が対比させられるのでしょうか? 本来、両者は一体のものであるのに。
直前の文脈を見ると、コリント教会の内部に「分裂」「党派争い」があり、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」云々という人々がいたようです。そして「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか?」という疑問文からは、洗礼を授けた人が「教祖様」のように崇拝され、その結果、分派が発生しているらしいことが分かります。そしてパウロ自身は、自分がわずかな信徒たちだけを洗礼したという事実を、たいへんありがたいことだと述べています。
「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか?」――おのおののキリスト者は人間として結びつきのある人、例えば洗礼を授けた牧師によって定義されません。そうではなく、イエスの十字架という一回的な過去のできごとが万人にとっての救いの根拠です。その救いに導く「導師」は救済者そのものではありません。私たちに親しい「〜先生の教会」という表現は単なる地名のようなものですね。「先生」のランキングが信徒たちの信仰のランキングを決めるわけでもなければ、ましてやより本物らしい、あるいはより偽者らしい信仰を意味するわけでもありません。
III
「言葉の知恵によらず」(17節)とパウロは言います。「知恵」は以下の段落のキーワードで、コリントの信徒たちが熱心に追い求めたものであるようです。
「言葉の知恵」とは〈弁論術の雄弁〉のことだという説があります。「聖書に詳しい雄弁家」(使徒言行録18,24)と形容されるアレクサンドリア出身のアポロが、コリントにもちこんだ傾向なのではないかと。他方でパウロ自身は、「手紙は重々しくて力強いが、じっさいに会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という彼自身についての噂を、コリント教会宛ての別の手紙で皮肉たっぷりに引用しています(コリント二 10,10)。
つまりここでパウロが退けているのは、言葉で人を圧倒し、黒を白とも言いくるめる雄弁、真理をないがしろにする口先の知恵であるというわけです。
しかしパウロ自身が――少なくとも書簡では――きわめて雄弁に語り、論じています。またアポロについては同労者として仲間であることを強調するだけで、いっさい批判めいたことは言いません(3,6-9参照)。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)という発言を見ても、説教者が雄弁であるか訥弁であるかというよりも、十字架の言葉と人間理性そのものの関係が問題になっているように感じます。
では改めて、キリストの十字架が効力を発揮することを妨げる「言葉の知恵」とは何だったのでしょうか?
IV
詳しい背景は不明ですが、二つほど説を紹介します。
ひとつめは、古代密儀宗教の神話との関連です。ヘレニズム時代の密儀宗教には、それぞれに固有の神話がありました。例えば都市アテネと関係の深いエレウシス祭儀には、地母神デーメーテールが、冥界の主プルートーに誘拐された我が娘ペルセフォネーを探し求めてついに見出し、毎年春が来る時期に、オリュンポスの山上の神々の世界に連れ戻すことが許されたという神話があります。――少女ペルセフォネーの帰還は「春」の到来を象徴しており、エレウシス祭儀は植物の再生に託して、人間の生と死、そして来世における再生を約束するものでした。
そもそもこうした神話には、〈決して歴史の中では生じないが、どこでも生じる〉という性格があります。洗礼や聖餐などの儀礼が、こうしたモデルに即して、ある種の魔術のように理解されたとしたらどうでしょう。そのときキリストの十字架という歴史的なできごとは、歴史の中で神が行った救いの行為であるのに、その一回性は奪われて抽象的な神話世界に吸収されてゆきます。こうして、キリストの十字架は空洞化され、私たちは現実とのつながりを失ってしまう…。そうなのかもしれません。
もうひとつの仮説は、コリント人たちが「知恵のキリスト論」ともいうべきキリスト理解を提唱したというものです。ヘレニズム時代のユダヤ教には「知恵」の神話がありました。おおざっぱに言えば、〈知恵は世界の創造以前に神とともにあり、神といっしょに世界を作った。やがてこの世界に到来したが、世の人々は知恵を拒絶したので、神のもとに帰ったが、やがて律法の内に居場所を見出した〉云々というものです。
