2012.03.25

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「十字架の言葉」

廣石 望

エレミヤ書23,18-24 ; コリントの信徒への手紙一 1,18-31

 

I

 十字架は、社会一般にはどのように受けとめられているでしょうか? 十字架の図像化である十字形は――私たちに親しいのはクロスの下の部分がやや長い「ラテン十字」と呼ばれるものですが――地図では教会ないし墓地のマークです。さらに修道会や家の紋章、さまざまなキリスト教国の国旗、さらにはペンダントのデザインにも使われます。お守り・魔除けに使うこともあります。吸血鬼ドラキュラは十字架が苦手ですね。何れにせよ壮麗な礼拝堂の頂点に掲げられた白亜の十字架は、キリスト教式の結婚式などと相まって、美しくロマンチックな印象があると思います。

 ところがこうした十字架ないし十字形のイメージは、さきほど朗読したパウロの手紙における十字架とはまるで違います。今日は、パウロの理解する十字架が何であるかについて考えてみましょう。

 

II

 「十字架の言葉は、滅びる者にとっては愚かさであるが、救われる私たちにとっては神の力である」(18節)とパウロは言います。

 十字架の言葉は、それを聞いた人たちに二種類の反応を引き起こします。一方には「そんなバカな話があるか」という反応があり、他方には「これこそ救いだ」という反応がある。そしてこの言葉を受容する者には救いが、他方でこれを拒絶する者には滅びが与えられるというわけです。十字架の言葉は、こうして人々を二分します。

 さらに「愚かさ」と「神の力」の対立があります。一般には「愚かしい」としか見えないものを通して、神は救いをもたらすからです。したがって十字架の言葉には、世間で支配的な考え方や原理に対する異議申し立ての機能が備わっています。

 救われる者と滅びる者の区別を引き起こす機能、また世間の常識に反した逆説的な神の啓示という意味合いは、現代社会における一般的な「十字架」ないし「十字形」のイメージからは、広範囲に亘ってもはや失われてしまいました。

 もうひとつ重要な機能が、十字架の言葉にあります。「ユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を求めるが、私たちは十字架につけられたキリストを宣教する。ユダヤ人には躓き、異邦人には愚かさだが、招かれた者たちにとっては――ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと――神の力、神の知恵としてのキリストを」(22-24節参照)。ユダヤ人であるかギリシア人(異邦人の代表という意味です)であるかという民族対立を、十字架の言葉は超えます。言語や宗教、歴史や伝統に基づく自己理解や習慣の違いを無効化する機能が、イエスの十字架にあります。しかも「神の愚かさ」「神の弱さ」を通して、これが可能になると言われています。

 

III

 そもそも、なぜ十字架は愚かなのでしょうか? それは言うまでもなく、紀元1世紀の東地中海世界における十字架が、残酷極まりない拷問および処刑の道具だったからです。「十字架」と訳されるギリシア語「スタウロス」の原義は「杭」です。地面に打ち込まれた杭に体を縛りつけたり、あるいは両手を縛りつける横木と組み合わせて体をぶら下げたりして、見せしめの拷問と処刑を行いました。現代風に言えば、アウシュヴィッツ絶滅収容所の焼却炉跡のようなもの、と言えばよいかもしれません。十字架が「愚か」だというとき、そこには無意味さと並んで、惨たらしさ・おぞましさといった意味合いも含まれているように感じます。

 皆さんはローマのパラティーノの丘から出土した「ロバ神像」と呼ばれる、有名な落書きをご存知でしょうか? 十字架に磔にされた人物はロバの頭をしており、そのロバ神さまに向かって、一人の人物が挨拶をするかのように片手をあげています。この絵には「アレクサメノスが(彼の)神を拝む」という下手くそなギリシア語の解説がついています。ある異教徒が、アレクサメノスなるキリスト教徒に向けた、〈十字架刑に処された神を拝むなんて、ロバを拝むのと同じくらいバカバカしい〉という趣旨の悪口だろう、という学説があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexamenos_graffito 参照)

 何れにせよ、十字架は敗北のシンボルでしかありません。まさにその十字架が、パウロにおいては逆説的に神の知恵・神の力なのです。神の愚かさ・弱さとしての十字架は、常識的な神観念の転換を意味します。そしてその愚かさは、世の知恵よりも賢いのです。しかし異教との対立的状況の中で、二重否定としての「十字架」を救いとして提示することがいかに困難であったかを、「ロバ神像」の落書きは如実に示しています。

 

IV

 キリスト教徒にとっても、パウロが提示した緊張感に溢れる十字架理解を保持することは容易でありませんでした。すぐにこれとは別の十字架理解が生まれ、やがてキリスト教の伝統的な十字架理解の一部になりました。これを「勝利の十字架」と呼ぶことができると思います。十字架は、ごく単純に自分たちの勝利の徴なのです。

 その萌芽は、すでに新約聖書に見られます。パウロの名によって書かれてはいるものの、じっさいにはパウロではなく、パウロの権威を借りた別の誰かによって著述されたと推定される『コロサイの信徒への手紙』2章13-15節に、次のような文言が現れます。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

