2012.06.03

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「顔と光」

廣石 望

出エジプト記34,29-35 ; コリントの信徒への手紙二 3,6-18

I

先週、私たちは今年の教会暦で聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝いました。今日のパウロのテキストは「顔」、そして「光」という表現を使いながら、とくにモーセ律法との関係で、神ないしキリストの現臨について述べています。

そもそも人間は、「顔」の表情に優れた生き物です。例えば証明写真がそうであるように、顔はその人本人を表します。誰かに会うとは、その顔に接することを含みます。顔を見れば、その人がそこにいること、喜怒哀楽の感情、そして私に向けられる眼差しが分かります。顔は、人格の現臨そのものです。

他方で私たちは自分の顔を、自分の目で「じかに」見ることはできません。どんなに鏡を覗き込んでも左右逆ですし、写真や録画ビデオは、まるで録音テープで自分の声を聞くような、ちょっと余所よそしい感じがします。他者に対する私の現臨は、私についての私の自覚とは必ずしも一致しません。

さらにやっかいなのは、「おもて」という言葉に宛てられる漢字「面」が示唆するように、顔は内面の感情を現わす〈表層〉であると同時に、内心を隠すための〈仮面〉でもあることです。明るい顔や暗い顔など、心を映し出す顔は「光」に関係する表現で形容されます。と同時に、いわゆるポーカーフェイスもあります。だから私たちは表情を読もうとします。表情の見えないコミュニケーション、例えば外国語で電話することなどは、かなりストレスです。互いを理解する上で、顔ないし表情はとても大切なのです。

では、神との関係において「顔」はどのような働きをするのでしょうか。興味深いことにヘブライ語で「神の前で」というとき、「神の顔に」「神の面で」と表現します。神は見えない存在であるというのに! 昇天したキリストの顔も、私たちはじかに見ることができません。いったいどのようにして、私たちは復活のキリストの現臨を実感できるのでしょうか?

II

はじめにパウロは「文字」と「霊」を対比させます。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(6節)――神の契約は今や「文字」でなく「霊」の本質をもつ、とは聖霊降臨によって開けた新しい認識です。

 神の「霊」とは、神が生きていることの表現です。神は、私たちの予想や能力の限界を超えた可能性を私たちに開きます。それゆえ人の「生」は本来、何らかの命題や教説によって固定化することができません。神の「契約」もまた、この人間の生を活かすものであるはずです。

 パウロは別の箇所で、復活のイエスを指して、イエスは「命を作り出す霊(風)になった」と言います(1コリント15,45参照)。ここで「霊は生かす」と訳されているのと同じ言葉の組み合わせです(ギリシア語で「プネウマ・ゾーオポイオーン」)。つまり「霊は生かす」とは復活のキリストがもたらす働きのことなのです。

 他方で「文字」とはこの霊の働きを封殺するものだと、とりあえず考えてよいでしょう。たしかに私たちの社会には、人間の価値を無慈悲に測定し、生きいきした交流を封殺するようなもの、例えば学歴や財力その他の、「優劣」という名の価値規準が溢れています。

III

 続いてパウロは「文字」の奉仕と「霊」の奉仕を対比させます。しかも前者はモーセ律法との関連で、そして後者はキリストとの関連で現れます(7-11節参照)。

 モーセの顔覆いに関するパウロの発言は、出エジプト記に出るひとつの故事に因んだものです(出エジプト記34,29節以下参照)。そもそも旧約聖書によれば、神(の顔)はあまりに聖であるため、それを直接見ると人は死ぬそうです(例えばイザヤ6,5)。しかしモーセは「顔と顔を合わせて」神と語り合っても死ななかった(出エジプト記33,11申命記34,10など)。そのモーセが神との出会いを終えて民族のところに戻ってくると、彼の顔の肌が――おそらく神の顔の光を受けて――光を放って輝いていました。それが眩しすぎたのでしょうか、民族に神の教えを伝えた後、もう一度神に会いに行くまでの間、モーセは顔に覆いをかけて暮していたという話です。

 大胆にもパウロはこの話の趣旨を逆転させて、モーセが「顔覆い」をかけていたのは、彼の顔の輝きがやがて色褪せ、光が減じてゆくのを民族に悟られないためであったと言います。なぜ、こんなに大それたことがパウロには言えたのでしょうか? それは命を作りだす霊である復活のイエスとの出会いを彼が経験し、そのことが彼の宗教観を一新したからであろうと思います。

