2013.4.7

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「あなたがたを遣わす」

廣石 望

イザヤ書6,1-8 ; ヨハネによる福音書20,19-29

I

 復活信仰は、福音書ではさまざまな仕方で、しかし何よりもイエスの顕現物語を通してとりわけ明瞭に表現されています。

 今日の聖書箇所は、新共同訳聖書では〈イエス、弟子たちに現れる〉(19-23節)と〈イエスとトマス〉(24-29節)という小見出しつきで、二つの段落に分けられています。それでも、とくに「あなたがたに平和があるように」というイエスの挨拶が都合3回くりかえされていることに注目して(19.21.26節)、第一段落をさらに二つに分けて、つごう3つのユニットから成っていると見ることもできるでしょう。

 つまり「週の初めの日の夕方」、弟子たちが家に鍵をかけて立てこもっている中に、イエスが顕現したというのが第一段落(19-20節)。次が、イエスが「聖霊を受けなさい」と言って、罪の赦しに向けて弟子たちを派遣する部分(21-23節)。そして最後の段落が、「八日の後」(26節)、つまり一週間後に生じたトマスのエピソード(24-29節)という理解です。

 これらのユニットに共通する要素として、イエスが「来る」こと、平和の挨拶、そして弟子たちの変化という3つがあります。

 先ず、イエスは「来る」と言われています(19.24.26節)。――このさりげない言葉は、イエスの側からの思いがけないイニシアティヴを示唆します。先週の復活祭礼拝でふれた「世界に愛がやってくる」という詩にもあるように、イエスは〈来てほしい〉と乞われたわけでなく、むしろ思いがけず、いわば自分から勝手にやってきます。

 復活者イエスの到来は、その意味で偶然です。そこには、〈どうしたところで来るほかない〉といった必然性はありません。また彼の到来は、欠けているものを補って〈穴埋め〉するためでもありません。たしかにこの世界には欠けているものはたくさんあります。しかし例えば荒野の給食奇跡で、パンと魚の残りが12の籠にいっぱいになったとあるように(マルコ6,42参照)、彼の恵みは必要を満たすことを常にはるかに超えます。この偶然は、必然や必要以上のものです。

 次に、「あなた方に平和があるように」という挨拶は、日常的な挨拶とも言えますし、復活者イエスの新しいメッセージとも言えます。――復活信仰と「平和」が大いに関係があります。平和(シャローム)は被造世界におけるあるべき相互関係、つまり人間相互、人と他の生き物および環境世界との関係と並んで、神との平和を含みます。〈食うか食われるか〉の関係は終わる。新しい命の創造が、そのことを人に思い起こさせます。

 そして第三に、イエスの顕現に接した者たちの変化が3つのユニットに共通しています。――最初、弟子たちはユダヤ人を「恐れて」いましたが、イエスを見ると「喜んだ」と言われます。続いて弟子たちは「あなたがたを遣わす」というイエスの派遣を受けて、立てこもり状態からの方向転換が告げられています。そして「わたしは決して信じない」と言っていたトマスは、復活者イエスに向かって「わたしの主、私の神よ」と告白します。こうまであからさまに〈イエスは神だ〉と言われている箇所は、新約聖書の全体を見渡してもあまりありません。

II

 これら三つの段落は、一つの同じできごとを三つの側面から描いているのではないでしょうか。そう感じさせる要素が他にもあります。

 例えば、第二段落でイエスは「あなたがたを遣わす」と言いますが、続く第三段落の弟子たちは、第一段落と同様に「家」の中にいて、あいかわらず「戸にはみな鍵をかけて」います(26節)。えらくのんびりしているではありませんか! 派遣命令を受けてから一週間、彼らはいったい何をしていたのでしょうか?

 その最後の段落でトマスに現れたイエスは、自分の手や足の傷にさわってみるよう促しますが(27節)、この所作は最初の顕現のときと基本的に同じです。すなわち「そう言って、手とわき腹をお見せになった」(20節)。トマス以外の弟子たちは、これをつごう2度目に見ていたことになります。イエスは2回とも、同じことをするために顕現したのでしょうか…。

 そんなわけで、先に区別した3つの段落は、なるほど時系列に並べられてはいるものの、じっさいには復活信仰の誕生という一つの同じできごとの意味を、別々の角度から物語るものとして読むことも可能だろう、と思うわけです。

