2012.01.08

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「水と霊」

廣石 望

イザヤ書44,1-8; マルコによる福音書1,2-13

 

I

 今日の主日は「顕現後第1主日」です。先週の1月6日が「顕現日」(エピファニア)と呼ばれる祭日で(「公現日」とも呼ばれます)、今日はその後の最初の日曜日です。西欧の教会では、12月24日の聖夜から1月6日までがクリスマスです。1月6日は「三人の博士の日」とも呼ばれ、異邦人世界にキリストが自らを公に現わした日とされます。

 「エピファニア(お現れ)」という祝日のはじまりは、紀元3-4世紀、コンスタンティノープルを中心とする東地中海世界の教会が、キリストの誕生祭(クリスマス)と洗礼祭を統合したことにあります。ローマを中心とする西側の教会が、12月25日をキリストの誕生祭と定めたのに対抗して、もとはそれぞれの地域教会ごとに、別々の日づけで祝われていた二つの祭りを統合したようです。しかし後には東方教会も、12月25日を誕生祭とする西側の習慣を受け入れ、1月6日をキリストの洗礼祭として単独で祝うようになりました。

 それで今日は、イエスの洗礼にまつわるテキストを選びました。

 

II

 原始キリスト教は「洗礼」を、洗礼者ヨハネの教団から採用しました。イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのは事実です。しかしそのイエスは、自らは洗礼を授けませんでした。では、かつてのイエスの弟子たちは、なぜ彼の死後になって初めて、イエスがかつて属していたヨハネ教団からこの儀礼を借用することにしたのか――この問いは、研究者の間でも、謎のままです。

 新約聖書に収められた諸文書の中で、一番早く成立したのはパウロ書簡です(紀元50年代)。しかしそこでも、「洗礼」は当然のこととして前提されています。例えば、次のような発言が現れます。

あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤの信徒への手紙4,6

 イエスが神に「アッバ/父よ」と祈ったことは、主の祈り(ルカ福音書11,2)そしてゲッセマネの祈り(マルコ福音書14,36)から知られています。神はそのイエスを死より起こし、神の「息子」として天上界に引き上げたと同時に、御子イエスのスピリットを私たちの心の中に送った。そのイエスの霊(息)を受けた信仰者たちは、イエスと同じように、神に向かって「父よ」と呼びかける――という意味だと思います。そして、このイエスの霊を受けることが、原始キリスト教では「洗礼」の儀礼と深く結びついています。

 ではいったい、そのイエスが洗礼を受けたとはどういうことなのでしょうか? また霊の洗礼を授けるイエスとは、いったい何者なのでしょうか? 信仰者にとって洗礼とは何を意味するでしょうか?

 

III

 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書の序文に当たり、その機能は、物語の主人公であるイエスを紹介することにあります。聖書引用(2-3節)と荒れ野のエピソード(12-13節)が前後の枠をなしていて、その中間に洗礼者ヨハネの活動(4-8節)とイエスの受洗(9-11節)が置かれています。

 もう少し具体的に言うと、「預言者イザヤ」の引用は、〈神が洗礼者ヨハネを、イエスの道備えをする露払い役として、イエスに先立って派遣する〉という趣旨です。それを受けてまず洗礼者ヨハネが登場し、自分の後に「私より強い者」すなわちイエスが現れると予言します。続いてイエスが登場してヨハネから洗礼を受けたとき、天の声がイエスを「私の愛する子」と宣言します。そして最後の荒れ野エピソードでは、神の「霊」を受けたイエスをサタンが試練にかける――そして明言されていませんが、失敗する――という内容です。

 そのさいたくさんの登場人物が次々に現れて、イエスについて証言します。古の偉大な預言者イザヤ、そして同時代のスーパースター洗礼者ヨハネ、さらには遥か上方の天空からイエスに向かって「私の息子」と語りかける神がおり、最後には人里離れた荒れ野に住むサタンまでが登場します。おまけに野の獣たちと天使たちもいます。これらの証言者たちすべてを通して、イエスが神霊を授けられた「神の子」であり、やがて彼を信じる者たちに「霊の洗礼」を授けるであろう――これが「イエス・キリストの福音の初め」を描いたマルコ福音書の主人公イエスです。

 イエスは受洗者から洗礼者へと変貌し、洗礼は「水」によるそれから「霊」によるそれに変わり、なおかつ洗礼は内容的にイエスが受けた「神」の霊から、信仰者に注がれる「御子」の霊へと変化します。そしてマルコ教会の人々は、これらの変化をぜんぶ知っているはずです。

 

IV

 ヨハネの洗礼は、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」であると言われます(4節)。――この箇所は、岩波訳では「〔もろもろの〕罪の赦しとなる回心の浸礼」です(佐藤研訳)。「回心」とは、「悔い改め」の原語「メタノイア」が〈思いを改める〉ことを意味するからです。また「浸礼(しんれい)」という独特の訳語は、ふつう「洗礼を授ける」と訳されるギリシア語動詞「バプティゾー」が「水に浸す」を意味し、その名詞化が「バプティスマ」だからです。

 同じ個所を本田哲郎氏は、「道の踏みはずしにゆるしをもたらす、低みから見なおさせる〈沈めの式〉」と訳します(『小さくされた人々のための福音』)。「悔い改め」「回心」を「低みから見なおす」と訳すのは本田訳の特徴のひとつです。

 さらに山浦玄嗣氏の翻訳では、この箇所は洗礼者の直接話法におきかえられています。すなわち、「お水を潜って心を切り換え、罪科〔つみとが〕で雁字搦め〔がんじがらめ〕のその心を解き放て!」(『ガリラヤのイェシュー』)。敷衍ふえん訳ですが、なかなか味わい深いですね。