 この発言で重要なのは、次の二点です。すなわち一つ目は、ここで「証文を廃棄した」云々とあるのは、キリスト教がユダヤ教の祭儀律法を廃棄したという意味であること、そして二つ目は、そのことを表現するために、古代ローマ軍の凱旋行進が比喩として利用されていることです。

 古代ローマ軍は凱旋行進にさいして、「トロパイオン」(現代語「トロフィー」の語源です)と呼ばれる十字型の木製枠を使いました。そこに敵軍から剥ぎとった武具や軍旗その他の戦利品をつるして、見世物にしながら行進したのです。コロサイ書で使われた「十字架に釘付けにする」「武装解除」「勝利の列」また「さらしものにする」という表現は、明らかにそのトロパイオンの習慣を前提にしています。

 やがてイエスの十字架そのものが勝利のトロパイオンと見なされるようになりました。紀元3-4世紀に由来する都市ローマ出土の墓碑には、「汝、この標によって勝利すべし in hoc signo vinces」という文字の傍らに、さまざまな意匠の十字形が刻まれています。勝利すべき対象は「死」なのでしょう。この言葉は、紀元312年、コンスタンティヌス大帝がテヴェレ河畔の戦いに勝利するさいに見たという夢にも現れます。「この標」すなわち十字形を、従来のローマ軍の紋章である鷲に代えて、軍旗に掲げることでコンスタンティヌスは戦争に勝利しました。後の十字軍が、十字形の文様を軍旗にあしらったことは周知の通りです。

 イエスが吊るされた十字架は、歴史的には、おそらくT字形でした。それが今日の十字形に変化したきっかけは、もしかしたらローマ軍のトロパイオンであったかもしれません(古代キリスト教史家・保坂高殿氏の仮説)。

 神の愚かさとしての十字架(パウロ)と勝利の十字架(コロサイ書)のどちらも、キリスト教の伝統の中にあります。どちらがより適切な十字架理解でしょうか。私自身はパウロの逆説的な理解に強く惹かれます。

 

IV

 「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが神は、…世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた。それは誰ひとり、神の前で誇ることがないようにするためです。」(26-29節

 パウロはコリント教会の信徒たちが、キリスト教信仰に入ったときのことを思い起こさせます。そしてこの世で無に等しい者たちが、あえて神によって招かれたことの意味を強調します。そして、こう言います。

他ならぬ君たちがキリスト・イエスにあるのは神から来る。キリストは神の側から、私たちのために知恵となった。また義、聖、そして贖いと。こう書かれているようになるためだ、「誇る者は、主にあって誇るがよい」。(30-31節参照)

 自分でなく、主イエス・キリストにあって心安らかである――これはじっさいには大いなる解放です。洗礼を受けるとき、多くの人が「すべて神さまにお任せします」と信仰告白します。私の夢や願い、自分ではどうすることもできない問題を、すべての神の意志に委ねるという意味です。この告白は、自分の力で自分を証明しなければならない、という強迫観念からの解放です。それは同時に、自分でない人たち、とりわけ自分よりも弱い立場の人たちといっしょに生きてゆくという眼差しを与えられることでもあります。信仰は、愚かさであり続けるイエスの十字架を通して働く神の力を受けとり、それに応答することです。

 

V

 PSW(Psychiatric Social Worker)という職業をご存知でしょうか。「精神保健福祉士」と訳されます。心の病いが理由で入院した患者さんたちを、医師と家庭の間に立って伴走することで支える仕事です。

 私たちの教会にはその専門家がおられ、彼女が共著で公刊した書物に次のようなエピソードが出てきます。病院の目的は病気を治して社会に復帰させることにありますので、最初のうちは病状のよくなった患者さんを、もう一度ご家庭に戻そうとして、家族を必死になって説得していた。しかし、やがてその説得を諦めるようになったのだそうです。というのも、ご家族のこれまでの苦しみにふれ、患者さんとの暮らしはとても無理であるという気持ちに、心から共感できるようになったからなのだそうです。その後は、「いつも本人をとりまく現実を受け止めて」、伴走者として働くようになりました。しかし同時に、そうした「葛藤を自信や希望に変えてくれたのは、いつも彼ら自身の力強さや優しさだった」とあります(相川章子・田村綾子『かかわりの途上で』へるす出版)。

 患者さんの「力強さ」「優しさ」を経験することは、十字架につけられたキリストが神の弱さ・愚かさであることを通して、それに信頼する者にとっては神の知恵として働く、というパウロが発見した事柄につながっていると感じます。

 パウロによれば、イエスの十字架は人よりも賢い神の愚かさ、人よりも強い神の弱さです。十字架の言葉には、私たちの常識的な論理を逆転させる力があります。十字架の前では家柄や性別、学歴や社会身分、国籍や宗教などの違いは、人を差別してランク付けするという従来の機能を失います。

 イエスに従おうとする群れである私たちは、勝利のトロパイオンとしての十字架ではなく、この苦難の十字架理解を大切にしたいものです。


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