2012.7.1

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「人を義とする神」

廣石 望

イザヤ書56,1-8 ; ローマの信徒への手紙8,31-39

I

 この世界で起こっていることを見るとき、楽観的に未来を信じて生きることは容易でないと感じることがありえます。

 強い者が思い上がりからか、あるいは「責任」という名の既得権益を失うことへの不安からか、どう見ても合理的とはいえない決断を下すのを、政治家たちは止めることができません。

 福島県の乳幼児約2000人の尿を検査したら、140人ほどから放射性セシウムが検出されたと聞きました。あるいは福島第一原発の破壊された4号機の燃料プールでは、冷却装置が作動しない状態が、これまで何度か生じているとのこと。原発の再稼働に対する国民の不安は理由のないことではありません。なのに、官邸前に集まった数万人の市民を前に、首相は「大きな音がしますね」と発言したという。

 個人な領域でも、どうしてなのかと思うことは起こります。つい先日、知人のお母さまが亡くなられました。医療機関のミスで肺炎を起こした疑いがあるそうです。自分が病気になることもあります。私など少しぐあいが悪くなると、よたよた歩きながら、どうしようかと不安になります。若い学生たちも、将来への不安からか、突然に投げやりになるので心配することがあります。

 今日の聖書箇所でパウロは「艱難、行き詰まり、迫害、飢え、裸、危険、剣」という困難を列挙しています(35節)。彼は都市ローマで斬首による殉教の死を遂げたと伝えられていますので、最後の「剣」という言葉は決して大げさでありません。彼が直面した状況は、私たちに比べれば、はるかにこの瞬間にも差し迫ったものであったでしょう。

 それでも、私たちの世界もまた、相当に行き詰まってきているという予感をぬぐうことは難しい。突然にひどいことが降りかかってくることのあるこの世界で、私たちはいったいどうやって、最後の最後に誰かを信じ、心から神に頼ることができるでしょうか?

II

 今日のテキストでパウロは、「神が私たちの味方だ」と言います(31節)。そして「誰が私たちに敵対できるか?」、「誰が神の選ばれし者たちを告発するだろうか?」、「断罪する者とは誰か?」、そして最後に「誰が私たちをキリストの愛から分離するだろうか?」と、つごう四度「誰が」と問います(31-35節)。そんな者は誰ひとりいない、というのがそのつどの答えです。神が私たちのために存在しているのだから。いったい、その根拠は何なのでしょうか?

 二つのことをパウロは言います。ひとつは、神が「ご自身の御子を惜しまず、私たちすべてのために彼を引き渡した」ことです。だから神は、御子とともに、万物をも私たちに恵み与えるだろうし(32節)、その神が人に「義の宣告を下す」だろう(33節)。もうひとつは、キリストについての発言です。「死んだが、むしろ起こされたキリスト」その人が、「神の右にもおり、私たちのために執り成してもいる」(34節)。

 では、私たちはどのようにして、神やキリストが「私たちのため」、つきつめれば「私のため」の存在であることを確信できるのでしょうか。そもそも決して楽園とは言えないこの世界で生きている人間を神が「義とする」とは、いったい何のことなのでしょう?

III

 私たちはどのようにして、神が「私たちのため」の存在であることを確信できるかという問いに対して、世の誰もが反論できないような客観的な証拠に基づく答えは存在しないことを私たちは知っています。

 信仰は、人がそれを認めると否とにかかわらず強制的に妥当する、例えば物理法則のようなものとは違います。それは私たちの個別的な経験や、そうした経験をどう理解するかという「自覚」の問題に深く関わっています。信仰は、人が自分の人生を賭けて初めて気づくもの、目を開かれるものです。医学や生物学や統計学のデータに基づいて証明されたり、反証されたりするものではありません。

 だから、とりあえずこう問うてみてよいでしょう。パウロは、どのような経験をし、それを何だと受けとめたのか? そしてその後で、私たちはどうなのかを問うてみたいと追います。

IV

 直前の文脈でパウロは、「神の計画に従って召された者たちには、万事が益となるようにともに働く」と述べていました(8,28)。この発言の背後には、伝道者としてのパウロの経験と感謝があるでしょう。

 とはいえ、パウロと同時代の原始キリスト教は決して一枚岩ではなく、いろいろな路線の違いからくる葛藤があったことが知られています。パウロの時代のキリスト教は、まだユダヤ教内部の一分派でした。そしてユダヤ教はもともと改宗者を受け入れることはしましたが、異教徒を自分たちの内部に組み入れようとすることにそれほど熱心ではありませんでした。民族宗教であったからです。

 その中でキリスト教、ないしその一つの流れは、驚くほど積極的に異邦人伝道を推し進めた。その結果、異邦人でキリストを信じるようになった人々を、どう位置づけるかという問題をめぐって、路線の違いが生じたのです。