 

V

 マルコ福音書に伝えられた洗礼者ヨハネのメッセージは、イエスの先駆者としての役割に集中しています。他方で、マタイ福音書とルカ福音書に共通して伝えられた洗礼者ヨハネの説教を見ると、ヨハネが終末の審判預言者であることが分かります(マタイ3,7-12; ルカ3,7-8.16-17)。

 審判は「差し迫った神の怒り」と呼ばれ、ヨハネより「後から来る」「より強い者」が執行する「火」の審判です(「火に投げ込む」「火で焼き払う」というイメージ)。この審判の前では、「われわれの父祖はアブラハムだ」というイスラエルの民族特権すらも否定されます。それでもヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と要求し、洗礼はその「悔い改めに導くため」であるようです。

 こうした発言の前提は、現在のイスラエルが罪の中にあるという認識です。そのとき〈水に沈める〉という象徴行為は、〈死の先取り〉を意味したでしょう。絶滅的な「火」の審判に直面して、いま「水」に沈められて溺死することにより、新しく生まれ変わろうとしたのです。死んだ者はもはやその罪を問われないと考えられていたからです。

 日本にいう「水」の〈お清め〉は、私に付着した穢れを洗い落とすことですが、ヨハネの〈沈めの式〉はいったん私を滅ぼすためです。すると「悔い改め」も、かつての悪い習慣を止めるというより、いったん死(水)をくぐり抜けた者の再生を意味するでしょう。

 日本の禅仏教でも「大死(だいし)一番」、大いなる死を死ぬことが肝心だという教えがあります。

ことことく死人(しびと)となりてなりはてて、おもひのままにするわさぞよき

 至道無難禅師という17世紀の禅僧の歌だそうです(佐藤研『はじまりのキリスト教』86-7頁より)。

 いずれにせよヨハネの洗礼を受けた生前のイエスは、いったん罪の自分に死ぬという経験をしたのだと思います。後のキリスト教は、救済者イエスの「無罪性」を主張しますが(すでに2コリント5,21)、私には深い罪の自覚をもつイエスが、やがて救済者として信じられるに至るというのは、大いにありうることと思われます。

 

VI

 そのイエスについて、マルコ福音書の洗礼者ヨハネは、「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(8節)と預言します。直訳すれば、「私は君たちを水で沈めたが、かの者は君たちを聖なる霊の中で沈めるだろう」です。先に紹介した山浦訳はこうです。「このわしはただ水を潜らせているだけなれど、そのお方の潜り抜けさせて下さるその先では神さまの尊〔たっと〕い息がそなたらを包む」。

 ヨハネの洗礼は「水」によるが、イエスの洗礼は「霊」によるというわけですが、マルコが描く受洗者イエスの姿を見ると、「水」と「霊」は必ずしも排他的な関係にはありません。ヨルダン川から上がったイエスは、「天(複数)が裂けて霊が鳩のように彼に降ってくるのを見た」のであり、そのとき天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が響いたとあります。つまり「水」と「霊」は厳密には前後関係に、あるいはじっさいには同時といってよいでしょう。おそらくここでは、「水」を用いることで「霊」の注ぎを象徴させる原始キリスト教における洗礼の儀礼が、すでに念頭に置かれているのではないでしょうか。つまりマルコが描く受洗者イエスの姿は、キリスト教会の受洗者の姿を映し出しています。すると、「霊」の降臨を受けたイエス自らが、受洗者を「聖霊」の中に浸すことになるでしょう。

 

VII

 最後に〈荒れ野のイエス〉のエピソードを見てみましょう。サタンの誘惑については、これまたマタイ福音書とルカ福音書の方に、サタンとの対話を含む有名な誘惑物語が伝えられています(マタイ4,1-11; ルカ4,1-13)。しかしマルコ福音書では、そこで何があったのかは語られません。「サタンから試みられた」とあるだけです。さらに状況描写として、イエスが「野獣たち」とともにいた、「天使たち」がイエスに「仕えた」とあります。

 野獣たちの存在は、何を意味するのでしょうか? イエスが無防備で危険に晒されていたという意味なのか、それとも「狼は子羊とともに宿り…」という平和状態(イザヤ11,6)が実現していたと言いたいのか、何とも分かりません。他方で天使たちの奉仕は、イエスの身の安全と食糧の供給を暗示しているようです。――注目されるのは、ここにはもはや「火で焼き払う」という審判の要素がないことです。

 これまで私たちは、受洗者としてのイエスが罪の自覚をもつ者であると同時に、霊の注ぎを受けた「神の息子」であること、他方、洗礼者としてのイエスが神の霊の中に信仰者を浸すことを見てきました。

 するとこう考えることはできないでしょうか? ――洗礼を通して、御子イエスの霊を受け、神に向かって共に「アッバ、父よ」と呼びかける私たちも、イエスと同様に、サタン(悪)の試練に晒される。人として生きる苦しみ、事故や病気などの災難、また社会差別や戦争などの苦難は、信仰者にも襲いかかる。霊の洗礼を受けることは、それらからの防御を意味しない。それでも神の天使たちが、荒れ野のイエスを守ったように、私たちのそばにいて私たちを支える。そのとき「野獣たち」は、私たちの周囲にあって私たちの思い通りにならないもの――自然とか敵対者とか――として、私たちと「ともにある」と。マルコ福音書の描く〈荒れ野のイエス〉は、洗礼を受けて信仰の道を歩む私たちが出会う試練と、それでも与えられる守りと仲間たちを暗示しているように感じられます。

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