このような大きな意味関連の一要素としてキリストの十字架を位置づけて、自分たちの理論体系の中にとりこんでしまう態度が「言葉の知恵」と呼ばれているのではないかというわけです。「言葉の」とは「理論の」「教説の」という意味に理解することが可能です。つまりキリストを〈理論化〉するとき、彼のできごとの歴史的な一回性は軽視され、彼の「十字架はむなしいものにされてしまう」…。
そうであるならば、後のキリスト教会が生みだしてきた救済理論にも同じ危険性がある可能性を考慮すべきでしょう。キリストのできごとよりも、私たちが思いついた理論を優先させる態度のことです。通常、この二つ――キリストか、あるいは私たちがもっている救済理論か――は区別されません。自分たちの理論がキリストを正しく捉えていると信じて疑わないからです。
しかしパウロはこの区別を可能にするための規準を知っています。それが「十字架の言葉」です。
V
「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)。
本来ならば「十字架につけられた者としてのイエス・キリストについての宣教」と言われて然るべきです。「十字架」はただの拷問道具の木材ですので。それでも「十字架」と言われるのは、これなしにキリストについて語ることができないほど、キリストを特徴づけるものに十字架がなったからだと思います。
そして「十字架の言葉」とは、パウロによる福音宣教の複数あるテーマの一つではありません。むしろ彼のなすこと、言うことのすべてを特徴づけるものです。復活について、恵みについて、義認について、ありとあらゆる発言が「十字架の言葉」です。十字架につけられたキリストが、「私たちにとって神の知恵、義と聖と贖い」になったとあるとおりです(1,30)。
その特徴をいくつか指摘します。まず「十字架の言葉」は「言葉」です。人に聞かれ、理解され、同意をもって受け容れられることをまっています。運命の一撃のように、人にいきなり襲いかかってなぎ倒すような強制力はありません。あくまで理解されることを求めています。
次にこの言葉には、人を救いに至らせる「力」、「神の力」があります。その意味では、神が行う救いの業の一部といってよいでしょう。
さらにこの言葉には、それを拒絶する者と受容する者とに、聞く者を二分する働きがあります。両者をパウロは「滅んでいく者」と「救われる者」と形容します。この区別は本来、世の終わりの最後の審判で起こると思われていたものでした。その区別が、宣教活動のその場で生じます。このことも「神の力」の働きの一部と考えられているのでしょう。
ご存知のように、古代ローマ世界における十字架刑は、奴隷や解放奴隷などの身分の低い者たちが重罪を犯した場合の処刑法、とりわけ属州民が帝国に反乱を起こした場合の残虐な処刑法でした。ごく例外的に帝国への深刻な裏切りを犯した場合に限って、ローマ市民権の保持者にもこの処刑が適用されました。しかし基本的には、支配と被支配の上下関係を見せつけるための処刑だったのです。多くのユダヤ人がローマ人によって十字架刑に処されましたが、十字架がポジティブな意味で「義人の苦難」を意味することはありませんでした。それほど屈辱的な殺害方法だったのです。
それだけにパウロが例えばエジプト脱出のような民族の偉業ではなく、キリストの無力さと屈辱の死を意味する「十字架」を指して、その特徴に貫かれた宣教の言葉を「神の力」と呼んでいることは驚くべきことです。
VI
続いてパウロは「十字架の言葉」はこの世の知恵をすべて愚かなもの、無効なものとすると、旧約聖書(イザヤ書29,14b)を引用しながら宣言します(19-20節)。
この言葉は人の知恵を危機に陥れるのです。そのとき人間理性は、十字架に何らかの合理的な説明を与えてこれを片付けるか――それについては後にふれます――、あるいは十字架刑に処された者から神の救いが来ることを認めて、「十字架の言葉」の前で降参するかのどちらかしかありません。パウロは後者が正しいと言います。
そしてそれが証拠に、この世界は常に神の知恵の内側にありながら――おそらく被造世界の全体が神の知恵を証言しているにもかかわらず、という意味――自らの知恵で神を認識することに失敗したので、神は宣教内容の愚かさ――「十字架の言葉」というショッキングな宣教内容――によって信じる者を救おうとされたではないか、とパウロは言います(21節)。
