2013.3.17

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「仕えるために」

廣石 望

エレミヤ書13,15-22 ; マルコによる福音書10,35-45

I

 受難節も第5週に入りました。今日のテキストの末尾で、イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言います(45節)。ふたつの文章は互いに補い合ってひとつのことを述べているのでしょう。すなわちイエスの生は「仕える」ためであり、その奉仕の生は十字架の死に極まり、その死は人々に「解放」をもたらすものであった、というつながりです。奉仕の生と解放をもたらす死は、表裏一体の関係をなしていると思います。

 現在、「ボランティア」と呼ばれる活動があります。キリスト教系の大学には、ボランティアセンターを設置しているところが少なくありません。

 その場合ボランティアとは、社会の中に確かに存在するが必ずしもカバーされていないニーズを発見し、広く仲間たちを募り、企画や立案およびプロジェクトの実施を協働して行った後で、成果に関する自己評価とともに公表する、というスタイルをとると思います。

 イエスは〈よい行いをするとき、これを他人に見せびらかすな〉と教えますが(マタイ福音書6,3-4参照)、教育におけるボランティアの場合は〈よいことを行え、そしてそれを他人にも言え〉というのが基本です。

 他方で、ボランティアに対する疑問もあります。例えば、本当に受益者の役に立っているのか、むしろ自分はよい人間だと思いたい人の自己満足ではないのか、と問う人がいます。奉仕する人に対する周囲の評価を高めるための偽善行為ではないのか、という疑問もあるでしょう。あるいは私たちは日々苦労して働いて生活の糧を得ているのであり、他人にお金や時間を分け与えてやるいわれはない。そんなことをしたところで貧困者の問題は解決しない。むしろ政府や自治体による自立および就労支援が大切だ、といった批判もあると思います。

 いったい誰が、誰に対して、何をすることで仕えるのでしょう? そしてその人には、場合によってはどのような報いがあるのでしょうか?

II

 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書では、3度目の受難復活予告の直後という文脈にあります。イエスがいよいよ、受難の運命が待ち受けているエルサレムに向かって歩み始めるとき、もう一度、受難と復活について予告するという場面です。

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ福音書10,32-34)

 そのすぐ後で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が、イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と申し出たというわけです(37節)。

 イエスのエルサレム上京の目的について、弟子たちや従う者たちの間に、混乱があるようです。――同行者たちは、イエスの只ならぬ決意のさまに「驚き」「恐れた」一方で、ヤコブとヨハネの兄弟は、イエスにむかって「(あなたが)栄光をお受けになるとき」と言います。神の名によって行動してきたイエスは、ついにその全権要求を聖なる都エルサレムで公にするだろう。そして私たちは、宗教的な権威あるグループになる。どうぞそのときには、私たちをあなたの王国のNr.2とNr.3にして下さい!――しかしこの申し出は、内容的に、直前の受難復活予告を無視しています。イエスは〈自分は殺される〉と言っているのですから。

 マルコによる福音書には、このような、弟子たちがイエスの真意を理解しないという場面が繰り返しあらわれます。「弟子たちの無理解」のモチーフと呼ばれるものです。それは歴史的な事実の忠実な再現というより、イエスをどう理解してはならないかを示す文学的な技法であるようです。今回であれば、イエスの受難と復活の運命は、政治的なメシア運動と混同されてはなりません。

III

 さて、二人の兄弟の願い出に対するイエスの返答は独特です。

確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。(39-40節)

 「杯」や「洗礼」といった表現は、受難を示唆します。つまりイエスの発言は、ゼベダイの二人の息子たちについての「殉教」預言なのです。じっさい後にヤコブは、ユダヤの王ヘロデ・アグリッパによって斬殺されたことが使徒言行録から知られています(使12,2参照)。マルコ福音書の読者は、この事実を知っているでしょう。

 さらに「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」といった発言を見ると――じっさいにイエスの「右と左」につけられたのは二人の強盗でした(15,27参照)――、イエスに従って殉教することは功徳であり、神から特別な報償をいただけるといった思想は、マルコ福音書にはどうやらなさそうです。

 続いてイエスは「十二人」をみな呼び寄せて教えます。そこでは「異邦人」と「弟子たち」のあり方が、鋭く対比させられます。

あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(42-44節)

 まず異邦人の間には〈異邦人たちを支配していると見なされている人々〉と〈異邦人たちの大いなる者たち〉がいます。前者はローマ人のこと、そして後者はローマ帝国支配下の民族支配者たち、例えばユダヤ民族への支配権を元老院から認められたヘロデ家の王たちのことです。つまり二重支配ですね。しかし彼らは一様に、「トップダウン」式の支配権・命令権を諸民族に対してふるっていると言われます。

 他方で弟子たちについては、〈君たちの間で大いなる者であろうと欲する者がいるなら、その人は君たちの奉仕者になるがよい〉、〈君たちの間で第一者であろうと欲する者がいるなら、その人は万人の奉仕者になるがよい〉と言われます。「大いなる者」とか「第一者」などの表現は(新共同訳の「偉くなりたい」「いちばん上になりたい」を参照)、ローマ皇帝のとりまきや皇帝自身を指す表現(magnusやprincepsなど)への当てこすりです。

 イエスの教えは、ローマ皇帝による支配に象徴的に現れるような、上昇志向と権力志向を逆転させるものです。むしろ万人に対する「奉仕者」「しもべ(奴隷)」であることが、弟子たちに求められています。

