先週の13日(灰の水曜日)から40日間の受難節が始まった。この時期に、イエスの愛と苦しみに満ちた生涯に思いを馳せるのは相応しいことである。
マルコ福音書1,14-15に、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を告げ知らせて、『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見なおし、福音に信頼してあゆみを起こせ』と言った」(本田哲郎訳)とある。福音を告げ知らせるために、イエスは先ずガリラヤへ行った、というのである。
ガリラヤというのは、神殿のあるエルサレムから北へ100km以上も離れた辺境の地で、当時、「異邦人のガリラヤ」(マタイ4,15)と呼ばれ、また、そこの住民は「暗闇に住む民・・・死の陰の地に住む者」(4,16)などと偏見を以て見られていた。つまり、「ユダヤ社会の底辺」(本田哲郎)である。イエスは先ずそこへ行った。そして、どこよりも先に病人や障害者など底辺に立つ人たちのところへ行き、「手を差し伸べてその人に触れた」(1,41)のである。
その当時は「因果応報」という考え方が一般的で、病気や障害は本人あるいは肉親の罪の結果であると見られていたし(ヨハネ福音書9,2)、心を病む人は「悪霊につかれた」(マルコ1,32)として忌み嫌われていた。だから、病人や障害者は病気そのものよりも、むしろ周囲の偏見によって苦しめられていたのである。この人たちのところへ、イエスは先ず足を運んだ。彼は一切の偏見を持たず、すべての人を分け隔てなく受け入れ、彼らと同じ低みに立って、彼らへの愛のために遂には自らの命を投げ出した。このようなイエスの愛が、偏見に苦しむ病人や障害者を救ったのである。偏見を乗り越えて「共に生きる」。これこそ、イエスの解放の業であった。
だが、イエスはこの解放の業を単独で成し遂げたわけではない。今日のテキストには、彼の業に参加した周りの人々のことが書いてある。「船からあがると、人々はすぐにイエスだと知って、その地域一帯をかけめぐり、どこでもイエスがいると聞いたところに、ぐあいをわるくしている人を担架にのせて連れて来た。村でも、町でも、里でも、イエスが入っていくと、人々は体の弱った人たちを通りに横たえ、服のすそにでもつかまらせてくれと頼んだ。つかんだ人はみな元気になった」(マルコ6,54-56)。
この「人々」というのは、名も無い不特定多数の人々のことである。いささか騒々しいが、素朴な善意だけは持ち合わせている。イエスの周りにはこういう人々がいて、彼の仕事を手伝ったというのである。
今日の旧約聖書に、私はイザヤ書55,8-11を選んだが、そこには「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われている。
この言い方で、イザヤは、神の言葉の周囲には、それに奉仕する人々が必ず現われるということを言いたかったのではないか。我々も、教会に連なることによって、神の言葉の力ある業に参加することを許されるであろう。
ところで、私は最近、ショーン・エリス著『狼の群れと暮らした男』(築地書館、2012年)という本を読んで大いに感銘を受けた。この人は1964年生まれの英国人である。祖父の影響もあって、幼少の頃からさまざまな動物たちと親しく交わりながら育った。その内にオオカミに関心を持つようになる。やがて米国に渡り、アイダホ州の先住民ネズパース族が管理するオオカミの群れに交じって暮らし、彼らの仲間として受け入れられた。この経験に力を得た彼は、野生のオオカミとの接触を求めて単身ロッキー山脈に入り、苦労の末、遂に野生オオカミの群れとの接触に成功、2年間、その群れと一緒に暮らした。この稀有な体験を記録したのがこの本だ。
帰国後、エリスさんはロンドンの近くにある野生動物センターでオオカミの飼育に携わっているが、ある日、一人の男が遥々800kmも離れたスコットランドから息子を車に乗せてオオカミに会いにやって来たことがある。その息子は心身に重い障害を持っていて、父親によると今まで全く言葉を話したことがない。「どんなことにも全く反応したことがなく、生まれてこのかた一度も感情を表したことがない」という。