 まず、ユダヤ人の民族宗教の枠内でキリスト教を理解する人々がいました。つまりキリスト教に入信するには、ユダヤ教への改宗が事実上の条件になるという考えです。ガラテア教会の異邦人信徒たちに割礼と律法順守を求めた人々は、こうした考えに立っていたと思われます。

さらに異邦人キリスト者にユダヤ教への改宗までは要求せず、しかしユダヤ人キリスト者との共同の食事を可能にするために、最低限の清浄規定を守ってくれるよう求めた人々がいました。このいわば妥協的中道ともいえる路線は、バルナバをはじめとするアンティオキア教会と主の兄弟ヤコブを中心とするエルサレム教会が、相互に歩み寄ることで生まれました。

 そしてもうひとつ、異邦人キリスト者に対して、従来の多神教を放棄することを求める一方で、ユダヤ教の祭儀規定および清浄規定の遵守をいっさい要求しない、という立場がありました。これがパウロの立場です。「キリストにあっては、もはやユダヤ人とギリシア人の区別はなく、奴隷と自由人の別はなく、男と女の区別もない」(ガラテヤ3,28参照)。

 つまりパウロは原始キリスト教の諸潮流の中で、もっともラディカルな平等路線を提唱し実践した一人です。もっともこの平等思想は、異邦人とユダヤ人の両方から大きな反発を引き起こしました。民族と社会身分そしてジェンダーの違いは、どれも古代人にとって、自分が何者であるかを知るための大切な規準だったからです。

 さらにパウロが『ローマの信徒への手紙』を執筆したとき、彼は長年の開拓伝道を通して設立した異邦人諸教会からの献金を、エルサレム原始教団に持参することを計画していました。しかしエルサレム教会が、ユダヤ教に改宗しない異教徒からの献金をつっぱねる可能性があると考えていました。当時のパレスティナで、民族主義的な傾向が強まっていたからです。

 他方で都市ローマのキリスト教会は、ユダヤ人と異邦人の両方のグループがありました。このローマの信徒たちに向かってパウロは、「君たちには互いに愛し合うことの他、何の借りもあってはならない」と言います。民族間の融和を勧告しているのだと思います。そしてパウロの念頭には、異邦人教会とエルサレム教会の関係についての思いがあったことでしょう。

 つまりパウロが、「神は私たちすべてのために御子を引き渡した」、「キリストは神の右にあって私たちのために執り成しておられる」と言うとき、その背後には、民族間憎悪が原因でキリスト教会が分裂しかねないという危機的状況、自分の努力がムダになるかも知れないという懸念があったと思います。

V

 「艱難/行き詰まり/迫害/飢え/裸/危険/剣」は、いわゆる混成教会を設立および維持し、エルサレム原始教団との関係を保持しようとしてきたパウロが直面した、さまざまな危機と関係していることでしょう。

 彼が詩編(44,23)を引用して、「私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている」と言うのは――「あなたのために」とは「キリスト信仰のゆえに」という意味なのでしょう――、まさにその通りだったのではないかと思います。

 そして彼は、この経験をどう受け止めたのか?――「神が、万物を私たちに賜らないはずがあろうか」(32節)、「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができようか」(35節)――これがパウロに開かれた自覚的な理解です。彼はあらゆる苦しみや危機の中にあって、「私たちを愛した方〔キリスト〕を通して、輝かしい勝利を収めている」と理解したのです(「勝利してあまりある」という翻訳の方が原文には近いようです)。

 たしかなのは、パウロのいう「キリストの愛」が、苦難に対する予防接種のようなものではないことです。苦難は避けることができません。それでも「キリストの愛」は、さまざまな困難に取り囲まれても、これに負けないようパウロを励ます、超越的な活力のようなものなのだと感じます。

 しかしパウロには、仮に路線が違ったとしても、同じキリストの福音を担う者たち――すなわち主の兄弟ヤコブ、イエスの生前からの弟子ペトロ、アンティオキア教会で彼を育ててくれたバルナバなど――との心のつながりが、そして何よりもパウロを支えてきた異邦人諸教会の信徒たちとの確かな信頼関係があり、それが彼を支えたに違いないと思います。

VI

 では私たちはどうでしょうか?――私たちは何を根拠に、神やキリストが「私たちのため」の存在であることを知るのでしょう?

 一般的な答えはありません。それは先に言ったように、個人の経験と自覚を通して知るほかないからです。しかし教会に通っている私たちが知っていることがある。それは、私たちが信仰の仲間たちの祈りによってプロテクトされているという事実です。

死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。

 当然のことですが、「主キリストにある神の愛」は人を通して示されます。私たちは、しばしば目先の利益や保身から行動し、困難な状況にある人がいても真に同情して行動することもできません。なのに、ときに小さなことで絶望し、場合によっては死の誘惑に魅入られてしまう。そのような私たちのために祈り、必死でつなぎとめようとする人々の祈りを通して、神の愛は表われます。

 他でもないイエスが、他者に対してそのように生きました。神が人を義とする存在であるのは、このイエスがキリストであるからです。

 
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