IV

 その上でイエスは、彼の使命について、冒頭に引いた言葉を語ります。

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 イエスの使命は「仕える」ことであり、彼は「多くの人々」つまり万人の身柄を解放するための「身代金」として自らの命を払った。――この言葉は、イエスの復活を信じるようになった人々が、彼の十字架の死を「私たちのため」の死と理解するようになり、その死に極まるイエスの生涯を「奉仕」と呼ぶことで生まれたのだろうと思います。

 十字架刑は、ローマ帝国が属州民ないし奴隷に限って、例えば主人を殺害するとか権力に歯向かって武力闘争を行うなどの重大な罪を犯した者に科した残忍な処刑法でした。イエスの処刑は、今で言うなら、紛争地域で地元出身の「テロリスト」の一人が多国籍軍の部隊によって処刑されるようなものです。

 そのイエスの生を「奉仕」と表現したり、その死を「身代金」と呼んだりするには、復活信仰が必要です。神がイエスを死者たちから起こしたという信仰があって初めて、イエスの死もまた、神の救いの計画に属するできごとと理解することが可能になります。

 さらに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」という教えは、このイエスの生と死が、弟子たちにとってのモデル・手本になっていることを示しています。

V

 いったい誰が、誰に対して、何をして仕えるのでしょうか?

 イエスは万人を解放するために、自らの命を放棄することで人々に仕えたと言われています。彼の死、命の差しだしは、神殿祭儀における浄罪の供犠というよりは、むしろ家族・友人・祖国を解放するための賞賛に値する自己犠牲と理解されています。

 いったいそれが、何からの解放であったのかは明言されません。あえて文脈から推察すれば、それが支配欲や権力欲、上昇志向や名誉欲からの解放を含んでいると理解してよいでしょう。

 他方、弟子たちが奉仕する場合はどうでしょうか。「万人の奉仕者・奴隷」というのは、まだ具体的な社会改革のプログラムとは言えません。しかしここに、この世の支配構造に対するアンチテーゼ、価値観の逆転があることは明瞭です。

 「あなたがたの間」とは、具体的には教会および近隣のことでしょうか。その場合、奉仕の受益者は信仰上の同胞たち・隣人たちです。具体的に何をするのかは不明ですが、イエスが手本である以上、究極的にはそうした他者のために命を棄てることが求められているのだと思います。

 では仕えた人は、誰から、どのような褒美を受けるのでしょうか? イエスについても弟子たちについても明言はありません。しかしイエスについては復活予告が先行していました。「人の子は三日の後に復活する」(10,34)。――これをイエスが受ける、奉仕としての自己犠牲に対する報いと見なしてよいでしょうか。もしそうなら、こう言えると思います。すなわちイエスの仕える生に報いたのは神であり、それがイエスの死後に初めて生じている以上、この世界には誰からも積極的に承認されず、むしろ神だけが報いるような奉仕があってもかまわないと。

VI

 ずいぶん壮大な話しのようで、凡人である私たちは気が引けてしまうかもしれません。私たちにできることは限られているし、何の手ごたえもない奉仕活動は、やはり長続きしないでしょう。

 この2月に引率した南インドへの研修旅行から、ヒントになるかもしれないエピソードを二つ、ご紹介します。

 一つ目は、あるブラーミン(神官)階級の方の発言です。私たちは滞在中、日本ではもう見られなくなった全国ストライキに遭遇しました。最近の急激な物価上昇に抗議するためです。そのストライキを評して、そのブラーミンの方は「インドの労働者は怠け者だ。働かないで賃金を得ようとしている」と言ったのです。

 なぜ彼はそんなことを言うのか?――私たちが辿りついた解釈はこうです。ヒンドゥー教の伝統では、土地の多くはブラーミン階級の所有であり、その土地で日雇い労働者たちが――多くがダリット、つまりアウトカーストの人々です――、1日2ドルほどの低賃金で働いています。じっさいストライキの期間中も、幹線道路を外れた小さな道端では、炎天下に裸足で建設工事に従事している人々を見かけました。彼らは生活のために必死で働いています。なのに、彼らが長時間の重労働の合間に休憩していると、お金持ちの人々は「あいつらは怠けている」と言う。つまり上流階級の人々には、日雇い労働に携わるダリットの人々が、自分たちと同じカテゴリーに属し同じ権利をもつ人間とは(まだ)見えていないようなのです。

 日本ではどうでしょうか?――私たちの社会にも権力志向・財力志向・快楽志向があります。そのせいで見えなくなっている人々がいるのではないか?

 もう一つのエピソードは、マルトマ教会の婦人部が運営している女子孤児院を訪ねたときのことです。少女たちは、初めは礼儀正しく並んで床に座り、大人たちがスピーチするのを静かに聞いていました。でもその間も、日本人の学生たちが手を振ると、何人かが嬉しそうに手を振り返しました。そして待ちきれなくて、少女たちは座ったままで学生たちの方に、にじり寄って来るのです。やっと大人たちのスピーチが終わると、飛び出してきて日本の学生たちと声をあげて遊び始めました。

 このように「仕える」とは、階級の違いや権力関係から解放されて、喜びの時間を共有することから始まると思います。イエスの生もそうであったに違いありません。

 
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