エリスさんは、どうすればいいのか全く自信を持てないまま、とにかく1頭の子オオカミを連れて来た。生後3ヶ月ほどの、「ザーネスティー」という名の子で、生まれたとき親に踏まれて顎の骨を潰されるという災難に遭っていた。そのために飼育係の世話を受けて、ある程度人間に慣れていた。エリスさんは、その子オオカミを両手で掴んで少年の前に置いた。すると奇跡的なことが起こった。引用する。
「少年を見た瞬間に、ザーネスティーはぴたりと動かなくなった。この子オオカミは少年の目を覗き込み、両者は互いをじっと見つめ合った。それから、子オオカミは後ろ脚を腹の下にしまって座り、前足を前方に伸ばした。私は片手を放してみたが、すぐ、もう一方の手を放しても大丈夫だとわかった。数瞬後、その子オオカミはまだ少年の目を覗き込みながら、体を前に乗り出し、少年の顔を舐め始めた」。
エリスさんは驚いて、止めさせようとした。オオカミの子どもが親に餌をねだるとき、親の口を舐めながら咬みつくことがよくあるからだ。だが、ザーネスティーは咬まなかった。ただ、とてもやさしく少年の顔を舐めるだけだった。引用を続けよう。
「少年を見ると、彼の右目から一筋の涙が湧き出で、それから頬を静かに流れ落ちるのが見えた。・・・父親の方に目を向けると、この大柄で屈強な、行動力のあるスコットランド男は、目の前に繰り広げられているシーンを見ながら、頬から涙を流していた。子オオカミは、あっという間に、人間がこの十四年間どんなに苦労してもなし得なかった形で、少年の心を揺さぶったのだ」。
我々が子供の頃から親しんできた絵本や童話では、オオカミはほとんど常に、悪賢く、邪悪で、凶暴な存在である。残念ながら聖書でもそうで、ヨハネ福音書は共同体に敵対する人をオオカミに譬えている。「狼は羊を奪い、また追い散らす」(10,12)。パウロも同様だ。「残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んできて群れを荒らす」(使徒言行録20,29)。
このようなマイナスのイメージは、いつの間にか人の心の中に深く根を下ろす。蛇が人々にひどく忌み嫌われるのも、創世記3章に、人類を誘惑した「よこしまな知恵」の象徴として描かれ、「あらゆる野の獣の中で呪われるものとなり、生涯這いまわり、塵を食らう」(14節)と宣告されたことと無関係とは思われない。
このような負のイメージから先入観が生まれ、偏見はあらゆる悪意や争いを生む。ヒトラーのあの恐ろしいユダヤ人迫害も、ユダヤ民族に対する先入観がもたらした結果であった。我々は、あらゆる先入観・偏見から自由でありたいと心から願う。
エリスさんの話に戻るが、幼少の頃は不必要にオオカミを恐れ・憎む先入観が彼の中にも抜き難くあったという。だが、今日の週報のコラムにも書いたように、実際に正面からオオカミと向き合うことによって、彼はその先入観から解放された。我々が彼の本から学ぶべき最大の教訓はこのことであろう。
ただ、今日の説教の終わりに、ぜひ言っておきたいことがある。聖書がある点で先入観を植え付ける作用をしたことは、私も認める。だが、聖書はもっと重要なことを約束している。このことを我々は見落としてはならない。それは、世の終わりに神の国が完成するとき、人はすべての先入観から解放されるということである。すなわち、
「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ書11,6-9)。
そして、イザヤが約束したこの「終末の完成」は、前述したイエスの愛において既に先取りされ、成就されているのである。すべての人は、この愛を知ることによって悪しき先入観から解放される。ヨハネの手紙一3,16に、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と言われているのは、我々もイエスによって既に先取りされた「先入観からの解放」という業に参与すべきだという意味に違いない。
(2013年2月17日、代々木上原教会における説教)