これは、ユダヤ人の律法解釈であれギリシア人の哲学であれ、いずれも真の神認識には失敗したという包括的な判断です。言いすぎではないでしょうか? その根拠はいったい何でしょうか? それは十字架を神の力と宣言する宣教内容の愚かしさこそが、真の神認識を開いたからです。だから「知恵」経由の神認識は、事実上「失敗だった」という言い方ができたのだろうと思います。
そして「十字架につけられたキリスト」は、あらゆるこの世の考え方を根こそぎにする神の力であると言われます(22-24節)。ユダヤ人が求める「しるし」とギリシア人が求める「知恵」は、それぞれに見ればかなり違うものなのでしょうが、ほとんど同じものとして扱われています。どちらも「十字架の言葉」を拒絶する点で等しいからです。
「しるし」とは、私を証明するための、私から区別された、かつ私より優れた何かです。例えば私のパスポートに、日本国外務大臣と書かれているように。十字架はそのような「しるし」としては、まったく使いものになりません。恥辱でしかないからです。
「知恵」とはギリシア人にとって、「神」を求める手段です。彼らにとって「神」とは、最も深い現実、あらゆる輝かしいものの中で最大かつ最も確実な存在に対する形容詞、つまり先ずは述語でした。例えば「隣人愛は神である」というように。そして例えばストア哲学は多神教神話を、自然の諸力や倫理上の諸観念を象徴的に映し出すものと「解釈」しました。この神の解釈を導くのが「知恵」だったのです。ところが十字架は、そうした神々しく崇高なものの、まさに対極にあります。
こうして「十字架の言葉」は、「つまずかせるもの」「愚かなもの」であり続けます。この文脈に、私たちに親しい〈人の罪を贖う犠牲の死〉といった、イエスの死についてのポジティブな意味づけが一切現れないことにも注目して下さい。
VII
その緊張に耐えきれなくなるからでしょうか、私たちは歴史の中で、この十字架の「つまずき」を骨抜きする手段をたくさん開発してきました。
例えば歴史家であれば、イエスの十字架は、〈二千年前に生きたあるユダヤ人の人生最後の場面であり、その他にも大勢の人が同じように殺された〉と言うでしょうか。そのときイエスの死は過去の歴史の一こまとして遠ざけられ、この死が神の救いの行為であることは消去されます。
あるいは倫理の教師であれば、イエスの十字架は〈隣人愛の完成〉〈究極の謙り〉あるいは〈意思の強さの証明〉であると言うかもしれません。イエスの死はキリスト教倫理にふさわしい生活態度のお手本になります。しかし十字架上のイエスは、もはや倫理的に尊い行為を行うことができません。無力にも彼は死んでいるからです。十字架とは人ではなく、神だけが行動できる場所です。
さらにデザイナーであれば、十字架は魔除けから結婚式やペンダントに至るまで、いろいろなイメージの投影素材です。しかしイエスの十字架は個別的で具体的なできごとであり、これに対応して「十字架の言葉」は特定の内容を持っています。
最後にキリスト教会はしばしば、イエスの十字架を、復活によってすでに乗り越えられた過去の通過点と見なしました。イエスはユダヤ人によって死に渡されたが、私たちの神の力によって勝利されたと。しかしパウロは「十字架につけられたキリスト」を宣教すると言います。イエスの十字架は常識的な宗教観をいったんは否定し、命や意味への憧れにもっと別の仕方で答えるものなのです。
VIII
少し考えてみれば気づくことですが、「愚かさ」や「弱さ」は私たちが避けたいと願いながら、なぜか落ち込んでしまうものです。
不注意だったり、ちょっと得したいと思ったり、勇気がなかったり、高慢だったり――冷静であったら避けられたはずなのに、という間違いを犯すことが私たちにはあります。あるいは、これからというときに家族や自分が思いがけず事故にあったり、病気になったりします。これまで努力を重ねて築いてきた地位を、他人の判断によって突然に手放さなければならなくなったり、他人のミスの尻拭いをさせられる羽目になったり…。
後悔、失望、悲しみ、怒り、恨みは人生につきものです。そしてイエスの十字架は、私たち自身の愚かさや弱さのシンボルであり、その弱さを通して働く神の力、つまり復活信仰を発見する場所なのです。
こうして「十字架の言葉」は、キリスト教がキリスト教であり続ける限り、神の「愚かさ」「弱さ」また「つまずき」であり続けます。そしてそのことを通して、同時に「神の力」「神の知恵」でもあり続けるのです。だからパウロはこう言います、「神の愚かなることは人間たちよりも賢く、神の弱きことは人間たちよりも強い」(24節参照)。