 そこで今日は、この物語を後ろから〈試し読み〉してみましょう。復活信仰とは〈イエスが来て平和をもたらす〉ことへの信頼だという理解が最終到達点になります。

III

 一番最後のイエスの言葉、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)から始めましょう。

 「見ないで信じる」とは、復活者をこの目で見ないままに復活信仰をもつという意味です。これは、ヨハネ福音書の背後にある共同体の信仰状況に一致する発言です。私たちの場合も同じで、例えば復活祭礼拝を祝う礼拝堂のベンチにイエスが座っているわけではありません。皆が〈イエスを見ることはできない〉という状況から出発します。

 じつは一般の社会生活においても「信頼」は重要です。そしてその基本はやはり「見ない」こと、チェックしないことにあります。例えば電車に乗り込むとき、たまたま隣に座った乗客の身分証明やかばんの中身、ひいては携帯メールの通信記録などを「見る」ことは普通しません。見なくてよいというのが信頼ベースの社会のあり方です。これは、たんに効率のためというより、そもそも基本的な安心のために重要なのです。

 ひとつ戻って、次に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)という発言を見ましょう。――復活者の身体に残る虐殺の傷跡は、いったい何を意味しているのでしょうか?

 からだに触らせることができる以上、イエスが肉体をもって復活したと理解する人もいるでしょう。でもその場合、いったいどうやって扉が閉まっている家の中に突然に入って来るのでしょう。イエスの身体は霊体と肉体を自由に入れ替えることができる、とでも言いたいのでしょうか…。

 この発言の元来の意図は、しかし、〈復活者はあの磔刑者だ〉つまり〈生きているイエスは、あのとき殺されて今は死んでいるイエスと同じ人だ〉ということにあったと思います。私たちに顕現したのは、誰だか知らない天使や何かの神格ではなく、あの死せるナザレのイエスだという意味です。それが証拠に、復活者のからだには拷問と虐殺の跡が残っていると。

 磔刑者と復活者が同一人格であることは、復活信仰の最も基本的なポイントです。そしてこのことは〈見ないで信じる〉ときにも当てはまります。

 さらに戻って、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(22-23節)――これはペンテコステのできごとですね。

 聖霊降臨のできごとが、ヨハネ福音書では、イエスの顕現場面にすでに含まれています。弟子たちに「息を吹きかけて」とあるように(22節)、イエスの発言は聖霊を与えることの予告でなく、じっさいに与えているのだと思います。

 その目的は「罪の赦し」です。とても大きな役割で、いったい何をすればよいのか戸惑うほどです。それでも教会は、この世界にある罪、例えば戦争のような赦しがたく重い罪、あるいは震災による大量死や事故・犯罪被害、病気や差別のような意味不可解な苦しみに対して大きな責任があることは確かです。イエスの復活がそれを要請するのです。

 では一番最初に戻って、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)に注目しましょう。

 イエスとの出会いは生ける死者との再会です。――この世を去って今は不在のイエスが、どのようにして私たちと共にいるのかという大きな問いに、ヨハネ福音書がどう答えているかご存知ですか? 〈聖霊によって〉というのがその答えです。

 聖霊によるイエスの現臨は、生前のイエスとの交流と比べても次元が上がっています。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16,13)。弟子たちは「主を見て喜んだ」。聖霊によるイエスとの出会いも同じことです。私たちが主の名によって再会するとき、そこには「喜び」があります。そしてそこには――使徒信条に「聖徒の交わり」と告白されているように――世を去った人々との交流も含まれています。

IV

 以前に、作家の椎名麟三氏(1911-1973年)が書いた「『復活』と私」(1966年)というエッセイをご紹介したことがあります。

 疲れ果てて聖書を読んでいると、イエスがガリラヤの湖のほとりで弟子たちに顕現し、茫然として信じられない弟子たちの前で、むしゃむしゃ魚を食べてみせたという場面に出会います。一部を引用します。

「イエスは自分を信じない者のためにどんな奇蹟をあらわされたか。とんでもない、くだらなくも焼魚の一きれをムシャムシャ食って見せられているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた。」(引用は、大貫隆〔編著〕『イエス・キリストの復活 現代のアンソロジー』日本キリスト教団出版局、2011年より)

 イエスの愛――弟子たちがいっしょにいる。そのとき、霊なるイエスが共にいる。その臨在のしるしが「信頼」と「赦し」と「喜び」であることを、今日の物語は告げています。そのとき復活のイエスは、私たちにこう告げるでしょう。「あなたがたに平和があるように」。そしてこの言葉をもって、主イエスは私たちを世界に向けて遣わすと思います。


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