 文字の奉仕(モーセ)も霊の奉仕(キリスト)もどちらも光輝きますが、キリストの霊が働くところでは、モーセがもたらした奉仕はその輝きを減じてしまった。霊の体験が、文字による啓示を「消え去るべきもの」「無効化されるべきもの」にしてしまった。新しいものが到来したために、古いものを古くしてしまった。

 この対比をユダヤ教とキリスト教という二つの宗教の優劣関係の意味に、つまりキリスト教はユダヤ教を凌駕した、より優れた宗教である、という意味に受けとるべきではありません。パウロはまだユダヤ教の内部にいるからです。これは同じ神を信じ続けているユダヤ教徒パウロの新境地についての発言です。じっさい彼自身が「なおさらいっそう」という比較級で語っています。

IV

 霊の契約に奉仕するという自覚をもつパウロは、「このような希望を抱いているので、私たちは確信に満ち溢れてふるまって」いると言います(12節)。新共同訳が「確信に満ちてふるまう」と訳す箇所は、原文では「大いなる大胆さを用いる」です。顔というモチーフとの関連では「大いにあけっぴろげに」、今の言葉でいえば「すっぴんのままで」という意味に理解することもできるでしょう。

 さらに「彼らの考えは鈍くなってしまいました」(14節)とある箇所も、光のモチーフにつなげて「暗くなった」と訳すことが可能です。「モーセの顔覆い」があるために、考えが現れるべき顔が「暗く」なってしまうのです。つまりこの段落でも、顔と光のイメージ使用は続いています。

 パウロは、自らはユダヤ人でありながら、会堂での律法の朗読を「古い契約の朗読」と呼び、しかもその朗読にさいして、人々の心に「覆い」が掛けられていると言います(14節)。他方で、自分たちはもはやそのようなことはしないと(13節)。

 そのようなことが言えるのは、パウロにとっての聖霊体験が、あたかもface to faceで神と対面するかのような新しい経験であるからでしょう。この出会いは死や恐れでなく安心と平和を、「あけっぴろげ」の生き方をもたらしました。「文字」の朗読で意味されているのは、おそらく戒めや禁令です。戒めや禁令は人間の行動力、実行力を要求します。人の行動を通して実行されて初めて、それらは現実性を獲得するからです。他方「霊」の働きは、新しい命の出会いと交流を生み出します。この働きは、戒めとは異なり、開かれた交流を受けとめて生きることで現実性に達します。――この差異経験を通して、会堂における聖書の扱いは、まさに「古い」「無効化されるべき」輝きしかもたない、心に「覆い」がかけられたようなものであることが、突如として明らかになったのだろうと思います。

だから、人の心が「主の方に転じるならば、覆いは(心の)周りから取り払われる」(16節)。じっさいそうされた自分たちは、大いに「あけっぴろげさ」を用いていると、パウロは言います(12節)。こうして神との関係において、また人との関係においても、「顔」は何かを押し止めたり、隠したりする場所ではなく、神の輝きが宿る場所になりました。

V

「主は霊である」(17節)――これが聖霊降臨におけるキリスト認識の核心です。さらに「そこに自由がある」とパウロは言います(18節)。命を作りだす霊の働きが、これをもたらす。古代の奴隷制社会にあって「自由」とは、まずは生命維持のための労働その他の活動の免除を意味しました。しかしこの文脈では、輝く顔というイメージが示すように、「自由」とは命の交流そのものを指しているでしょう。

 そしてパウロは、この交流の中で自分たちは「変身」(メタモルフォーシス)を遂げると言います。18節のギリシア語原文はとても難しく、何度読んでもよく分からないのですが、ひとつの可能性として次のように読めるように思います。すなわち、

他ならぬ私たちは皆、覆いのとられた顔で、主の輝きを同じかたちとして映しだしながら、輝きから輝きへと変身してゆく、霊の主から(発する働きのままに)。

こう読んでよいなら――もっとも別の意見がたくさんありますが――私たちの顔はキリストの光の反射板になります。私たちの顔の光は、霊なる主キリストの光の反映です。その輝きを互いに反射しつつ、私たちは栄光から栄光へと変身してゆく。つまり私たちは互いの顔、互いの眼差しの中に、命を作りだす霊になったキリストの輝きを見出し、互いに変えられてゆくのだと思います。これがパウロの聖霊降臨の解釈です。


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