I
本日のテキストは、マタイ福音書の最後を飾る復活者イエスとの出会いについて語っています。この聖書箇所がなければ、私たちは今日ここにいないかもしれません。
マタイによれば、イエスは当初、「イスラエルの失われた羊たち」つまり民族の中で「罪人」と差別されるに至った人々のもとに派遣されているという自覚をもっていました(マタイ10,6参照)。しかしやがて、彼の民族と宗教の限界を踏み越えて、イエスはあらゆる出自の人々のもとに赴きます(例えばマタイ15,21以下参照)。そしてこの最終部では、弟子たちを全世界に向けて送り出すのです。
じっさい使徒パウロは地中海世界を股にかけて旅し、最後は使徒ペトロと同様に、当時の帝国の都ローマで殉教の死を遂げたと伝えられています。使徒ヤコブはスペインにまで、また使徒トマスはインドまで行ったとのこと。
なぜ復活節後の教会は世界宣教を行うのでしょうか? 復活のイエスがそのことを私たちに託したから、というのが今日のテキストの内容です。その中身について、ごいっしょに考えてみましょう。
II
冒頭に、ガリラヤの山上で「11人」がイエスと再会したとあります。わざわざ「11人」と人数が限定されているのは、イエスを引き渡したイスカリオテのユダがすでに変死を遂げて、もはや「12人」から外れてしまったからです。もっともマルコ福音書によれば、裏切り者ユダが復活者イエスの顕現に接した可能性は行間に残されています。この点では、福音書間に微妙な違いがあります。
さて、いわゆる〈ガリラヤでの再会〉は先行文脈で約束されていました(マタイ28,10を参照)。しかし「山」に関する指定は、じつはありません。イエスが指定したというのは、かつて彼が変貌を遂げたガリラヤの「高い山」(マタイ17,1以下)のことではないか、という気がいたします。
興味深いのは、その変貌の場面に「人の子が復活するまで、今見たことはだれにも話してはならない」という期間限定の沈黙命令が現れることです(マタイ17,9)。今日のテキストはその禁令が解除されたことを告げています。イエスの復活をすべての民に宣教せよ、と言うのですから。
III
イエスに会った弟子たちは「ひれ伏した。しかし疑う者たちもいた」とあります(17節)。
「ひれ伏した」とは、神であるイエスの前に、弟子たちが膝をかがめて礼拝したという意味です。「しかし疑う者たちもいた」という文章は、11人のうち数名は疑ったという意味にとれます。しかしギリシア語本文をそのまま読めば、11人のすべてが「困惑した」と読むのが適切だろうと感じます。私たちも復活の主イエスに出会うとき、狼狽や困惑は避けがたいに違いありません。
続いて復活者イエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言います(18節)。「天」とあるのは、マタイ福音書で、イエスの復活は昇天とひとつのものと理解されているからでしょう。私たちの教会が大切にしている『フィリピの信徒への手紙』には、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき」(フィリ2,10)とあります。天上・地上に加えて「地下のもの」つまり死者たちの領域(冥界)を合わせて、古代の宇宙理解にいう都合三つの領域、つまりは全宇宙が復活のキリストの支配領域と考えられています。
「権能」と訳されたギリシア語「エクスーシア」は、ラテン語の「インペリウム」の対応語、つまりローマ皇帝の命令権に関連する語です。大切なのは、キリストの命令権が妥当する範囲とその内容が、皇帝のそれとは大幅に異なっていることです。
使徒パウロは、「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ロマ8,39)と言います。これに対して皇帝の命令権は、「高いところにいるもの」つまり天上界にまでは達しません。
また権能の内容は、パウロによれば「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」です。マタイ福音書であれば、「人の子〔は〕、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」というイエスの言葉が、これに対応するでしょう(マタイ20,28)。世界の支配者であるイエスの権能は、他者のために自己を放棄する点に発揮されるものなのです。
またイエスは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、弟子たちに世界宣教を委託します(19節前半)。そのさい「すべての民」の中にイスラエルが含まれるかどうかは研究者の間で議論されています。しかし何れにせよ、その委託の内容は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」こと(19節後半)、そして「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教える」ことです(20節前半)。強調点は、誰の支配下にこの共同体が属するかという点にあります。福音書が告げているのは、この群れがイエス・キリストの父なる神、その息子であるイエス・キリスト、そして活ける神の霊に属することです。
この三つの「名に向けて」沈める、つまりその支配権に浸すのが「洗礼」です。そしてこのことが信仰共同体の外枠であるなら、イエスの教えを実行するのが内的な実質です。イエスが何を命じたのかを知りたければ、本福音書を読み直すようにという意味でもあると思います。
それでも「すべての民」と言われていることに注目して下さい。私たちの教会もまた、特定民族に限定されない諸民族からなる群れに属しています。
IV
よく知られているように、この発言は福音書全体を包む「枠構造」を作っています。すなわち福音書の冒頭で、天使ガブリエルがガリラヤの少女マリアに向かって告げる受胎告知に関連して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、〈神は我々と共におられる〉という意味である」(1,23)とあることと、今日の箇所が、「〜と共にいる」という共通モチーフによる枠をなしているのです。
この枠構造は、〈神がイスラエルの民と共にいる〉という約束が、〈復活者イエスが弟子たちと共にいる〉ことで成就したことを示しています。そのさい「すべての民」「すべての日々」とあるのですから、21世紀に日本で生きる私たちもそこに含まれる、と理解して差し支えありません。
V
「あなた方と共に」――イザヤのインマヌエル預言(イザヤ7,14)は、前後の文脈を見れば「ヤハウェの戦争」という民族自存の問題であり、そこにいう「神我らと共に」とは軍事的解放者への期待です。ところがマタイ福音書の復活者イエスは、他者に仕えることで自らの命を投げ出す存在です。なるほど現代日本でも「民族」や「国家」は時代のキーワードですが、それらに属することが私たちの最終的な救済を保証するものでないことは心に留めておきたいと思います。
他方で、この世には惨いとしか言いようもないできごとが、じっさいにあります。どうして私にこんなことが起こるのかという問いは、大震災を経験した私たちの時代のものでもあります。マタイ福音書で復活のイエスがどのような姿で現れたのかは不明です。西欧のキリスト教美術は、世界宣教を命じるキリストを「万物の支配者」つまり全宇宙の「王」のイメージで描いてきました。しかしキリストが「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ために来た存在であるならば、――他の福音書にも証言されているように――彼は十字架の拷問の傷跡をもっていたのではないでしょうか。ならばこの復活者は、この世界の悲惨をわが身に体験して知っている存在です。
そして最後に、マタイ福音書のイエスに、次のような言葉があることを想起しましょう。すなわち「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18,20)。この言葉に照らせば、私たちのテキストは過去のできごとの即物的な報告というよりは、むしろマタイ教会の現在の神経験を解釈するものです。そしてこの点で、私たちはマタイ福音書に描かれているのと、まったく同じリアリティーを生きています。